「ママ、僕、赤ちゃんが欲しい」

 ただでさえ昨日のことで緋色さんに対して気まずい朝に、ひなたがオネダリするように言ってきた。

「ひなたは弟が欲しいの? 妹が欲しいの?」
「弟も妹もいっぱい欲しい!」

 お友達に弟か妹ができ羨んでいるだけなのかもしれない。
 でも、急にそんなことを言うなんて寂しい思いをさせている気がする.

 私は陽子に拉致された後は、ひなたを公園に連れて行ったりしていない。
 世の中のお母さんは、ちゃんと子供の遊び相手を見つけたりしてるのに私は何もできてない。

「緋色さん⋯⋯私、今日、谷村医師のところに行ってきます。その後、森田さんのお見舞いに行こうかと⋯⋯」

 まずは余命のことをはっきりさせた方が良いだろう。
 それから、森田さんに改めて陽子の傷害事件の被害届を出してもらえるよう頼みたい。
 彼が親に逆らえない事はわかっていても、昨日のようなことがあっては危なくてひなたと公園に行けない。

「俺も一緒に行く。ひなたもシッターに預けよう」

 私は仕方ないことだと、緋色さんの言葉に頷いた。
 今日は私のことで社長で忙しくしている彼に仕事を休ませてしまう。
(断らないとダメだけど、1人じゃ不安で一緒にいて欲しい⋯⋯)

「ママとは遊べないの?」
「ひなた! わがまま言うんじゃない」
 私はひなたの問いかけを一瞬で制した緋色さんに申し訳がなくなった。

 ひなたも、緋色さんが強い言葉を使ったことを怖がっている。
 しかし、外に出たら命を狙われる状況だから、緋色さんはあえて悪者になっている。

「すぐ、一緒に遊べるようにするね」
 私はそう言って小さなひなたを思いっきり抱きしめた。

♢♢♢

 送迎車の後部座席に座り、紹介状の指定医師である谷村医師の元に向かう。
「緋色さん! お手数をお掛けしまして申し訳ございません」

「緋色! それから夫婦なんだから敬語もやめて欲しい。今度やる度、ペナルティーキスするから」

 そういうと、緋色は私に深いキスを仕掛けてきた。
 今まで以上に強引になった彼に、私は戸惑ってしまう。

 勇とは10年以上付き合ってきたが、友達のようなカップルだった。
 キスやそれ以上のこともしたが、お互い照れて遠慮がちだったように思う。

 だから、緋色さんのキスは私の知っているものとは違って戸惑った。
(まるで、全てを奪われるようなキスだわ⋯⋯)
 自分がいい歳しながら免疫がなさすぎて彼の強引さについていっていない。

 それにどうしても、小笠原社長から緋色のような人から見れば私はチョロいと言われたのが気になる。
 それでも利用されてても構わないと言うくらい、私は彼に惹かれている。

 昨日、彼がヤキモチを焼いていてくれたのは演技ではなく本気だと信じたくなる。

「待って! 緋色!」
 私がキスの途中で息を切らしながら、言っても彼は待ってくれない。
 私の中でどこか諦めのような気持ちがあって、彼のキスに溺れるしかなかった。

「と、到着致しました」
 運転手が戸惑いながら掛けてきた言葉に、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。

「ありがとうございます」
 車を降りると、私が精密検査で来院した谷村総合病院があった。

 東京には沢山大きな病院があるのに寂れた小さな総合病院だ。
(難病だって、余命1年だって言ってたよね⋯⋯お医者様がそんな酷い嘘つくなんてことある?)

 不安で仕方がない私を察してくれたように、緋色は私を抱き寄せながら病院内に入った。
 病院の受付を済ますと、あっという間に名を呼ばれた。
 扉を開けるなり、土下座している谷村医師がいた。
「すみません。お許しください。これが本当の健診結果です」
 差し出された紙を見ると、毎年のように見覚えのあるA判定が並んだ健康診断書だった。

「緋色! 見て! 全部Aよ」
 私はそっと指で体重の欄を隠しながら彼に見せた。

 私は身長が高いせいもあり、52キロある。
 しかし、彼は女子は皆40キロ代だと思っている男かもしれない。

「日陰!」
 緋色は私のことが愛おしくて仕方がないと言うように抱きしめてきた。

 これも演技だということがあるのだろうか。

 勇は愛を語ってくる事はなかったけれど、綾野先輩は緋色のように愛情表現を頻繁にしてきた。
 しかし、綾野先輩は私のこと好きだったと言うのは嘘だったみたいに私を傷つけ続けた。

 胸が焼けるような感覚がする。

 騙されていたとしても、一時的でも彼に愛されている実感が欲しいとバカ女の感情が押し寄せた。

「緋色、あなたが何を考えてても一緒にいたい!」

 私は彼の頬を両手で覆いながら、思いの丈を言った。
 その言葉に緋色より早く反応したのは、谷村医師だった。

「うおー! 日陰さん! 日陰! 日陰ー!」

 号泣する谷村医師に、私はすっかり現実に引き戻された。

 涙や鼻水を飛ばし、大泣きする彼にドン引きする緋色を見て私はため息をついた。

(あー、また変態に好かれたか⋯⋯こんなこと良くあるって言ったら彼に心配かけるよね)