「母さん、出て行ったよ。そういう訳で今日は、朝ご飯ないから」

 朝、起きて父親から開口一番告げられた言葉に俺はため息をついた。

 父が不倫をしていた事実を聞いてから、俺は父親に嫌悪感がある。

「朝ご飯とか、そういう問題じゃないだろ。父さん、いつ浮気してたんだよ」

「お前が母さんのお腹にいた時だよ。もう、30年以上前の話だ。とっくに時効だろう。どうせ、母さんも週末の町内会の集まりには戻ってくる」

 逆ギレのように俺を怒鳴りつけてくる父親に腹が立ってくる。

 真希を裏切った息子の俺を「汚い」と払い除けた母は、30年以上もの間、浮気して「汚い」と感じる夫に耐えて来たのだろう。

「母さんは30年もの長い間、我慢して来たんだよ。もう、戻ってこないよ。真希と母さんって似ているよな。ひたすらに我慢して傷ついたところを見せない。昨日、真希に2度と目の前に現れるなって言われたよ。きっと母さんも俺とも父さんとも、もう会いたいとは思っていない⋯⋯」

 真希と母はいつも笑顔で周りのことばかり考えて似ていると思っていた。

 母は「汚い」と感じる父と、30年も我慢して同居していたのだ。
 きっと、真希が嫁にくれば原家は延命されたかもしれない。
 でも、この家はもう終わりだ。

 俺も父に嫌悪感を感じていて、もう一緒に暮らしたいと思っていない。

「お前は、真希ちゃんのことあんなに好きだったのに、なんで浮気したんだ?」

「父さんこそ、母さんのこと大切なら浮気なんてするなよ。俺はこれから一生、真希を傷つけた後悔をすると思う。父さんは母さんから執行猶予を30年も貰ったんだから、これからは1人で生きてけよ」

 俺はそう言い捨てると部屋を出た。

 別に昨日から胸が詰まってて、腹なんて減っていない。

 職場に到着すると空気がいつもとは違っていた。
 俺に対して冷ややかな視線をひしひしと感じる。

 真希とは円満に別れたことにしていて、真希も話を合わせてくれていた。
(昨日、真希が本当のことを話したって言ってたな)

「原さん、総務の渡田です。この交際費の領収書の裏に取引先の人間の名前書いているけれど、新しい婚約者さんとのデートですよね。こんな虚偽申告して良いと思っているんですか?」

 総務の渡田はアラフィフのおばさんで、長く会社にいるからか仙人のようになっている。

 渡田が、仕事もでき、気が利いて自分を立ててくれる真希を可愛がっていたのを思い出した。

 数枚の領収書を出されて、それは確かに美由紀とのデートのものだと思い出した。

 しかし、こんなことをやっている人間は他にもいるのに、俺のことだけを周りに聞こえるように声を大にして非難してくる。

「このところ疲れが溜まってて間違いました。これから気をつけます」

 俺が領収書を回収すると、渡田は気持ちがおさまらないように怒鳴りつけてきた。

「それから、月の残業時間100時間を超えているんですけど、自分の仕事も時間内に回せないんですか? そもそも、最近は喫煙室にいる時間多いですよね。その時間も会社が払うわけ?」

 渡田の言葉に俺は自分の行動が逐一チェックされていたことに驚いた。

 真希と別れてからストレスが溜まって、喫煙室にいることが増えたかもしれない。
 しかし、それをこんな大声で俺の能力にまで文句をつけられ、たかが事務のおばさんに言われる筋合いはない。

「そんなの俺だけじゃないでしょ。なんで、俺にだけ言ってくるんですか?」
流石に渡田の言葉が過ぎるので、俺は言い返すことにした。

「浮気をしたり、嘘をついたりする人と仕事したくないからです」
 渡田は更年期障害で精神が不安定になっているんじゃないだろうか。

 アラフィフのおばさんが涙を浮かべて怒鳴り散らしている。
 打たれ弱い新人のようなことを訴えてくる姿に俺は呆れてしまった。

「浮気って、渡田さんに俺のプライベートは関係ありませんよね。確かに真希とは円満に別れたわけじゃないけれど、あなたに迷惑かけてませんよね。それに浮気なんてみんなしているのに、何で俺だけ」

 俺から見ても商社は不倫や浮気する男が多く、男はそんなもんだと商社で働く女は諦めていると思っていた。

 社内の不倫相手とのやり取りを間違えてグループメールに流してしまった室長でさえ、スルーされている。

「みんなしてるから、しても良いんですか?平気で犯罪者グループに入りそうな意見ね。そうそう、伊沢部長が呼んでたわよ」

 同期で俺を敵対視している隣の室の南野明日香が楽しそうに会話に割り込んできた。
 俺を引き摺り下ろす機会がやってきたとばかりに、周りに聞こえるように喋っている。

「伊沢部長?」
 俺は泣いているおばさんと嫌味な同期と、俺を敵視する視線から逃げ部長の元に向かった。

「部署異動の話をしようと思ってね。2週間後から札幌支店の経理部に異動してくれ。経理なら君も経験あるし、やりやすいだろう」

「経理の経験って学部卒の社員ならみんなありますよね。俺が札幌に行ったら、スペインは誰が行くんですか?」

 支店の経理部なんて実質左遷だ。
 うちの会社は院卒は最初から営業部に配属だが、学部卒は最初の3年は経理部に配属される。
 だから経理の経験など、ほとんどの社員がある。

 スペイン駐在の為に、スペイン語だってマスターしたのに冗談じゃない。
(真希もスペイン語マスターしてたな⋯⋯俺より喋れるようになってた)

 真希のことを思い出し、急に胸が詰まり出した。

「スペインには南野さんに行ってもらう。もう、君は食品営業部には置けないよ。理由は自分が一番よく分かっているだろう」

「イガラシフーズですか⋯⋯」
俺は昨日、俺を凍りつくような目で見てきた五十嵐聡を思い出した。

「君、イガラシフーズにもなんかしたの? 君の婚約者が、ササキ食品の社長の一人娘の夫と不倫してたんだろ。昨日、彼女が慰謝料は君に請求してくれと君の名前を出したんだ」

「はあ? 俺も丸川美由紀には騙された側なんです。もちろん、彼女と結婚する気はありませんし、俺に慰謝料の支払い義務はないと思います」

「義務とかそんなのは関係ないでしょ。もう、君は食品営業部での仕事は難しいよ。山田さんを捨てるくらい婚約者が好きだったんじゃないのか?」
俺は伊沢部長の言葉に自分の罪を受け入れることにした。
(俺は真希を捨てたんだ⋯⋯)

 真希が会社に真実を言わないでいてくれた間、執行猶予を貰っていただけだ。

 伊沢部長も真希を可愛がっていて、自分の息子の嫁にしたいとまで言っていた。
 真希は新卒で会社に入って、自分の居場所を作ろうとたくさん頑張っていた。

 それなのに彼女を早く独り占めしたくて、誰かに取られるのが嫌で会社をすぐに辞めて貰った。
 新卒でろくに職歴がないまま、婚約破棄までされて真希は追い込まれたはずだ。

 彼女は俺に自分の言いたくない秘密まで明かして、家族まで大切にしてくれたのに俺が本当にバカだった。

「札幌で頭冷やして来たいと思います。お世話になりました」

 俺は左遷人事を受け入れることにした。