「すみません。もしかして、谷村先生と私は以前から面識ありましたか?」

 日陰はこのような状況なのに落ち着いて号泣する医師に優しく尋ねていた。

「内定前の健康診断の時、楽しくお話ししました。膝の傷をどうしたか聞いたら、自転車で転んだって会話を覚えてませんか?」

 俺は谷村医師が一体何を言っているのかが分からなかった。

 日陰は、キモメン医師の彼の言葉を理解しているようだ。

 そもそも、彼の言う「楽しい会話」は俺からしたら質問されたから彼女が答えただけの質疑応答だ。

「CAの内定前の健康診断って細かいの。短パンで簡易ベッドに寝転がって、体の傷を確認しているみたいなのがあったわ」
 俺は彼女が俺に耳打ちしてくる言葉に耳を疑った。
(なんだそれ? 健康診断か? 絶対に娘はCAなんかにしたくないな)

「今回はどうして、嘘の診断書を私に送ったのですか?」
「あれから、ずっと、日陰さんのことが忘れられなくて⋯⋯4年ぶりに健診センターで再会できたら気持ちを抑えきれなくなったんです。また、会いたくて健診結果の保管してある事務所に忍び込み、郵送物をすり替えました」

 谷村医師したことは、とんでもない犯罪行為だ。
 彼の証言通りだとすれば、日陰から自分に連絡が来るように細工をしたと言うことだ。

 その上、「余命1年の難病」などと彼女の不安を煽って、彼女の心を弄んだ。
(彼女の不安を煽り、寄りそうことで愛でも育もうとしたのだろうか⋯⋯悪質すぎる)

「それは、ダメなことですよ。もう、絶対にやってはいけません。私以外の方にこういった事をしたことはありますか?」

 日陰は初めて俺が見惚れた時のように、聖母のような優しい顔で彼に問いかけている。

 俺は、「今すぐ、警察に突き出せよ!」と俺は叫びたくなるのをたえた。

「いえ、初めてです」
「そうですか。お医者様の言葉は重要なものです。谷村先生はついてはいけない嘘をつきました。私は、あなたは医師をやめるべきだと思います」
「す、すみませんでした⋯⋯日陰さんの言う通りです」

「でも、もうしないと私に約束するならば、私は今回のことは忘れます。医師を続けるか、辞めるかはご自分で判断なさってください」

 俺は日陰が彼を許そうとしていることに驚いてしまった。

 俺は彼女が余命宣告されてから、不安で泣いたりしながら過ごした日々を思い出し怒りでおかしくなりそうだった。

「うう、すみませんでした。うう⋯⋯」
目の前で号泣している谷村医師を殴り倒して、警察に突き出したい。

「緋色、行こう」
 日陰は俺の怒りを察したのか、腕を撫でてきた。
 結局、彼女に促されて俺たちは病院を出た。

 送迎車の後部座席に乗るなり俺は日陰に問いかけた。

「なんで、許せるんだ? 完全に谷村医師のやったことは犯罪だぞ」
「許せてなんていないわ。ただ、彼の本音を聞くために心に寄り添ったふりをしただけ。小笠原家が私の余命宣告に関わってないかはっきりさせたかったの」

 俺のスーツの裾を掴んでいる彼女の手は震えている。
 余命宣告をされて、仕事まで辞めて、毎日のように不安で過ごしてきたのだから当然だ。

「日陰⋯⋯でも、あんな事をする男に何の罪も与えないのは危険を放置すると同じ事だと思うぞ」

「私、ああいう変態にばかりに好かれるの。自分がどう言う目で見られているか、わかってるから。事を荒立てて、目立ちたくないわ」
 俺は彼女の言葉に不安になった。

 俺も昨晩から彼女にしつこくしてしまって、変態と思われていないだろうか。

 彼女はとても魅力的な外見をしているが、その聖母のような内面にこそ俺は惹かれている。

 俺も彼女を愛する変態と一緒だと認識されないように、しつこく迫るのは自重した方が良いかもしれない。

「森田さんのお見舞いもついてきてくれる? 私、彼に内部告発と被害届を出すことを頼もうと思っているんだけど、私の言うことを聞いてくれるか自信がなくて⋯⋯」

 彼女が珍しく甘えたような視線で言ってきて、抱きしめたくなったが堪えた。
(彼女が望んでないのに、一方的に迫ったら変態扱いされるかも⋯⋯)

「もちろん、一緒に行くよ」

 俺は森田蓮と彼女も2人きりにしたくなかった。
 小笠原社長とおそらく森田社長も2人の結婚を望んでいる。

 俺は森田蓮を牽制したつもりだが、彼が親の言う事を聞いて彼女を口説き始めないとも限らない。
 そんな命令がなくても、彼女は魅力的だから心配だ。

 俺は森田の見舞いが終わったら、日陰を家まで送り届けて望月夫妻に連絡をとることにした。
「日陰、結婚式は1週間後にするから。必ず、俺が望月夫妻も連れてくる」

「望月夫妻に無理はさせないで。ただでさえ、私の存在が25年も2人を引き裂いているの⋯⋯」
 日陰が俺に潤んだ瞳で訴えてくるので、とりあえず頷いた。
(抱きしめたくても、堪えろ! 俺!)

 俺としては無理矢理にでも、望月夫妻に結婚式に日陰の両親として列席して欲しい。

 彼女は本当に人のことばかり考えている。

 だから、彼女に惚れた男は皆、彼女が自分のことを考えない代わりに彼女のことばかり考えるようになるのかもしれない。