「嘘だ、嫌だ、シンイリーーーーーー」
スローモーションに地が迫り、シンイリと僕を飲み込んでいく。体に強い衝撃が走り苦痛に顔を歪めた。朦朧とする意識の中、ただ、ぼんやりとあすみちゃんひとりになっちゃうなって思った。
僕は最期まで偽善的でひとりよがりで、結局誰のことも守れなかった――。
意識が遠のき、どれくらい経っただろう、頭と体が回転していく感覚を覚える。目が回ってしまいそうな勢いで大きく回転する体。
遠心力についていけずどこかに掴まっていなければ放り出されてしまいそう。だけど左右上下どこにも掴む場所なんてない。
青でも灰でもなかったら空はいつの間にか見慣れた青を取り戻していた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
回転は速くなり僕は目を瞑る。
ハッと気づいた時、僕は違和感を覚えた。
それは体の痛みに、聞こえてくる喧騒に、そして視界に映る風景に。
体に痛みはない。これが死ぬということなのか?
両手を見る。傷もない。死ぬと生きていた頃と同じような体になるのか?
雑踏の中、騒がしい周りに目をやる。
「間もなく三番線に電車が到着します。危ないですから黄色い線までお下がりください」
僕は瞬いをする。
「あっ」
その時だった。
声の方向を向くとなにやら大勢の人が黒猫の周りを囲っている。
シンイリ?
僕の心臓がとくんと揺れる。
「シンイリ……」
そのまま視線を上にずらす。
猫の捕獲に乗りだしている女の子がいる。
「あすみちゃん!」
あすみちゃんは猫に必死で、その上周りのこの喧騒、僕の声は聞こえない。
出勤前のスーツを着たサラリーマンたちが各々の場所に配備される。
打ち合わせもなにもなくだ。
僕も隙間になりそうな場所に入る。
あすみちゃんがゆっくりと近づく。シンイリに逃げる様子はない。
あの時と同じだ。
あの時と同じシチュエーション。なぜだろう。
戻ったのか?
あっさりとあすみちゃんの胸に収まるシンイリ。
駅のホームのあちらこちらから歓喜の拍手が流れる。
同じだ。
生きている。
あすみちゃんもシンイリも生きている。
坂崎は? おじさんは? 無事なのか?
僕は慌ててポケットからスマホを取り出す。
あの日の日付だ。
戻っている。
ということはこのホームの向こう側、いるはずだ。モナがこちらを見ているはずだ。僕は顔を上げモナを探そうと思った。
だけど
やめた。
モナ、僕は君に出会うのをやめるよ。
君と僕は出会ってはいけない世界線に生きていたんだよね。
君と過ごした一ヶ月、楽しいことばかりではない、不安だったり怖かったりそんなことばっかりだったんだけど、それでも幸せだったんだ。
初めて恋を知った十八の秋を僕は一生忘れないよ。
おっちょこちょいのモナ、大丈夫かな?
今度は上手くやれるだろうか?
心優しいモナのことだから何日も何週間も下手したら何ヶ月も何年も誰とも目が合わせられなくてジョウシやセンパイに怒られる、なんてのも目に浮かぶ。
なんだか想像に容易くてふっと笑みがこぼれる。
そしたら無性にモナに会いたくなった。視線を上げればモナがいる。
僕の胸は掻きむしられたくらい強く痛む。
僕の記憶はなくなるはずだった。僕に記憶をくれたのはあの死神さんだろうか、あの人あんな見た目して優しかったし。
きっとモナの記憶は消したんじゃないかな?
そんな気がする。あの死神さんならそうする気がする。
それならモナは寂しくないね。
頑張ってベテランになってくれ。
死神ってのは殺す神ではないと思う。
最近僕はそう思うんだ。
それはモナのことだったり、ジョウシやセンパイを見ていて思った。
人って死ぬ時はいつだってひとりきり。それってとても寂しいことだよね。
僕はそう思っているんだ。
それってちょっと怖いなって。
“生まれる時も死ぬ時も所詮人間はひとり”
なんて言葉がある。
生まれる時は誰かが出迎えていてくれるしひとりってイメージはなかったんだけど、死ぬ時ってお見送りをしてくれることはあってもその先ひとりなんじゃないかなって思う。
いつか僕がおじいちゃんになって、たとえば僕に見送ってくれる人がいるとして、ゆっくりと心拍数や心電図が表示されているあのモニターの線が乱れ出して、そして直線を描く時、機械音が壊れたかのように同じ音だけ奏でる時、誰かに囲まれて旅立てたとしても所詮ひとりなんだよ、それって寂しいと思わない?
そこからはひとりでどこかにいかないとならないんだ。
僕はどこに行けばいいの?
誰に聞けばいいの?
その案内人が死神さんなんじゃないかと思う。
もしもそうだとしたらきっと僕が死ぬ時、モナに出会えると思う。あの死神さんがきっと僕の時にはモナに行けって言ってくれると思うんだ。
そしたら案内してね。
そう思うと死ぬのが怖くなくなるよ。
そんなの保証のないミライだけどさ、だけど僕は信じて生きていこうと思う。
いつかまた会える日がくるなら、僕は君とは出会わない。
もう一度やり直しさせてもらえたことには意味があると思う。僕が生きる意味だ。
「あの」
「はい」
「その子、助けてくれてありがとうございます」
「あ、あなたの猫だったんですか? よかった、飼い主さん探さなきゃって思ってたんですよ」
「はい、僕の猫です」
僕はシンイリを胸に抱いた。
安心しきった顔でゴロゴロと鳴いている。
「可愛いですね、お名前は?」
家に帰ったらなんて説明しよう。
また前のように上手く飼うことができるかな?
「シンイリっていうんですよ」
「シンイリ?! 新入りってことですか? 新しく入る、みたいな」
「そうです」
あすみちゃんはあははと目を細めて笑った。
「僕の大切な命です」
「大切な命……か。子どもみたいですね」
「僕の子どもですよ」そう言うとあすみちゃんは俯きお腹に手を当てた。「助けてくれてほんとにありがとう」
あすみちゃんは首を横に振る。
「じゃあ私これで」
「はい」
あすみちゃんは電車に乗り込んだ。
僕はあすみちゃんに背を向ける。
僕たちは別々の道を歩き出す。
「シンイリー、今日学校サボっちゃおうか」
「ふぁー」
「坂崎に会いに行く?」
「にゃー」
シンイリを抱えたままじゃ電車には乗れない。
それに坂崎の家は駅からはすぐだ。
坂崎がまだちゃんと生きていることを知りたい。自分の目で確かめたい。
僕は坂崎の家に向かいインターホンを鳴らす。
「はい」
おばさんが出てきた。あの日の病院の悲痛な面持ちのおばさんとかぶり目頭が熱くなる。
「坂崎くんいますか?」
「あら! 比嘉くん。来てくれたの? ありがとね、いるわよちょっと待ってね」
おばさんは嬉しそうな顔をして振り返る。家の中におばさんの声が響く。
しばらくしておばさんが戻ってきた。
「ごめんなさいね、いるにはいるんだけど、出てきたくないって」
「そうですか」
僕は坂崎がちゃんとこの家にいるってことが嬉しくなって口角が上がりそうになった。そんな顔を見られたら不審がられると思ったから下を向きそれを隠した。
「いや、違うの、比嘉くんだからとかじゃなくて、あの子誰にでもそうなの、比嘉くんに会いたくないわけじゃないの」
僕の俯きが誤解を与えてしまったようだから慌てて顔を上げた。
「あ、いや、大丈夫です、また来ますね」
「ほんと? ありがとね」
家を出て振り返る。二階のカーテンが揺れる。
その隙間から坂崎の顔が見えた。
「よお」
僕は手を挙げる。
「なにそれ」
「え? なに?」
「その持ってる黒いのなに?」
シンイリに食いついた坂崎に僕の顔は綻ぶ。
「ふっ、これか? 見に下りてこいよ」
「その手には乗らねーよ」
坂崎が唇を尖らす。
「猫だよ! 飼ったんだ」
「え? 猫?」
坂崎は身を乗り出してシンイリのことを見ようとした。
「まー、また気が向いたら会いに来いよ、シンイリっていうんだ」
「おう」
「じゃあ、またな」
「なー、比嘉」
「んー?」
「お前なんで俺のとこ来てくれたんだ?」
愚問だよ。心でそう呟きふっと笑った。
「友達だからだよ」
そう言うと坂崎は「お、おう」とかなんとか恥ずかしそうに返した。
「待って、比嘉くん」
「はい?」
おばさんがドアから出てきた。坂崎はすぐにカーテンを閉め部屋の中に戻る。
「これ持ってって」
「え、いいんですか?」
「いいのいいの、お昼に食べて」
「ありがとうございます、いただきます」
「可愛い子ね」
「シンイリっていうんです」
「シンイリちゃん! シンイリくん?」
「シンイリちゃんです」
おばさんは眦を下げてシンイリを撫でる。
「あの子も猫が好きなのよ」
「そうなんですか」
「さぁさ、学校の時間よね、あなた間に合う?」
「え? へへ、あはは、すぐ行きます」
「行ってらっしゃい」
僕は歩きだす、坂崎の部屋を見るとまたカーテンは揺れていた。坂崎の心を映しているようだ。
「さーて、シンイリ、次はおじさんに会いに行く?」
返事はない。
歩く度に揺れる振動、この揺れが気持ちいいのかシンイリはぐっすりと夢の中だ。それにしても本来警戒心が強いといわれる猫がこんな外で初めて会った俺によくこんな心開くな。
そう思ったけどもしかしたら初めて会ったんじゃないかもしれないとも思い感慨深くなった。
公園に着く。おじさんはそこにはいなかったけどおじさんの形跡がそこにはあった。
胸がじんわりと熱くなる。
ここにおじさんがいる。
僕はベンチに座り膝にシンイリを乗せてさっき坂崎のおばさんからもらった袋を開けた。
中にはパン屋で買ったような焼きそばパンとクリームパンが入っていた。
お昼にはまだ早いけどお腹が空いちゃったしいただくとしよう。
袋に手を入れ取り出そうとした瞬間だった。
「お兄ちゃん」
どくん、と心臓が揺れた。
ゆっくりと振り返る。
おじさんが立っている。
「はい?」
僕は平静を装い至って普通に声を出す。
「それ、くれよ」
僕は泣きそうになった。声を出して泣きたかった。子どものようにわんわんと声を出して。
「どれがいい?」
そう言って焼きそばパンとクリームパンを出した。
「おう、いいのか? ありがとな」
「焼きそばパンとクリームパン、どっちにする?」
「そうだなー」おじさんは雑に生えた髭を触りしばらく悩んだあと「こっちにする」と言ってクリームパンを取った。
「どうぞ」
「俺は甘いもんが好きなんだ」
そう言って汚れた顔を崩して笑った。
突然シンイリがムクっと立ち上がりパンを狙いだした。さっきまでおとなしかったのに。ヒクヒクと鼻を膨らましパンに近づく。
「ちょっ、シンイリ、あとでおやつあげるから待ってね」
僕は慌ててパンを口に放り込む。
「猫ちゃん、腹減ったか」
「ニャー」
「ひゃっひゃ、返事してらぁ、可愛いな」
「おじさん、僕もう行くよ」
一気に口に入れたから胸に詰まりそうなパン、食道を拳で何回か叩いて下におろす。
「おう、ありがとな、なんかあったかな」
そう言っておじさんは鞄の中をガサゴソと漁る。
「いらないよ、じゃあね」
僕は嬉しさと涙をおじさんに見せたくなくて、急いでその場から離れた。
ねぇモナ、僕はまたこんな感じで生きているよ。
モナもどこかにいるよね。
いつかどこかで会えるまで
さようなら。
僕は家に向かって歩きだす。
もしも明日あすみちゃんがの体調が悪いならば、僕はあすみちゃんに水をあげる。
もしもあすみちゃんがお母さんの彼氏に追い出されたなら僕はそれを解決するために動く。
もしも明日坂崎が学校に来たなら一緒にファミレスにご飯でも食べに行く。
もしもおじさんがあの場所から追い出されるようなことがあれば、僕はおじさんと一緒に新しい家を探す。
全てがうまくいくかはわからないけど、僕は僕にできることをひとつずつやっていくよ。
それと、もうシンイリとは離れない。
これは約束する。
そして僕はもう少し勉強を頑張って目標としていた大学に合格する。きっと。
希望のあるミライがきっとこの先にあるから、僕は前を向く。
いつかまた会える日が来るのなら、僕は君とは出会わない
了
スローモーションに地が迫り、シンイリと僕を飲み込んでいく。体に強い衝撃が走り苦痛に顔を歪めた。朦朧とする意識の中、ただ、ぼんやりとあすみちゃんひとりになっちゃうなって思った。
僕は最期まで偽善的でひとりよがりで、結局誰のことも守れなかった――。
意識が遠のき、どれくらい経っただろう、頭と体が回転していく感覚を覚える。目が回ってしまいそうな勢いで大きく回転する体。
遠心力についていけずどこかに掴まっていなければ放り出されてしまいそう。だけど左右上下どこにも掴む場所なんてない。
青でも灰でもなかったら空はいつの間にか見慣れた青を取り戻していた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
回転は速くなり僕は目を瞑る。
ハッと気づいた時、僕は違和感を覚えた。
それは体の痛みに、聞こえてくる喧騒に、そして視界に映る風景に。
体に痛みはない。これが死ぬということなのか?
両手を見る。傷もない。死ぬと生きていた頃と同じような体になるのか?
雑踏の中、騒がしい周りに目をやる。
「間もなく三番線に電車が到着します。危ないですから黄色い線までお下がりください」
僕は瞬いをする。
「あっ」
その時だった。
声の方向を向くとなにやら大勢の人が黒猫の周りを囲っている。
シンイリ?
僕の心臓がとくんと揺れる。
「シンイリ……」
そのまま視線を上にずらす。
猫の捕獲に乗りだしている女の子がいる。
「あすみちゃん!」
あすみちゃんは猫に必死で、その上周りのこの喧騒、僕の声は聞こえない。
出勤前のスーツを着たサラリーマンたちが各々の場所に配備される。
打ち合わせもなにもなくだ。
僕も隙間になりそうな場所に入る。
あすみちゃんがゆっくりと近づく。シンイリに逃げる様子はない。
あの時と同じだ。
あの時と同じシチュエーション。なぜだろう。
戻ったのか?
あっさりとあすみちゃんの胸に収まるシンイリ。
駅のホームのあちらこちらから歓喜の拍手が流れる。
同じだ。
生きている。
あすみちゃんもシンイリも生きている。
坂崎は? おじさんは? 無事なのか?
僕は慌ててポケットからスマホを取り出す。
あの日の日付だ。
戻っている。
ということはこのホームの向こう側、いるはずだ。モナがこちらを見ているはずだ。僕は顔を上げモナを探そうと思った。
だけど
やめた。
モナ、僕は君に出会うのをやめるよ。
君と僕は出会ってはいけない世界線に生きていたんだよね。
君と過ごした一ヶ月、楽しいことばかりではない、不安だったり怖かったりそんなことばっかりだったんだけど、それでも幸せだったんだ。
初めて恋を知った十八の秋を僕は一生忘れないよ。
おっちょこちょいのモナ、大丈夫かな?
今度は上手くやれるだろうか?
心優しいモナのことだから何日も何週間も下手したら何ヶ月も何年も誰とも目が合わせられなくてジョウシやセンパイに怒られる、なんてのも目に浮かぶ。
なんだか想像に容易くてふっと笑みがこぼれる。
そしたら無性にモナに会いたくなった。視線を上げればモナがいる。
僕の胸は掻きむしられたくらい強く痛む。
僕の記憶はなくなるはずだった。僕に記憶をくれたのはあの死神さんだろうか、あの人あんな見た目して優しかったし。
きっとモナの記憶は消したんじゃないかな?
そんな気がする。あの死神さんならそうする気がする。
それならモナは寂しくないね。
頑張ってベテランになってくれ。
死神ってのは殺す神ではないと思う。
最近僕はそう思うんだ。
それはモナのことだったり、ジョウシやセンパイを見ていて思った。
人って死ぬ時はいつだってひとりきり。それってとても寂しいことだよね。
僕はそう思っているんだ。
それってちょっと怖いなって。
“生まれる時も死ぬ時も所詮人間はひとり”
なんて言葉がある。
生まれる時は誰かが出迎えていてくれるしひとりってイメージはなかったんだけど、死ぬ時ってお見送りをしてくれることはあってもその先ひとりなんじゃないかなって思う。
いつか僕がおじいちゃんになって、たとえば僕に見送ってくれる人がいるとして、ゆっくりと心拍数や心電図が表示されているあのモニターの線が乱れ出して、そして直線を描く時、機械音が壊れたかのように同じ音だけ奏でる時、誰かに囲まれて旅立てたとしても所詮ひとりなんだよ、それって寂しいと思わない?
そこからはひとりでどこかにいかないとならないんだ。
僕はどこに行けばいいの?
誰に聞けばいいの?
その案内人が死神さんなんじゃないかと思う。
もしもそうだとしたらきっと僕が死ぬ時、モナに出会えると思う。あの死神さんがきっと僕の時にはモナに行けって言ってくれると思うんだ。
そしたら案内してね。
そう思うと死ぬのが怖くなくなるよ。
そんなの保証のないミライだけどさ、だけど僕は信じて生きていこうと思う。
いつかまた会える日がくるなら、僕は君とは出会わない。
もう一度やり直しさせてもらえたことには意味があると思う。僕が生きる意味だ。
「あの」
「はい」
「その子、助けてくれてありがとうございます」
「あ、あなたの猫だったんですか? よかった、飼い主さん探さなきゃって思ってたんですよ」
「はい、僕の猫です」
僕はシンイリを胸に抱いた。
安心しきった顔でゴロゴロと鳴いている。
「可愛いですね、お名前は?」
家に帰ったらなんて説明しよう。
また前のように上手く飼うことができるかな?
「シンイリっていうんですよ」
「シンイリ?! 新入りってことですか? 新しく入る、みたいな」
「そうです」
あすみちゃんはあははと目を細めて笑った。
「僕の大切な命です」
「大切な命……か。子どもみたいですね」
「僕の子どもですよ」そう言うとあすみちゃんは俯きお腹に手を当てた。「助けてくれてほんとにありがとう」
あすみちゃんは首を横に振る。
「じゃあ私これで」
「はい」
あすみちゃんは電車に乗り込んだ。
僕はあすみちゃんに背を向ける。
僕たちは別々の道を歩き出す。
「シンイリー、今日学校サボっちゃおうか」
「ふぁー」
「坂崎に会いに行く?」
「にゃー」
シンイリを抱えたままじゃ電車には乗れない。
それに坂崎の家は駅からはすぐだ。
坂崎がまだちゃんと生きていることを知りたい。自分の目で確かめたい。
僕は坂崎の家に向かいインターホンを鳴らす。
「はい」
おばさんが出てきた。あの日の病院の悲痛な面持ちのおばさんとかぶり目頭が熱くなる。
「坂崎くんいますか?」
「あら! 比嘉くん。来てくれたの? ありがとね、いるわよちょっと待ってね」
おばさんは嬉しそうな顔をして振り返る。家の中におばさんの声が響く。
しばらくしておばさんが戻ってきた。
「ごめんなさいね、いるにはいるんだけど、出てきたくないって」
「そうですか」
僕は坂崎がちゃんとこの家にいるってことが嬉しくなって口角が上がりそうになった。そんな顔を見られたら不審がられると思ったから下を向きそれを隠した。
「いや、違うの、比嘉くんだからとかじゃなくて、あの子誰にでもそうなの、比嘉くんに会いたくないわけじゃないの」
僕の俯きが誤解を与えてしまったようだから慌てて顔を上げた。
「あ、いや、大丈夫です、また来ますね」
「ほんと? ありがとね」
家を出て振り返る。二階のカーテンが揺れる。
その隙間から坂崎の顔が見えた。
「よお」
僕は手を挙げる。
「なにそれ」
「え? なに?」
「その持ってる黒いのなに?」
シンイリに食いついた坂崎に僕の顔は綻ぶ。
「ふっ、これか? 見に下りてこいよ」
「その手には乗らねーよ」
坂崎が唇を尖らす。
「猫だよ! 飼ったんだ」
「え? 猫?」
坂崎は身を乗り出してシンイリのことを見ようとした。
「まー、また気が向いたら会いに来いよ、シンイリっていうんだ」
「おう」
「じゃあ、またな」
「なー、比嘉」
「んー?」
「お前なんで俺のとこ来てくれたんだ?」
愚問だよ。心でそう呟きふっと笑った。
「友達だからだよ」
そう言うと坂崎は「お、おう」とかなんとか恥ずかしそうに返した。
「待って、比嘉くん」
「はい?」
おばさんがドアから出てきた。坂崎はすぐにカーテンを閉め部屋の中に戻る。
「これ持ってって」
「え、いいんですか?」
「いいのいいの、お昼に食べて」
「ありがとうございます、いただきます」
「可愛い子ね」
「シンイリっていうんです」
「シンイリちゃん! シンイリくん?」
「シンイリちゃんです」
おばさんは眦を下げてシンイリを撫でる。
「あの子も猫が好きなのよ」
「そうなんですか」
「さぁさ、学校の時間よね、あなた間に合う?」
「え? へへ、あはは、すぐ行きます」
「行ってらっしゃい」
僕は歩きだす、坂崎の部屋を見るとまたカーテンは揺れていた。坂崎の心を映しているようだ。
「さーて、シンイリ、次はおじさんに会いに行く?」
返事はない。
歩く度に揺れる振動、この揺れが気持ちいいのかシンイリはぐっすりと夢の中だ。それにしても本来警戒心が強いといわれる猫がこんな外で初めて会った俺によくこんな心開くな。
そう思ったけどもしかしたら初めて会ったんじゃないかもしれないとも思い感慨深くなった。
公園に着く。おじさんはそこにはいなかったけどおじさんの形跡がそこにはあった。
胸がじんわりと熱くなる。
ここにおじさんがいる。
僕はベンチに座り膝にシンイリを乗せてさっき坂崎のおばさんからもらった袋を開けた。
中にはパン屋で買ったような焼きそばパンとクリームパンが入っていた。
お昼にはまだ早いけどお腹が空いちゃったしいただくとしよう。
袋に手を入れ取り出そうとした瞬間だった。
「お兄ちゃん」
どくん、と心臓が揺れた。
ゆっくりと振り返る。
おじさんが立っている。
「はい?」
僕は平静を装い至って普通に声を出す。
「それ、くれよ」
僕は泣きそうになった。声を出して泣きたかった。子どものようにわんわんと声を出して。
「どれがいい?」
そう言って焼きそばパンとクリームパンを出した。
「おう、いいのか? ありがとな」
「焼きそばパンとクリームパン、どっちにする?」
「そうだなー」おじさんは雑に生えた髭を触りしばらく悩んだあと「こっちにする」と言ってクリームパンを取った。
「どうぞ」
「俺は甘いもんが好きなんだ」
そう言って汚れた顔を崩して笑った。
突然シンイリがムクっと立ち上がりパンを狙いだした。さっきまでおとなしかったのに。ヒクヒクと鼻を膨らましパンに近づく。
「ちょっ、シンイリ、あとでおやつあげるから待ってね」
僕は慌ててパンを口に放り込む。
「猫ちゃん、腹減ったか」
「ニャー」
「ひゃっひゃ、返事してらぁ、可愛いな」
「おじさん、僕もう行くよ」
一気に口に入れたから胸に詰まりそうなパン、食道を拳で何回か叩いて下におろす。
「おう、ありがとな、なんかあったかな」
そう言っておじさんは鞄の中をガサゴソと漁る。
「いらないよ、じゃあね」
僕は嬉しさと涙をおじさんに見せたくなくて、急いでその場から離れた。
ねぇモナ、僕はまたこんな感じで生きているよ。
モナもどこかにいるよね。
いつかどこかで会えるまで
さようなら。
僕は家に向かって歩きだす。
もしも明日あすみちゃんがの体調が悪いならば、僕はあすみちゃんに水をあげる。
もしもあすみちゃんがお母さんの彼氏に追い出されたなら僕はそれを解決するために動く。
もしも明日坂崎が学校に来たなら一緒にファミレスにご飯でも食べに行く。
もしもおじさんがあの場所から追い出されるようなことがあれば、僕はおじさんと一緒に新しい家を探す。
全てがうまくいくかはわからないけど、僕は僕にできることをひとつずつやっていくよ。
それと、もうシンイリとは離れない。
これは約束する。
そして僕はもう少し勉強を頑張って目標としていた大学に合格する。きっと。
希望のあるミライがきっとこの先にあるから、僕は前を向く。
いつかまた会える日が来るのなら、僕は君とは出会わない
了