「白川緋色様、生憎の荒天ですので今日のフライトはキャンセルになります」

 2年半前、息子のひなたの出産と共に妻が死んだ。
 母親同士が親友で妻の美咲とは兄妹のように育っていて、将来結婚することは既定路線だった。
 母体が死ぬことは滅多にないが、出産にリスクはつきものだと慰められた。

「今すぐ帰りたいんだ。なんとかしろ」

 美咲が子供にアメリカ国籍を与えたいと希望した上に、リゾートでゆっくりしたいと言ったのでハワイで出産した。

 そのように出産をイベントのように捉えていたから、神様からバチがあったったのだろうか。

 妻の美咲は帰らぬ人となり、俺には彼女の忘れ形見の息子のひなただけが残った。

 俺は美咲のお骨と、生まれて間もないひなたと一緒に一刻も早く日本に帰りたかった。

 しかし、プライベートジェットは荒天で危ないから飛ばせないという。

(観光客がうるさい、みんな幸せそうに見える。こんなところに居られる心境じゃない⋯⋯)

「うわーん!うわーん!」
ひなたが泣き出して、気が狂いそうになる。

 これから、1人でこの子を育てていくのかと思うとゾッとした。
(ひなたを産まなければ、美咲は死ななかっただろうに。なぜ、お前だけが生きているんだ)
 俺は気がつくと、泣くことしかできない生後間もないひなたを睨みつけていた。

「白川様、日本のジャンボ機が飛ぶそうです。生憎、ファーストクラスとビジネスクラスが埋まっていますが、プレミアムエコノミーが空いています」
「それで良い、日本に帰れれば⋯⋯」
 ファーストクラスとビジネスクラスが埋まっているという実に珍しい状況。
 しかし、プライベートジェットと違ってジャンボ機は安定していて荒天でも飛べるのだろう。
(墜落したところで、俺とひなたが美咲の元に行くだけだ)

 飛行機に搭乗して気がついた。
 ファーストクラスとビジネスクラスは、某アイドルグループと関係者で貸切になっていた。

 お祭り気分なのか、カーテン越しにうるさい声が聞こえて気が狂いそうになる。
(よくアイドルがみんなに夢を与えているというが、今あいつらが俺に与えているのは絶望だ⋯⋯)

 俺はお骨を抱えたまま、泣き喚くひなたを抱いて下を向いた。
 これから9時間近く、この状態が続くと思うとうんざりした。

「お客様、お席をご移動しませんか? お子様、可愛いですね。抱っこをさせて頂いても宜しいでしょうか?」

 透き通るような優しい声に顔をあげると、美しい輝くような瞳をした女性がいた。
 地獄のような状況のせいだろうか、彼女が女神のように見えた。

 少し後ろの席は隣の席が空いていて、そこにお骨を置くように促された。
 女神のような女性には、お骨を生きているかのように扱いシートベルトが掛けた。

 一瞬、隣に美咲が座ったように見えて泣きそうになった。
 女神のようなCAの彼女がひなたを抱っこすると、ひなたはゆっくりと目を瞑った。

「望月さんとおっしゃるんですか? お子様に慣れているんですね。もう、泣き止んだ」
俺は女神のような彼女の胸のネームプレートを見て名前を呼んだ。
(望月さん⋯⋯)

「この子がとても良い子なんですよ。離陸で耳抜きができなくてお耳が痛かったんでしょうね。でも、もうお仕事を開始しました。赤ちゃんは寝るのが仕事ですよね」

 ひなたに笑顔で話し掛ける彼女が美しくて思わず見惚れてしまった。

♢♢♢

 あれから、2年半だ。

 美咲を失ったことで、美咲との実家とは疎遠になった。

 ひなたを見ると、美咲の母親は娘を思い出して泣き崩れてしまう。

 孫とはいえ、自分の娘がいなくなったことを思い出させられるから仕方ないのかもしれない。

 うちの母親は父の不倫でメンタルを壊してしまっていて、孫の面倒を見られる状態ではない。
 結局、ひなたは外部のサポートを使いつつ0歳児からインターナショナル保育園に通わせた。

 ホテルのレストランのをリニューアルする計画があったので、覗きに来ていた時に俺は運命の再会を果たした。
(あれは、あの日に会った望月さんだ。男といるのか?)

 あの日の望月さんの微笑みは営業用だったのだろうか、男といる彼女はとても冷めた厳しい目つきをしていた。

 俺はなぜだか気になってしまい、会話に聞き耳を立ててしまった。
(俺らしくないな。なぜ、彼女がこんなにも気になるんだ? 勝手に運命を感じていて、自分でも気持ち悪い⋯⋯)

 彼女の「余命1年」という言葉に背筋が凍る。
 そして、男はそんな彼女を労る訳でもない。
(そんな男に彼女は渡せない!)

 彼女には記憶にも残っていないかもしれない客の1人に過ぎない俺が持つには可笑しい感情だ。
 しかし、その感情のままに俺は彼女を呼ぶように秘書に言いつけた。

 レストランの個室に彼女を通す。

 目の前に現れた望月さんにあの日の笑顔はない。
 でも、艶のある長い黒髪に、長いまつ毛に彩られた黒い瞳に思わず見惚れた。
(俺は彼女に一目惚れしていたのか? あんな精神状態の時に⋯⋯全く、自分に呆れる)

「初めまして。白川社長。望月日陰と申します。私に何かご用でしょうか?」
「初めましてか⋯⋯俺の名前は白川緋色だ。君に頼みがある」
 俺は彼女が俺と会ったことを覚えていないことに、少なからずショックを受けていた。

(そこそこ有名で、人の記憶に残るようなルックスを持っていると思っていたのは自惚れだな)

「望月さん、自己紹介をしよう。俺は今スカーレットホテルグループの代表取締役社長をしている。2年半前、俺の妻は出産と同時に亡くなった。息子のひなたに母親の死の原因が自分だと知られたくないんだ。君が俺と結婚をして、ひなたの母親になってくれないか? まだ、2歳半の子供だ。君を実の母親だと思って懐くだろう」

 俺は自分の口が勝手に動いていることに気がついた。
 このようなことは初めてで、戸惑ってしまう。

 そして、俺の言葉に慌てて秘書が婚姻届を取りに行ったようだった。
(俺は今ほとんど面識のない女性にプロポーズをしている⋯⋯俺だってこんな事をいうつもりはなかった)

「今、私にプロポーズしているんですか? 今日、会ったばかりの私に? 私事ですが余命1年なんです。もう、お母さんになれるチャンスのない私には嬉しい結婚話ですが、ひなた君に母親の死を再び見せることになってしまいます」
 突拍子もない俺の提案を聞いて、返事をしてくれた彼女に胸が高まる。

 そして、彼女は社長夫人になることにも、俺の妻になることにも興味がないようだ。
 彼女が興味があるのは、「母親になること」だと俺にはすぐに分かった。
(やはり、彼女は他の女とは何かが違う。だからなのか、こんなに惹かれるのは⋯⋯)

「1年後に死ぬ君が必要なんだ。俺と結婚してくれ。そしてひなたの母親になってくれ望月日陰」
 俺は明らかに彼女に惹かれていた。

 そして、母親になれるというのを餌にして彼女と結婚しようとしている。

「息子に1年後死に様を見せろ」というふざけた提案だと彼女は怒るかもしれない。
 死の原因が出産ではないことを偽造する為に結婚しろと言っているようなものだ。

「ひなた君のお母さんになりたいです。1年だけでも、ひなた君のお母さんになる機会をください」
 彼女の予想外の返答に、気がつけば俺は彼女にキスをしていた。

「そのようなことはしないでください。私たちの目的はひなた君にお母さんという存在を教えることだけですよね」
 彼女が本気で怒っているのが分かって、俺の男として彼女を求める感情が迷惑だということに微かな驚愕と失望を覚えた。

「ああ、そうだった。不快だったなら謝ろう。ひなたの母親として親子の思い出を残してあげてくれ」
 取り繕ったような言い訳に自分でも笑いそうになる。

「優しい方ですね。白川社長は。私、お母さんになるのが夢だったんです。だから、社長は私の夢も叶えてくれることになります。ひなた君のお母さんになれる機会を与えてくれてありがとうございます」
 俺を優しいという彼女は、人を見る目がなさそうだ。

 そういえば、彼女と付き合っていただろう先程の男も優しい良い男には見えなかった。
(彼女に纏わりつくのに必死な不可解な男だ⋯⋯)

 彼女は友人と恋人に裏切られて、死ぬ前に復讐したいと言う。
 彼女もやはり優しいだけの女ではなさそうだ。