「ちょっとやめてください」

 俺は思いきり日陰さんに押し返されていた。
(めちゃくちゃ痛い! 今、傷口開いた感じがする! 俺、怪我人だってば!)

「命を助けたんだから、キスくらいさせてくれても良くないか?」
 これは、俺の偽りざる本音だ。

「私の唇はそんな安くありません」

 日陰さんの言葉に、俺は絶句するしかない。
 俺の命よりも彼女の唇は高いらしい。

「本当に女なら、誰でもいいんですね⋯⋯」
 彼女が呟いた言葉に、俺は少なからず傷ついた。

 確かに誰かれ構わず、キスをしたり関係を持ってきた。
 そんな今までの俺を罰するかのように、本当に好きな人に軽蔑の視線を向けられている。

 トントン。

 その時、ノックと共に病室のドアが開いた。
「えっ! 父さん?」
 俺は両親にそんなに愛情を持って育てられていない。

 だから、怪我をしても死んでない限りはこんなに早く親が見舞いに来るとは思わなかった。
 せいぜい、友人と温泉旅行中の母が面倒そうに顔を見せる程度だと考えていた。
(まさか、仕事第一の父さんが来るなんて)

「白川日陰さん、付き添ってくださっていたんですね。蓮の父です。2人が上手くやっているようで嬉しいです」

「息子さんは私を庇って怪我をしたので当然です。彼は全女性を愛し守るために生まれてきた方のようで助けて頂きました。私は白川緋色の妻なので、彼とどうにかなるつもりはありませんよ」

 俺は父は威圧感があり、俺は父の言葉にはいつも言いなりだった。
 日陰さんはそんな俺の父を前にも、物怖じすることなくやや天然ながらも自分の意向を伝えている。

「日陰さん、私たちは他人ではないんですよ。そんな冷たい事を言わないでください。実は私の妻は小笠原社長の姉なんです」

「じゃあ、私と息子さんはいとこじゃないですか。どうして結婚させようとしているんですか?」

 俺は今になって彼女と自分がいとこ関係にあることに気がついた。

 彼女は俺にとって初恋の人の面影がある守りたい存在だ。
 それゆえ、勝手にやっと見つけた愛する人のように思っていたが、彼女の言う通りいとこ関係にあたる。

 陽子も俺のいとこ関係にあたるが、お見合いで会ったのが初対面だったので親戚関係にある事実に目を向けていなかった。
(陽子のキャラがプッツンすぎて、親戚関係だと認識するのを脳が拒否してた気もする⋯⋯)

 いとこ婚は認められていない訳じゃないけど、近親婚による出生異常によるリスクが上がるから昨今では避ける傾向にあるはずだ。

「それは、君の父親にでも聞きなさい」
 冷めた目で彼女に言う父に俺はゾッとした。

 俺も同じ質問を父にしたいが、怖くて彼が答える気がない質問をする勇気がない。
(俺って本当に情けないな⋯⋯)

「私は別に息子さんと結婚する気はないので、理由を聞けないならそれでも構いません。私には愛する夫と息子がもういますので」
 日陰さんはとても強い人だ。
 魑魅魍魎のような恐ろしい人間たちの中で、儚さを感じさせながらも強く生きている。

「そうだ蓮! 今回の傷害事件については口を黙なさい。病院側にも箝口令を引いた」
 やはり父は冷たい人間だ。

 傷を負って病院のベッドに横たわる息子に労りの言葉ではなく、今後の対策を伝えてくる。
(俺が余計なこと言わないように、見舞いじゃなくて口止めに来ただけか⋯⋯)

「小笠原陽子が息子さんを刺したんですよ。私は見てました」
「日陰さん。彼女もまた身内なんだ。君にとっても可愛い妹だろ」

 俺は父の言葉に耳を疑った。
 陽子が彼女を殺そうとしたことを知っているのに、なぜそのような事を言えるのか。

「森田社長、息子さんが今、大怪我をして立ち上がれないのを見て何も感じないのですか? 社長にとって一番大切なのは息子の蓮さんじゃないんですか?」

 彼女が目に涙を浮かべながら訴える言葉に俺は息を呑んだ。
(日陰さん⋯⋯うちはそうじゃないんだ⋯⋯父にとっては仕事と小笠原家との関係の方が大事なんだよ)

「町工場のぼんやりした親に育てられると、こんな青臭いことを言う娘になってしまうんだな。とはいえ、君がダイヤの原石だと言うことには変わらない。これから、うちに嫁入りして上流階級のルールを学べば良い」

 父は呆れてた表情を浮かべながら、日陰さんの肩に手を置こうとする。
 それを、彼女は思いっきり引っ叩いて跳ね除けた。
(マジかよ⋯⋯日陰さん、怖いもの知らず過ぎ)

「私は望月家の娘であったことに誇りを思っています。息子の心配もろくにできないのが上流階級なら、私には用のない場所です」

 彼女の強い言葉に、父が一瞬怯んだのが分かった。
 しかし、父は再び顔を作って余裕の表情を浮かべた。

「蓮! とりあえず、伝えることは伝えたから。では、日陰さん⋯⋯もっと今の環境に馴染めると良いですね」

 父はそう言い残すと、病室から出ていった。
 確かに、小笠原社長の娘であり白川家に嫁いだ彼女はすでに上流階級に仲間入りしている。

「日陰さん、怖いもの知らず過ぎだよ」
「私は怖いものばかりの臆病者ですよ。ずっと、陽子のことが怖くて彼女に色々なものを奪われてもじっと我慢していました」
「俺から見ると日陰さんはとても強い人に見えるけど⋯⋯」

「余命1年しかないと宣告されたら、強くなれたんです。私、その時に初めて陽子にやり返してやろうと思いました。じゃあ、私はもう行きますね。助けてくれてありがとうございます、お大事に」
 日陰さんは俺に微笑みかけると、彼女の目に溜まった涙がホロリと布団に落ちた。
 彼女が軽く会釈をして消えていった扉を俺はずっと見つめていた。

「余命1年⋯⋯俺もそんな宣告をされれば強く戦えるかな」
 保釈期間に傷害事件を起こした陽子を、俺が被害届を出すことで葬れる。

 しかし、父の顔がチラついて、そんな事は到底できる気がしない。

 日陰さんの為にも、俺は被害届を出した方が良い。
 好きな女の為に父親に逆らうことさえできない俺に、彼女を愛する資格はないような気がして苦しかった。