別に、このまま日陰を襲おうとした訳ではない。

 ただ、日陰があまりに自分の死を受け入れていたのと、ひなたのことばかりで俺に興味がないのが悲しかっただけだ。

「緋色さん、本当にやめてください。怒りますよ」

 日陰の額にキスすると、俺はまた、ひなたを挟んだ自分の寝場所に戻った。

(日陰は本当にひなたの母親になりたかったから、俺と結婚しただけなんだな⋯⋯)

 気持ちが驚くほど沈んでいくのが分かる。

 初対面で女神のようだと一目惚れして、2回目に会った時にはプロポーズした。

 一緒に暮らしていくうちに、彼女の芯の強さや優しさに日々惹かれていく。
(完全に片思いだ。この片思い状態を10年以上続けていた川瀬勇はタフだな)

 川瀬勇は俺と日陰が入籍して、1週間経った頃に接触してきた。

 彼は地味な見た目で舐められやすいが、かなりのやり手だ。

 日陰に探偵につけられているのを察して、ホテルの部屋で彼女に母親の秘密を明かす予定だったらしい。

 しかし、日陰の自分への態度から、彼女の信用を自分が失ったことに気がつき全てを俺に託してきた。

「おそらく日陰の病気は小笠原夫人に長期に渡り何かを盛られていたか、検診した医師に嘘の診断をさせた嫌がらせかのどちらかの可能性があります。陽子に探りは入れてみますが、彼女は痛ぶる対象として日陰には生きていて欲しいタイプです。小笠原夫人は医師会にも顔が効きますし、研究者にお小遣いをあげてヤバイ薬を作らせていると前に陽子が言っていました。陽子は虚言癖があって、その話の真偽すら分かりません」

2人きりで話がしたいと言ってきた川瀬勇の言葉に俺は驚いてしまった。

「途方もない信じ難い話だな。それにしても、小笠原陽子は君にそんなことをペラペラ喋るのか?」

「俺は陽子にとって家来であり、日陰を傷つける道具と認識されています。陽子は元々お喋りで頭の悪い女ですが、ここまで聞き出すまでは10年かかりました」

「君は日陰に恨まれているぞ。陽子と一緒に彼女を裏切り続けたと憎まれている⋯⋯」

「やはり、日陰に気が付かれていたのですね。彼女の態度が硬化したので、陽子と関係を持っていることに勘づかれた気はしていました。日陰に恨まれても構いません。俺はこの音声データを公にしたら、翌日には東京湾で魚の餌になっているでしょうし」

 俺は川瀬勇から受け取った音声データを聞いて震撼した。

 そして、彼は日陰の為に自らの命を危険に晒そうとしている。

(ここまでの愛情に気がついたら、日陰の気持ちも彼にいくんじゃないのか?)
 勝手だが日陰と彼をもう会わせたくないと強く思った。

「その殺された愛人というのが、日陰の母親の須藤玲香です。そして、おそらく日陰の本当の父親は小笠原龍二です。須藤玲香は小笠原社長の愛人兼秘書でした。小笠原社長は愛人にこっそり日陰を産ませ、下請けの工場の望月健太に自分の子として育てさせました。日陰が母親だと思っている望月加奈は、日陰のことを夫の不倫相手の子だと思っています。夫の子なら仕方がないと育てていたそうですが、辛くなって逃げたそうです」

「君が真実を知りながら、日陰に告げなかったのはなぜだ? 日陰は実母ではない母親を母親だと思って探しているのを知っているだろう。その上、君自身は望月加奈に会って話もしている。どうして、望月加奈と日陰を会わせないんだ?」

「俺が日陰にCAになることを提案したのは、陽子が低身長ゆえにCAになれないと思っていたからです。就職を機に日陰を陽子から引き剥がさせると考えました。日陰には母親を探すには無料で国内を飛び回れるCAになると良いと言ってすすめました。望月加奈は日陰に会わないように、俺が常に連絡をとって逃しています。望月加奈自身に日陰に会う準備ができていなかったからです。でも、今回、日陰の余命を告げたら会う決心がついたと言っていました。望月加奈にも日陰の実父が小笠原龍二であることは告げていません。そのことを告げることで彼女がどう動くかわからないので危険だと判断したからです」

 小笠原製薬は黒い噂もある企業だ。

 現社長の小笠原龍二は裏社会との繋がりの噂もある。
(自分の両親が信じていたのとは違う人間だなんて、日陰は受け止められるだろうか⋯⋯)

「陽子は日陰が白川社長と入籍したと知ったら、必ず接触してきてきます。日陰を陥れる為なら何でもやる女です。注意してください」

 小笠原陽子は何にもできなさそうなお嬢様に見えたが、相当危険な女のようだ。愛人の娘というだけで、日陰を目の敵にし執着するなんて俺には理解できない。

「分かった。それにしても、川瀬君は不思議な人だな。会ったばかりなのに、君の言葉を信じている自分がいる」

「それは白川社長が日陰を愛しているからじゃないですか? 俺の話を信じれば日陰が生きる道筋が残されているのは明らかでしょう」

「君も日陰を愛しているんだろう。この音声データを使う時が来たら、その日に退職届を出してうちに来い」

 俺には愛する彼女が別の男と結婚しているのに、嫉妬1つせず彼女に尽くし続けようとする川瀬君も理解できなかった。

「いや、雇用先がスカーレットホテルになっても殺される時は殺されますよ」

「君を海外に逃す。うちのホテルは世界中にあるからな」

「じゃあ、インドでお願いします。インドに小笠原製薬の工場があるんです。そこで気になっている情報を集めてきます」

 結局、婚約パーティーが終わり次第、俺は川瀬勇をインドに逃した。

♢♢♢

「緋色さんが私と結婚したのは、私の余命1年だからですよね。なのに、どうして私が自分が死ぬような話をすると怒るのですか? 私の死に様をひなたに見せるのが、この結婚の目的でしょ?」

 川瀬勇とのやり取りを思い出してたら、突然、日陰から話しかけられた。

 俺は彼女の言葉に人知れずため息をはいた。

「日陰、君と結婚したのは、君に一目惚れしたからだと言ったら怒るか? 実は君と会うのはプロポーズをしたあの日が初めてではないんだ」

 彼女が覚えていない思い出話をするのは非常に虚しい。

 しかし、彼女に少しでも俺の気持ちを知って欲しかった。

「えっ? どういうことですか?」
「実は2年半ほど前にハワイから帰国する機内で会っている。そこでひなたを抱っこして泣き止ませてくれた君に一目惚れした」

「奥様を失ってすぐのことですか?」
「節操がないと言いたいのか? 俺にとって美咲は妹みたいなものだった。恋に落ちた相手を失ったというより、ずっと一緒だった家族を失った気持ちだったんだ。このままひなたと共に死んでしまいたいと思うくらい辛かった」

「すみません。辛いことを思い出させてしまって。それに緋色さんのことを節操がないなんて思ってませんよ。ただ、私、緋色さんのことを全く覚えていなくて⋯⋯」

 自分は割と人から覚えられるようなルックスをしていると自負していたからショックだ。
 でも、あの時彼女がしてくれた親切は彼女にとっては記憶に留めるほどのことではなく当たり前の事だったということだろう。

「日陰は客のことはあまり覚えないタイプなのか?」
「いいえ、クレームのあったお客様はレポートにあげたりするので覚えています。それと、不思議なお客様は覚えておきます」

「日陰にクレームを言ったりする客がいるのか? 完璧な接客に見えたが」

「いますよ。コーヒーが緩いから指を突っ込んでみろと言われて断ったらクレームになりました。機内で熱々のコーヒーを出すのは危険だから、緩くなっていると説明したんですけどね」

 指を突っ込んで見ろとか気持ち悪い要求をする客がいるなんて信じ難い。

 そんなセクハラ紛いのことをされているなんて、日陰がCAを辞めてくれて心から良かったと思ってしまう。

「不思議な客というのは?」
「フライト中ずっと見られていると思ったら、降りる時に私を描いた絵を渡されたことがあります。後日、その方に追いかけられて怖い目にあったので、変わった事をされるお客様は覚えておこうと思いました」

「CAはそのような危険な仕事なのか。娘ができたら絶対させたくないな」
 俺が何の気なく言った言葉に、日陰が微かに震えたのが分かった。

「娘が欲しいのですか? 私は余命が1年しかありません。だから、子供ができるようなことはしたくないんです。子供を産んですぐにお別れでも、その子を宿したまま死ぬのも嫌なんです」

 俺が彼女に迫る度に、彼女がそのように思い詰めていたと思うと申し訳なくて自分を殴りたくなる。

「日陰、君の病気についてだが、しっかりと信頼のある医者に見せてみよう。川瀬勇が詐病や毒物を飲まされた可能性を指摘してきた。君は死なないかもしれない」

「本当ですか? 私、死にたくないです⋯⋯ひなたともっとお話がしたいです」

 俺の言葉に日陰は静かに声を殺しながら泣き出した。

 彼女の中で俺の存在が非常に薄いのが気がかりだが、彼女が生きる希望を見出したので良かったと思うことにした。