今日は念願のひなた君との対面だ。

 2歳半の男の子がどのような感じなのか想像するだけで、私は胸が高鳴っていた。

 白川ひなた君が、緋色さんに伴われて現れる。
 緋色さんに似た薄い茶色の瞳が、私をぼんやりと見つめていた。

「ひなた君、こんにちは!」
 できるだけ好印象を与えたいと思って笑顔で接したが、反応がなかった。

「ひなたは、まだ言葉を話さないんだ⋯⋯」
 緋色さんの言葉に、思わずひなた君を凝視する。
(1歳過ぎたら、大体の子は発語があるものなんじゃ⋯⋯)

「新生児聴覚検査では特に問題がなかった。インターナショナル保育園に通っているから日本語の理解が遅いのかもな」
 軽い感じで緋色さんはいうけれど、保育園に預けっぱなしで良いのだろうか。

 何かひなたくんの将来のためにできることがあれば何でもしたい。

「1年間は保育園をお休みして、ひなた君を私に預けては頂けませんか? 言葉の発達が気になるのであれば、病院や区役所などに相談が必要でしょう。耳の方も精密検査をした方が良いと思います」
 私の言葉に緋色さんの機嫌が悪くなるのが分かった。

「会ったばかりなのに、ひなたを障害児扱いか?」

「ひなた君に障害があったら何か問題がありますか? ひなた君の一生はこれからも続いて行きます。今、彼のためにできることを母親としてしたいだけです。緋色さん、今、私たちの会話の様子もずっとひなた君は聞いていることも忘れないでください」

 緋色さんは無言で、私にひなた君の乳幼児医療証と保険証を手渡してきた。

「君のやりたいようにするといい。俺は仕事に行ってくる」

 そう言って彼は私とひなた君を置いて部屋を出ていってしまった。
(ひなた君に障害があるのか、心を閉ざしているから発語がないのか原因はわからないけれど⋯⋯)

 私は早速、区役所にひなた君の現状について説明をするために電話をした。

「そういう相談でしたら、療育センターの方にご連絡ください」
(ああ、そういうことか⋯⋯確かに障害児扱いだ)

 緋色さんが気を悪くした気持ちが分かったかもしれない。

 おそらく、ひなた君は1歳半検診や保育園でも発達の遅れを指摘されている。

 けれども、その指摘に対して行動を起こしてしまうと即座に障害児のような扱いをされてしまう。
(障害児だったら何が問題なの? 可愛い我が子には変わらないじゃない。そう思うのは私が実の母親じゃないからかしら⋯⋯でも、私は子供はみんな愛されるものだと信じたい)

 私は教えられた療育センターの番号に電話を掛けた。

「予約で混み合っていて、半年後の日程しかありません」
 担当者の言葉に私は息が詰まった。

「私が半年後に生きているかもわからないんです。どんな時間でも、誰かのキャンセルが出たらでも良いです。相談をさせてください」
 私は思わずでた自分の声があまりに震えていて、今にも死にそうな人のようなもので驚いた。
(余命1年だもの、今すぐ死んでもおかしくないのかもしれない⋯⋯)

 隣にいるひなた君がぼんやりと私を見つめていて、思わず私はその目を見つめ返す。

 彼の薄茶色瞳には今にも死にそうで不安な顔をした私が映っていた。
 私には時間が1年しかないかもしれない、半年も待っていられない。

 ひなた君の為に出来る事を何でもやりたい。
 私はひなた君の手をギュッと握りしめた。

「すぐに来られますか? 今の時間ちょうど急なキャンセルが出ているんです」

 少し間があって、返ってきた担当者の言葉が本当かどうかは分からない。

 私の必死さを心配してのことだとしても、残された時間がどれくらいあるか分からないから甘えてしまいたい。

「今すぐに行きます」
 私はそう返事すると、ひなた君の小さな手を握りしめて療育センターに向かった。

 そこに行けば、ひなた君の言葉が急に出てくるわけではない。
 それでも母親として何が彼にできるのか、誰でもいいから私に教えて欲しかった。

(私には自分のお母さんの記憶がない⋯⋯でも、お母さんって子供の為なら何でもする人のことを言うんだ、きっと)

 療育センターに到着すると、たくさんのお母さんと子供たちが待合室にいた。

(みんな子供の為に何かしたいお母さんだ。私も、ひなた君の為に何かしたい)

「先程、お電話した白川と申します」
「少々、お待ちください」
 淡々とした受付の対応に逆に心が落ち着いていく気がした。

 きっと、私は今混乱したような顔をしている。
 そして、ここの受付の人はそう言う顔をした親を見慣れているのだろう。

「ひなた君、絵本でも読もっか」
 待合室に置いてある絵本をひなた君に読み聞かせする。

 ぼんやりと絵柄を眺めているひなた君に、この話が届いているかは分からない。
(緋色さんも、こんな経験をして不安になっていたりしたのかしら⋯⋯)

 ふと、ひなた君の発達の遅れに対して指摘した時の緋色さんの機嫌の悪そうな顔を思い出した。

「白川さん、白川ひなたさん!」
 呼び出された声にハッとして、ひなた君の手を取る。

「あの、お母さん、失礼ですが普段から悩みを相談する相手はいますか?」

 部屋に入って相談員が尋ねてきたのは私に対してのことだった。

「私が半年後に生きているか分からないと言ったから、自殺をするかと心配されていますか? 私がそう言ったのは私の余命が1年だからです。残された時間でひなたに何ができるかを今は考えています」

「そうだったんですか。子供の成長に悩んで思い詰めてしまうお母さんもいるので、心配をしました」

 相談員の言葉に、私は緋色さん自身もずっと悩んできたのではないかと言うことに気がついた。

「相談相手としては主人がいます。主人はとても子供思いの素敵なお父さんです」

 緋色さんは、ひなた君の心を考えて私という「お母さん代わり」を用意する程の人だ。
(彼が誰よりひなた君のことを考えている⋯⋯1年しかお母さんができない私とは違う)

「夫婦仲が良いのは、お子さんにとっても良いことですね」
(夫婦か⋯⋯ひなた君のお母さんになることばかりで、私は緋色さんと夫婦になることを忘れかけてたわ)

「ありがとうございます。ひなたの発達について相談させてもらっても良いですか?」

 私は相談員の方に相談して、耳の精密検査の予約を取り言葉の教室に毎週通うことを決めた。

♢♢♢

 21時過ぎに緋色さんが帰宅する。

「緋色さん、ひなた君は20時にはもう寝ました。睡眠を良く取るとても良い子ですね。来週、ひなた君の耳の精密検査を予約しました。それから、週に1回、言葉の教室にも母子通園します」

 緋色さんの鞄とコートを受け取りながら、笑顔で今日の報告をする。

「何が嬉しいんだ? 俺が帰ってきたことが嬉しい訳じゃないだろう」

「緋色さんが帰ってきて嬉しいですよ。私、あなたに謝りたいと思っていたんです。1年しかお母さんをしない私が偉そうにひなた君について意見をして申し訳ございませんでした」

 私はゆっくりと頭を下げた。
 今日気がついたことがある。

 私は子供が欲しいと思っていたけれど、子供の人生に責任を持つということまで考えられていなかった。

 なぜだか、緋色さんは私を切なそうな目で見つめると手を伸ばしてくる。

 私は咄嗟にその手を避けてしまった。
(なんだろう、彼に触れられると彼に惹かれそうで怖い⋯⋯こんな如何にもモテそうな男を好きになったら、きっとまた傷つくだけだわ)

「別に、日陰は必死にひなたのことを考えているだけだろ。君が謝ることは何1つない。それよりも、思ったような子育てじゃなくてがっかりしたんじゃないのか?」

「思ったような子育てとは何ですか? 私、お母さんになるのは初めてです。ひなた君が私の手を握り返してくれて、心が満たされていくのを感じました。ひなた君はとても良い子ですよ。今日は待ち時間もあって退屈したはずなのに、私の膝の上で沢山お話を聞いてくれていました」

 私の言葉に緋色さんが優しく頷く。
(優しいお父さんの顔だ⋯⋯さっきは男の顔をしていて驚いて避けてしまったけれど、過剰反応だったかもしれない)

「すごく良い匂いがするな」
「どのようなものが好きか食の好みを聞くのを忘れていました。とりあえず、和食を作りましたが今後は希望を聞かせてください」

「日陰が俺に食べて欲しいものを作って欲しい」
「何が食べたいか言ってくれた方が助かります」
 私は優しいお父さんの顔から、再び男の顔に変わった緋色さんを見てため息が漏れた。

 最期の1年、私は恋をするつもりはない。
(どうして、彼は私を求めるような目で見てくるんだろう⋯⋯女として見られるのは嫌だな)

「私たちは結婚して夫婦になりましたが、あくまで私はひなた君の親としての契約をしたという認識です。夫婦生活はもちろんなしですよ」
 私の言葉に緋色さんが、衝撃を受けたような顔をして思わず笑いそうになった。

「君がそうしたいなら、そうしよう」
「私が緋色さんを求めると思ってましたか? 緋色さんって感情が顔に出て子供みたいですね」

「やっと、笑ったな。子供みたいなんて言われたのは初めてだ」
 私は久しぶりに愛想笑いではなく、自然に自分が笑っていることに気がついた。