社会人になって一人暮らしを始めてから、実家に帰るのは久しぶりだった。

「やっとお会いできましたね。日陰さんと入籍しました白川緋色と申します。今後とも宜しくお願いします」

 父、望月健太は今は時短勤務になっているので、実家で休んでいるところだった。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 笑顔で応じる父は、本当に善良なお父さんの顔をしている。

「お父さん、お母さんが男と逃げたなんてどうして嘘をついたの? 私の両親って小笠原龍二と須藤玲香なんでしょ。どうして黙っていたの?」

 私は父の顔を見た途端、頭の中の「どうして?」が爆発してしまった。
 玄関で堰を切ったように問い詰める私に父と緋色さんが驚いているのが分かる。

「まあ、とりあえず中にお入りください⋯⋯」
 父が私の勢いにタジタジになりながら、私と緋色さんを客間に案内した。


「日陰、悪かった。お前にはいつか話そうと思っていたんだ」
 お茶を出しながら言う父は、何に対して謝っているのだろう。

「私が怒っているのは、お母さんが家を出た理由を男と逃げたって嘘をついたことだよ。絶対にそんな理由じゃないでしょ」

 私は父が私の実の両親を明かせなかったことに対しては怒っていない。
 小笠原家と望月家での関係上、仕方がなかったと自分を納得させることができている。

「お父さんの認識が甘かったんだ。加奈は不妊治療をしていて、子供をなかなか授かれなかった。小笠原社長から日陰を預かった時も、俺は自分の子だと加奈に話した。彼女は俺が他で子供を作ってきたら育てるなんて言ったりもしていたから、俺の子だと言った方が日陰に愛情が持てると思っていたんだ」

 私は父の説明に呆気に取られてしまった。

 男とはここまで女心がわからないものなのだろうか。
 どう考えても、「他で子供を作ってきて」なんて不妊治療が辛かった母の強がりだ。

「どうして、それがお母さんが男と逃げたなんて嘘の理由を私に話したことに繋がるの?」

 父のバカさ加減に苛立ちつつも、私は質問をした。

「加奈が『探さないで欲しい』と書置きと離婚届を置いて去っていったからだ。男と逃げたと言えば、日陰も探したりしないだろうと思ったんだ」

「私は会いたくてずっと探してたよ。お父さんが嫌がると思ったから隠してたけれど、ずっとお母さんのことを探していた⋯⋯」

 本当に父は何も分かっていない。

 緋色さんがハンカチを渡してくる。
 私はどうやら泣いていたようだ。
 何が悔しいのか分からないが、とにかく悔しい。

「お父さん、今、お母さんは札幌にいるの。迎えに行ってあげて。それで、私の出生の秘密を明かしてあげて」
「こちらが望月加奈さんの住所です。小笠原家の問題はこちらに任せてください」
 緋色さんが紙に書いた望月加奈の住所を父に渡した。

「25年も経って、今更何を話せば良いのか」

 頭を抑えて考え込む父に私の中の何かが切れた。
 家出をした妻を探そうとする訳でもなく、放ったらかしにしているなんて本当にバカだ。

「25年も放っておいたことを、まずは謝るんでしょ。それで、ちゃんとお母さんを裏切ったことないって伝えて。私は小笠原社長から預かった子で、自分の子じゃないって教えてあげてよ。子供がいなくても、お前がいれば十分だって伝えてあげて」
 私の剣幕に圧倒されて父が驚いている。

「加奈は俺が裏切ったと思っているのか?」
「そうだよ。お父さんが他の女と作った子だって私を連れてきたら、そう思うでしょ。他で子作りして来てなんて、本心じゃないってわからないの?」

「そんな言葉の裏までわかんねーよ。はっきり本音を言ってくれなきゃ」
「言葉の裏ってほど裏じゃないから。ちゃんとよくお母さんを見ていれば本音は透けていたはずだから。早くお母さんを迎えに行って」

 私の言葉に父は頷くと、札幌へと旅立って行った。

♢♢♢

「日陰は結構激しい性格をしてたんだな。何だか新鮮だった⋯⋯」
 送迎車に乗り、緋色さんが私の頭を楽しそうに撫でてくる。

「幾らなんでも父が鈍感すぎて流石に切れてしまっただけです。激しい私は嫌いですか?」
「好きに決まっているよ」
 緋色さんが私に突然キスをしようとしてくる。

 私は自然と目を瞑りそれを受け止めた。

「ひなたに早く会いたいですね」
「待ってくれ! キスの感想がそれなのか?」
「キスって感想を言うものなんですか?」
 質問に質問で返した私に緋色さんが笑う。

「あれ? 緋色さん電話鳴ってますよ。出てください」

 緋色さんが少し面倒そうに電話に出た。
(何語だろう。聞いたことない言葉を話してる⋯⋯)

「すまない、日陰。急ぎの仕事が入った。先、帰っててくれないか? 夕飯までには帰る」

 元々、旅行に行く予定でスケジュールは空けていたはずだ。
 それなのに呼び出しの電話があったということは、余程緊急の仕事が入ってしまったのだろう。

「じゃあ、私ここで降ります。夕飯の買い物もしたいので」
「早めに帰るんだぞ。くれぐれも知らない人にはついてかないように!」
 緋色さんが子供に言い聞かせるように言ってくるので思わず笑ってしまった。

 車を離れて少し歩いた所で、スマートフォンが鳴る。

(川瀬勇⋯⋯)

 表示を見ると勇だった。

「日陰、よかった出てくれなかったらどうしようかと思った⋯⋯」

 勇は最後に別れた時の私の態度が冷たかったから、まだ怒っていると思っているのだろうか。
 でも、あの音声データを聞いたら彼が私の為に陽子と関係を持ったことは明らかだ。
 もっとやり方があったんじゃないかと問い正したいたいが、ならどうしたら良かったか私にも分からない。

「冷たい態度をとったのは謝るわ。でも、もっと色々話してほしかった。結婚しようと思うくらいには信頼していたんだよ勇のこと」

「声が優しい⋯⋯俺の大好きな日陰の声だ。俺はこの世の誰より日陰が好きだよ。だから、一生俺の片思いでも一緒にいたいと思った。そんなことより、実は今インドにいるんだ。俺と入れ違いに綾野先輩が日本に戻っている。綾野先輩は小笠原製薬に就職していて⋯⋯」

 勇はこの10年で初めて私を「好き」だと愛の告白をしてきた。

 彼とは友達の延長のような付き合いをしていて、愛の告白なんてする雰囲気は私たちの間にはなかった。

 どうして、もう会えないかもしれない別れをした今頃になって告白をしてくるのか。
(勇のこと信用してたけど、ちゃんと彼を理解してはなかったな⋯⋯)

 耳にスマートフォンを当てていると、目の前に私の初恋の人が現れた。
 スラリと背が高くて、どこか影のある高校時代の面影を持った綾野先輩だ。

「日陰久しぶり。元気だった? せっかく会えたんだから、電話は切って」

 綾野先輩は相変わらず強引だ。
 彼は私の手首を持ち鞄にスマートフォンをしまわせると、私の手首を強引に引っ張った。