「この度はありがとうございます。美羽と2人で生きていく覚悟がつきました」

 私がふと我にかえると、漆原茜が目の前に座っていた。

 私は無意識のうちに漆原茜と待ち合わせ場所のカフェについていたようだ。
 時差ボケで目の下にクマがある以外は、相変わらず美しい彼女だった。

 しかし、まるで全てが終わってスッキリしたような顔をしているのが引っ掛かる。

(終わってなんかいない、美羽ちゃんが本当に苦しいのはこれからなのに!)

「いえ⋯⋯それよりも美羽ちゃんの心のケアをお願いします」

 私の言葉に漆原茜さんがキョトンとした顔をする。

 私は彼女を買い被りすぎてたかもしれない。

 仕事に必死で、子供の為に夫の不倫に耐える自分が1番きつかったと考える女だったらガッカリだ。
 1番辛かったのは知っているのに知らないふり、子供なのに子供でいられないような場面を見せられた美羽ちゃんだ。

「茜さん、離婚するの遅すぎです。3歳だから何も分からないと思ってませんか?」

 私は自分が漆原茜の依頼に肩入れするのは、頑張っている彼女を応援したいからだと思っていた。
 でも、本当は3歳の漆原美羽ちゃんにかつての自分を見ているからだと今になって気がついた。

「えっ! どういうことですか?」
茜さんは一言発したあと、私の後ろを見て驚いた顔をした。

「見つけた! あんたそんな格好をしているけどバレているのよ! 山田真希! よくも、ウェブカメラなんてつけてくれたわね」

 後ろを見ると、鬼のような形相の鈴木佳奈がいた。

「保育のサービスを充実させただけですよ。今、色々な保育園が導入しているサービスです」

「何も、給湯室にカメラを設置させることはないでしょ」

「保育室に誰もいないで、保育士が給湯室でたむろっているのを保護者の方がどう思われるか意見を聞こうと思っただけです」
 鈴木佳奈は私の胸ぐらを掴んで殴りかかろうとしてきた。

「カームダウン! 落ち着いて、佳奈さん。漆原茜さんから慰謝料請求の内容証明は届きましたか? 今、目の前にいるので200万円払ってしまってはいかがです?」

「はあ、何言ってるの? 200万円なんて払える訳ないじゃない」

 鈴木佳奈は完全に興奮状態だ。
 簡単に不倫をして良い気になってる馬鹿女は、やっぱり無責任だ。

「26歳で200万円の貯金もできないくせに、不倫なんかしちゃいけませんよ。私があなたなら、今すぐSSR東京銀行の新宿支店に行って佐々木英樹を訪ねます」

「英樹のやつ! あいつも私を騙していたんだ。そう、私も被害者なのよ」

 急に被害者づらして訴えてくる鈴木佳奈にため息が漏れた。
 今ここにいる漆原茜さんから見れば、彼女は完全な加害者だ。

「彼の新宿支店の銀行口座には3500万円ほど入っていました。奥さんのご実家からの援助もくすねて貯金していたようですね。彼のへそくりです。結婚していることを隠していたのだから、訴えると主張して200万円程そこからお金を頂いてきてください。そして、漆原茜さんに一括返済するのがおすすめです」

 SSR東京銀行に潜入した際に、佐々木英樹の口座については照会させて頂いた。

 彼にどの程度支払い能力があるのかを確認しておきたかったからだ。
「はあ? 山田真希! 私こそ、あんたを訴えたいだけど。あんたのせいで仕事も失ったし、ネットに晒されるし最悪よ」

「前の保育園でも不倫して、とんずらしたことも晒されてましたね。ところで、私は何の罪で訴えられるのでしょうか?」

 私が冷ややかに言った言葉に、鈴木佳奈は押し黙ってしまった。

「大丈夫ですよ、佳奈さん。今の勤務先近くの風俗店に転職すればいいじゃないですか。顔を晒されて保育士としては難しくなりましたが、風俗店では有名元保育士として活躍できますよ。趣味と実益を兼ねてて佳奈さんにピッタリの仕事です」

 私の言葉に、頭に血が上ったように鈴木佳奈の顔が真っ赤になった。

「あんたバカにしてんの!」
「バカにしてません。佳奈さん、私はあなたのこと最低なクズだと思っています。そんなクズでもピッタリの仕事があるからと、最後のお情けでお教えしてあげたんです。この不倫をあなたは軽く考えてますね。私はあなたは20年後もこの不倫をしたことを後悔し続け、懺悔する人生を送ることになると思います」

 私の言葉が理解できないのか、鈴木佳奈は何とも言えない顔をしている。

「私、20年前、美羽ちゃんの立場だったんです。自宅で自分の父親と不倫相手がまぐわっているのを見せられました。私は父のことも不倫相手も今でも恨んでいますよ。父は死んでしまって、今その恨みは不倫相手に向いています。今から彼女を抹殺しに行く予定です」
「20年前って⋯⋯」
今度は私の言葉に茜さんが反応した。

「そんな物心つく前のこと覚えてる訳ないって思います? 私は今でも毎日のように脳裏で光景が再現されますよ。それ程、子供の世界にあってはならない風景を佳奈さんは美羽ちゃんに見せたんです。一生恨まれてください。あなたが幸せになることなんて絶対に許されませんから」

 私の言葉に鈴木佳奈が膝をついた。

 私は、その腕を引っ張り彼女を立ち上がらせる。

「早く、佐々木英樹のところに行って200万円貰ってきてください。彼、今日は出勤していると思いますが、今のどうにもならない状況を把握したらおそらく逃げますよ。それと、この品の良いカフェに売女は不似合いなので早く立ち去ってください」

 佳奈はやっと自分が大声を出して、周りから注目されていることに気がついたのがその場を去っていった。

「あの、山田さん。さっきの話って⋯⋯」

 茜さんが目に涙を溜めながら、私に尋ねてくる。
 彼女はやはり子供をちゃんと心配できる良いお母さんだったようだ。

「茜さん。美羽ちゃんが、辛い出来事を忘れちゃうくらい沢山良い思い出を作ってあげてください。そうすれば、きっと私みたいにはならないと思います」
私の言葉に、静かに茜さんは涙を流し続けていた。
 私は成功報酬を受け取ると、カフェを出た。

「聡さん。暇なんですか?」
 カフェを出ると、聡さんが私を待っていた。