ベッドではない場所で寝たのは久しぶり、いや、記憶にある限りでは初めてかもしれない。授業中の居眠りを除けば、詠子は椅子に座ったまま寝たことなどない。

 ベッド以外にも寝袋がひとつだけあったが、それは菜美に譲った。そのほうが健気で可愛いと思ったのだ。菜美の好感度を稼いでおけば、巡り巡って宥介の好感度が上がるかもしれない。このメンバーでゲームをクリアするにあたって、宥介の好感度が最も重要だと詠子は考えていた。やはりリーダーに愛されているというのは大きい。

 ベッドも寝袋もない詠子は、一人掛けのロッキングチェアに座って寝ることになった。しかし、そんなところで熟睡できるはずもなく、うとうととしては目が覚める、そんなことを繰り返していた。部屋が分かれているわけではないから、ベッドで眠っている弘の姿が目に入ると、苛々とした気持ちが湧き上がってくる。

(譲れよ。大して役にも立ってねえんだからさぁ)

 詠子の心の声は誰に聞かれるわけでもなく、消えていく。

 ベッドを辞退した宥介は、ダイニングテーブルに突っ伏して寝ていた。そんなので疲れが取れるのだろうか。いくら睡眠時間が短くて済むとはいえ、睡眠の質が悪いのでは疲れが取れないのでないだろうか。詠子はできることなら宥介にしっかりと休んでほしかった。宥介のパフォーマンスがこのチーム全体を左右するのだから。

 詠子がまたうとうととして、ふと目を覚ますと、宥介がキッチンで水を飲んでいるところだった。宥介は伸びをして、水を飲んでいる。詠子も喉の渇きを覚えた。

 あまり疲れが取れた気がしなかったが、詠子はロッキングチェアから立ち上がり、宥介のところへ行った。宥介は意外そうな顔で詠子を迎えた。

「詠子ちゃん、早いね」

 あんなところで眠れるわけねえだろ、と言いたいのを堪えて、詠子は可愛く笑った。

「ちょっと目が覚めちゃって。お水飲もうかなって思ったんです」
「そう。まだ四時過ぎだよ。休める時に休んでおいたほうがいい」

 宥介の発言は尤もだが、詠子はこれ以上眠れる気がしなかった。ベッドで眠れるならまだしも、ロッキングチェアで眠るのは無理だ。

「宥介さん、あたしの椅子使います? あんなところで寝ても疲れ取れないでしょー?」
「いや、いいよ。椅子の上で寝るのは慣れている」
「そうなんですか? なんで?」
「大学の課題をやりながら、一休みで寝ることがあるんだ。三時間も寝たら充分だよ」
「いいなぁ、ショートスリーパー。あたしもなりたぁい」
「便利な身体だよ。ぼくが他人に自慢できる数少ない特技だね」

 宥介はやわらかく笑った。優しい微笑みに、詠子は思わずどきりとしてしまう。

(宥介さん、かっこいいなあ。優しいし、大人だし、菜美さんが惚れるのもわかるわー)

 詠子はキッチンで水を飲みながらそんなことを考えていた。自分に弘がいなかったら、可愛さを存分にアピールして宥介に近づいていたかもしれない。宥介は鋭そうだから、控えめに可愛さアピールをしていく必要がありそうだ。

 宥介はダイニングテ―ブルに地図を広げていた。相変わらず現在地がわからないから、この地図をうまく活かすことができていない。それでも宥介は地図を睨み、じっと何かを考えていた。詠子が宥介の正面の席に座ると、宥介が話しかけてくる。

「朝日が昇る前にここを出たらどうなると思う?」
「えっ? バケモノがいるんでしょー? 危ないんじゃないですかぁ?」
「そうだよね。やはり、バケモノがいるはず、か」

 詠子の返答は予想済みのようだった。まるでその答えを欲していたかのようだ。

「宥介さん、外に出る気なんですかー? やめてくださいよ、自殺行為ですよっ」
「でも走れば逃げ切ることができることがわかった。バケモノと言っているけれど、相手も人間のようだった。うまくすれば、夜明け前にも探索することができるんじゃないか?」
「本気で言ってます? 危ないなんてものじゃないですよ」

 宥介の表情は冗談を言っているようには見えなかった。

 これは止めなければならない。詠子はひと時だけ可愛さを捨てて、宥介をじっと見た。

「危険ですし、みんな起きれませんよ。それとも、宥介さん一人で行く気ですか?」
「行くならぼく一人で行くよ。みんなと一緒だとバケモノから逃げるのも難しくなる」
「だめですよ。同じ小屋に帰ってこられなかったら、あたしたちは宥介さんを失うことになる。そんなの、絶対だめです」

 詠子が強い口調で言ったからか、宥介は驚きを滲ませた。

「宥介さんが行くなら、あたしも行きます。あたしならついていっても邪魔にならないでしょ」

 詠子は止めたつもりだった。宥介よりも詠子のほうが遅いに決まっている。詠子が足手まといになるのは目に見えている、と詠子は踏んでいた。こうでも言わないと、宥介は本当に一人で出て行ってしまいそうだった。

 しかし、詠子の思惑は外れることになる。

「じゃあ、そうしようか。ぼくと詠子ちゃんだけなら、探索のスピードも上がると思う。詠子ちゃんならよく気が回るし、咄嗟のことにも対応できるだろう」
「待って待って、えっ、本気? 本気で言ってます?」

 詠子が焦って宥介に確認すると、宥介は何でもないことのように言った。

「ぼくは本気だよ。今すぐに出て行っても構わない」
「ど、どーしてです? 五人で一緒に行きましょうよ」

 詠子がそう言うと、宥介は身を乗り出して詠子に顔を寄せた。そして、他の人に聞こえないような小さな声で、詠子に答えた。

「詠子ちゃん、ぼくはゲームのクリアを見ている。全員でのクリアじゃない。ぼくがゲームをクリアすることを考えているんだ」
「そのためには、五人じゃなくてもいいってこと?」
「そうだ。ぼくと詠子ちゃんが二人で行って、残りの三人はこの小屋に残ってくれてもいい。詠子ちゃんはきっとぼくの助けになるだろうから連れていくけれど、他の三人は残ってくれたほうがいい、かもしれない」

 それが宥介の本音か、と詠子は思った。足手まといになる人をここで切り捨てて、早々にゲームをクリアする。確かに、ゲームクリアだけを見るのなら最良の手かもしれなかった。

 詠子は考える。これを受け入れれば、宥介はきっと朝のサイレンと同時か、もしかしたら今すぐに出て行くだろう。そこに自分を入れてくれた嬉しさはあるが、残された三人はそれでよいのだろうか。絶対に安全な小屋で待っていればクリアになるというのは、弘は喜びそうだけれど。

「一度みんなで話し合いましょうよ。無言でふらっと出て行っちゃったらみんな困っちゃいますよ」
「話したら実行できないと思う。おそらくだけれど、また全員で動くことになる。そうしたら探索の速度は遅いままだ。いつまで経っ
てもゲームのクリアには程遠い」
「でも、だめです。みんなの合意を得てからにしましょう。宥介さんがいなくなったらみんな困っちゃいますし」

 詠子が譲らなかったからか、宥介は椅子の背もたれに身体を預けて深く息を吐いた。宥介の好感度を下げてしまったのではないか、と詠子は不安になる。でも仕方ない、可愛さをアピールするのは今ではない。今は、どうにかして宥介を止めなければならない。

 やがて宥介は静かに口を開いた。

「わかった。後でみんなに提案してみよう」
「はい、そうしてください。弘くんは賛成してくれそうですけどね」
「うん? どうして?」
「この小屋に籠っていたら安全でしょー? 自分が安全なままクリアできるんですから、その手に飛びつくと思うんですよねぇ」
「そうか。じゃあ、その線で押していこうかな」

 宥介はふっと笑った。コップに汲んであった水をぐいっと飲み干す。詠子も同じように、コップの水に口をつけた。冷たい液体が喉を流れていく。

 二人の間に沈黙が下りたが、嫌なものではなかった。二人が話していたから誰か起きるかと詠子は思ったのに、誰も起きてこなかった。三人は熟睡しているようだった。羨ましい、と思う自分を隠して、詠子は欠伸を噛み殺す。

 宥介は窓の外を見に行った。外はまだ暗く、森の木々しか見えない。バケモノが見えるはずもなく、何も知らなければただの山小屋で一夜を過ごしているとしか思えない。

 何かを考えるような顔をしながら、宥介がダイニングテーブルに戻ってくる。そして、その様子を目で追っていた詠子に訊いた。

「詠子ちゃんは、バケモノに対抗するすべはあると思う?」

 予想だにしない質問に、詠子は戸惑った。この人は何を考えているのだろう、と思ってしまう。バケモノに対抗するすべがあるのなら、夜にも動くつもりなのだろうか。

 詠子は答えに迷って、正直な感想を口にした。

「ないんじゃないでしょうか」
「どうして、そう思う?」
「アイは、わたしたちにはバケモノに対抗する手段はありません、と言ってました。それがルールのはずです。だから、わたしたちはバケモノから逃げるしかないんだと思います」
「なるほど。確かに、そうだ」
「だから宥介さん、日の出までは外に出ちゃだめですよ。宥介さんがいなくなったら困るんですから」

 詠子が宥介に言うと、宥介は笑った。ごく自然な笑顔だった。

「ぼくがいなくなったら詠子ちゃんがみんなを引っ張っていってくれよ」
「やですよ、そんなの。あたしには無理ですよぉ」

 ぶんぶんと身体の前で手を振って、可愛く見えるように否定する。宥介はそんな詠子の様子を見て、微笑んでくれる。宥介は可愛いと思ってくれているのか、詠子は不安になる。

 朝を告げるサイレンが鳴った。これでもうバケモノはいなくなったことになる。

 宥介は席を立ち、外へ出て行こうとする。詠子はその背中を呼び止めた。

「宥介さん、あたしも行きます」
「外の空気を吸いに行くだけだよ。一人でどこかに行ったりしないさ」
「いーえ、信用できないので。あたしも行きますっ」
「そう。まあ、いいけど、信用されていないのは悲しいな」
「どっか行っちゃいそうですもん。一人では行かせませんよ」

 宥介は肩を竦めた。しかし、詠子が来ることは拒まなかった。

 二人は小屋から外に出ていく。その話を聞いていた人物がいるとも知らずに。





 午前九時過ぎになって、ようやく全員の出発の準備が整った。いちばん時間がかかったのは弘だ。そもそも起きてきたのが遅い。ベッドを使っていたせいでもあるのか、昨晩はぐっすりと眠れたようだった。それで役に立てばいいのだけれど、と詠子は思う。

 全員が集まって座れる場所がないから、ベッドの上やダイニングテーブルの椅子など、思い思いのところに各々が座る。宥介と詠子はダイニングテーブルの椅子に座っていた。

 作戦会議らしい雰囲気を感じ取ったのか、弘や菜美の表情は硬い。早苗はそんな周囲の様子を見て、何かが始まるのだと察しているようだった。

 宥介が全員の顔を見回して、口火を切った。

「やはり分かれて行動すべきだと思う。ゲームのクリアを考えるなら、分散してヒントとウサギを探すほうが効率的だ」

 菜美は不安そうな瞳で詠子を見た。いつもならここで詠子がすかさず拒むところだ。しかし、今日の詠子は何も言わない。既に話し合った後だからだ。

 分散行動と聞いて、拒否感を示すのは弘も同じだった。おどおどとしながら、周りの様子を気にして宥介に尋ねる。

「わ、分かれるって、どういうグループにするんですか」

 その質問も予想済みだった。宥介は単調に、少し重みのある声で答えた。

「ぼくと詠子ちゃんは外に出る。菜美、早苗ちゃん、弘くんは、探しに行ってもいいし小屋に隠れていてもいい」
「えっ? 二人だけで外に探しに行くの?」

 意外にも食いついたのは菜美だった。詠子は失念していたが、菜美は宥介のことが好きなのだった。好きな相手が女子高生と二人で行くなんて、簡単には受け入れられないかもしれない。

 宥介はちらりと菜美を見て、口調を変えずに言った。

「たぶんぼくと詠子ちゃんの二人で行くほうが、五人で動くより速い。詠子ちゃんなら判断力もあるし、体力もある。さっさとウサギを見つけてクリアするなら、そうするほうが早いはずだ」
「で、でも、二人で行くの? 詠子ちゃん、それでいいの?」

 菜美が何を気にしているのかは、詠子にはわかった。宥介と二人で小屋で過ごすことになってもよいのか、ということだ。若い男女がこの小屋の中で二人きりになれば、何らかの過ちがあってもおかしくはない。菜美はそれを気にしているのだ。

 どう答えるのが正解だろうか。可愛く思われるには、どうするべきだろうか。いや、そもそも、もう可愛くあるべきだと思うこと自体、間違っているところまで来てしまったのかもしれない。死にたくないのなら、多少可愛くない行動を取らなければならないのかもしれない。

 詠子は逡巡する。そして、選択する。

「大丈夫ですよぉ。さっき宥介さんと話しましたけど、ちゃちゃっとこのゲームをクリアするほうがいいんじゃないかって話になったんです。少人数のほうが動きやすいですし、宥介さんなら何かあっても何とかしてくれそうでしょー?」

 詠子は可愛さを捨てた。守るのは、仮面の下の悪態だけ。この悪態だけは、何があっても晒すわけにはいかない。自分の本性を明かすわけにはいかないのだ。

「そうかもしれないけど、でも」

 菜美は言葉にならない何かを訴えてくる。宥介から離れるのが嫌なのだろうと詠子は推察した。まして、宥介に詠子がついていくのだ。納得はいかないだろう。

「お、俺も、反対です。どうして詠子なんですか」

 弘が珍しく意見を述べた。弘なら小屋にいることを喜ぶだろうと思っていた詠子は、あまりにも意外で言葉を失ってしまった。

「詠子じゃなくてもいいんじゃないですか。それこそ、俺だっていいはずです」
「弘くんはそんなに早く動けないでしょ。体力もないんだし、分かれて行動する意味ないよ」
「でも、詠子を連れて行くなら俺だって連れて行ってほしい。詠子は俺の彼女ですよ」

(ここで彼氏面かよ。おいおい、彼氏だって言うならもっとそれらしいことしろよ)

 弘の主張に、詠子は頭が痛くなってしまった。悪態が口から出て行きそうになるのを堪える。

 宥介は冷静だった。弘の主張を聞いて、早苗に視線を移した。

「早苗ちゃんはどう思う? 分かれるか、固まるか、どちらがいいと思う?」

 意見を求められて、早苗は詠子のほうを見た。なぜ自分を見たのかわからず、詠子は首を傾げる。何か、訊きたいことがあったのだろうか。

「わたしは、このまま五人で動くほうがいいと思います」
「なるほど。どうして?」
「宥介さんも詠子ちゃんもいなくなったら、わたしたち三人はきっとどうしたらよいかわからなくなってしまいます。残されるわたしたちのことも考えてほしいんです」

 早苗は暗に菜美と弘を批判しているようだった。どちらにもリーダーシップがないから、率いるとしたら自分がその役目を負うことになるだろう。早苗はそれが嫌なのかもしれない、と詠子は思った。

 宥介は天を仰ぎ、ふうっと息を吐いた。

「三対二、か。否決だね。五人で動こう」

 宥介が折れるのは早かった。こんな状況でも多数決を重んじているのだろう。

「ていうか宥介さん、詠子と二人で行きたかっただけなんじゃないですか」

 弘が苛立ったような口調で宥介に食ってかかった。宥介は弘を一瞥しただけで、特に何も反論しなかった。弘の次の言葉を待っているようだった。

「詠子と二人きりでこのゲームを進めたかったんだ。詠子が可愛いからって、二人きりになりたかっただけなんじゃないですか」
「やめてよ弘くん。そんなわけないでしょー?」
「詠子のことを買ってるのも、詠子が可愛いからなんだ。宥介さん、あんた、詠子に近づきたいだけなんだろ!」

 弘は掴みかかるような勢いで宥介に近寄った。宥介の瞳は冷めていて、怒りの色はなかった。むしろ哀れみさえ感じられるような、静かな色を湛えていた。

「そうだと言っても、そうではないと言っても、きみの怒りは収まらないだろう? 答えるだけ無駄だよ」
「なんだと、この!」
「やめて、弘くん! 宥介さん、ごめんなさい、怒らないであげてください」

 詠子が宥介と弘の間に割って入り、弘を制止させる。弘は怒りを滲ませたまま宥介を睨んでいる。宥介は何事もなかったかのように、静かに息を吐いた。

「詠子は俺の彼女だ! 手ぇ出したら怒るからな!」
「やめてってば! 宥介さんはそんなつもりじゃないよ!」

 宥介が不意に席を立った。誰の顔を見るでもなく、平坦な声で言った。

「外の空気を吸ってくるよ。大丈夫、ちゃんと戻ってくる」
「菜美さん、宥介さんについていってくれませんか。どこか行っちゃうかも」
「う、うん、わかった」

 宥介と菜美が小屋の外に出て行く。未だに怒りが収まらない弘と、そんな弘に戸惑っている早苗、そして苛立ちを懸命に抑え込んでいる詠子が残される。

「詠子、どうして宥介さんの肩を持つんだよ? お前は俺の彼女だろ」
「それとこれとは話が別でしょー? 宥介さんはゲームクリアのことを考えて言ってるんだよ」
「それにしたって、宥介さんは詠子を特別扱いしてる。きっと詠子のことが好きなんだ。それで、二人きりになろうと思ってあんな話を始めたんだ」

 思い通りにならなくて、詠子は溜息を吐いた。弘の勘違いをどうにかしなければならない。また問題が増えてしまった。宥介が自分のことを好きだなんて、そんなことがあるはずがない。宥介はゲームクリアしか見ていないのだから。

「でも、確かに宥介さんは詠子ちゃんのこと信用しているよね。最後尾も任せるし、何か悩んだら真っ先に詠子ちゃんに訊くし」

 早苗がそう言うと、弘の炎がますます燃え上がった。

「だろ? あいつ、絶対詠子のこと狙ってるんだ。そうはさせないぞ」
「そんなことないってばぁ。誰も何も言わないから、何か言うあたしに訊いてるだけでしょ」
「とにかく、詠子、気をつけろよ。あいつが言い寄ってきたら教えろよな」

(お前に教えてどうなるんだっつーの。お前に何ができんだよ)

 詠子は可愛い仮面を被り、その裏で呟く。表面上は困った顔を見せながら。

「詠子ちゃんと宥介さん、けっこう仲良いもんね。今朝も早くから二人で話していたし、弘くんも大変だね」
「早苗ちゃん、起きてたの?」
「ん、ちょっとだけだけどね。二人で外に出て行ったのは知っているよ」
「はあ? そうなのかよ、詠子?」

 早苗が余計なことを口走ったせいで、ますます面倒なことになってしまった。詠子はどう答えるべきか悩んで、嘘にならないように弘に答えた。

「外の空気を吸いに行っただけ。何もしてないよ」
「ほんとか? 実はあいつに浮気したりしてるんじゃないのか?」

(めんどくせえな。こいつ、こんなにめんどくさい奴だったっけ?)

 詠子は心の中の考えを表面化させないように気をつけながら、弘の手を握った。

「大丈夫だよぉ、浮気なんてしてないって。宥介さんには菜美さんがいるでしょ。そっちを応援してあげなきゃ」
「そうかよ。あいつとあまり二人きりにならないでくれよ。何かしてくるかもしれない」
「はぁい。気をつけるね」

(何かしてくるわけねえだろ、宥介さんはゲームクリアしか見てねえんだから)

 そこで宥介と菜美が小屋の中に戻ってくる。菜美は少し嬉しそうに、宥介は何かを考えているように。あちらでもなにかあったのかもしれない、と詠子は思ったが、菜美に尋ねるのはやめておいた。

 宥介は全員の顔を交互に見ながら、言った。

「準備ができたら出発しよう。今日こそ東端の石碑に着きたい」

 四人が頷く。見ている方向性が違うことには、詠子は気づいていた。宥介を除けば、誰一人として東端の石碑を目指していないのだ。皆、互いの人間関係ばかりを気にしていた。

 出発するのは早かった。というのも、あまり荷物がないからだ。道中に飲む飲料水だけ持って、五人は小屋を後にした。宥介の先導に従い、菜美、弘、早苗、詠子と続いていく。相変わらず詠子は最後尾を任されていた。弘が代わりを申し出たが、宥介が拒んだ。弘では置いていかれてしまうかもしれない、という理由だった。それが弘の自尊心に傷を与えたのではないかと詠子は心配していた。

 木の根を乗り越え、草木を踏みしめながら歩くのも慣れてきた。それは詠子だけなのか、全員の速度はさほど上がらない。やはり弘と菜美が遅いのだ。宥介は時々後続を待って立ち止まり、ついでに周囲の様子を確認している。

 そして、ついに森が開けたところに出てきた。海に向かって突き出した崖に、大きな石碑が立っていたのだ。それを見つけた時、詠子は思わず声を上げてしまった。

 宥介はすぐさま地図を開く。これが東端の石碑で間違いなかった。

「やっと辿り着いた。これだ」

 宥介の声にも達成感が溢れていた。すぐ後ろを歩いていた菜美も石碑に近寄り、見上げる。菜美の身長よりも高い石碑は、崖の上で堂々と立っていた。

 ここまで長かった。詠子たちも追い付き、弘はその場に座り込んでしまう。ようやく東端に着いたのだ。何らかの収穫があってほしかった。

「あれ? 宥介くん、何か書いてあるよ」

 菜美は石碑の下のほうに書かれていた文字を見つけて、顔を寄せる。

「菜美、危ないよ。もう少し慎重になったほうがいい」
「大丈夫だよ、スイッチとかもなさそうだし。何て書いてあるんだろう」

 菜美は砂で汚れてしまっていて読めなくなっていた文字を手で払い、砂をよける。

 その瞬間、菜美の首をめがけて水が噴射された。

「きゃっ!」
「菜美!」

 宥介が叫んで菜美を助けようとしたが、遅かった。水は菜美の首輪を濡らし、首輪が赤く点滅した。

「プレイヤー畑岡菜美。水濡れを確認。ゲームクリア失敗」

 機械音声が流れる。菜美は苦しそうに喘ぎ、首輪をかきむしるように爪を立てる。

「あ……あ、く、くるし、ゆ……すけ、くん…!」
「菜美! 菜美っ!」

 宥介が菜美の身体を支えたが、菜美はそのまま崩れ落ちた。宥介の腕の中で息を引き取り、源大と同じように、その姿が砂のように消え去っていく。そこに菜美がいた痕跡は一切残らない。

 詠子はいつしか水トラップの存在を忘れてしまっていた。そういえば、そんなものがあったのだ。きっと菜美も油断していて、それで水トラップに引っかかってしまったのだ。

 宥介は膝をついたまま、しばらく俯いて何も言わなかった。詠子はかける言葉が見つからずに、そっと宥介の傍に寄り添うことしかできなかった。

 宥介は泣いていなかった。唇を噛み、じっと何かを堪えているようだった。詠子が傍らに来たことに気づくと、その視線を石碑に向けた。

 そして、宥介は立ち上がり、石碑のほうへ向かう。先程菜美が砂を払った文字を見る。

「夕日を臨む石碑の中に、か。これがヒントだな」

 誰も宥介に声をかけることができなかった。宥介は菜美が死んだことなど気にしていないように見えたのだ。それが気丈に振舞っているだけなのか、本心からなのか、詠子にはわからない。

 石碑の近くには宝箱が置いてあった。宥介は迷わず蹴り開ける。中にはハンドガンのような水鉄砲が入っていた。いったい何に使うというのだろう。宥介は水鉄砲もジャケットの中にしまい込み、未だに声を失っている三人に言う。

「ヒントは得た。戻ろう。小屋を探したい」
「ゆ、宥介さん、菜美さんがいなくなっちゃったのに」
「詠子ちゃん。菜美はいなくなってしまったけれど、悲しんでいる場合じゃない。ぼくたちはゲームをクリアしなくちゃいけないんだ」
「どうして、そんなにドライなんですか? 悲しくないんですか?」

 詠子が問うと、宥介は詠子から視線を逸らした。

「悲しいよ。でも、やるべきことがある。菜美の犠牲は無駄にしない。それが、ぼくにできる精一杯だ」

 宥介はそれだけ言って、詠子の横を抜けて森へと戻っていく。何も言い返せずにぐっと唇を引き結んだ詠子の手を、早苗が引いた。
「詠子ちゃん、行こう。宥介さんは待ってくれないよ」

 菜美が死んでしまったのに、悲しむ時間すら与えられないのだ。これはそういうゲームなのだ。もしかしたら宥介もそれがわかっていて、小屋に着いてから悲しむつもりなのかもしれないと思った。

 詠子は前を向いた。行かなければならない。菜美の犠牲を無駄にしない、そう言った宥介についていかなければならない。

「ありがと、早苗ちゃん。小屋に着いたら思いっきり泣いてやるんだから」

 森の中を黙々と進んでいく宥介の背を追って、詠子と早苗は歩き出した。

 一人欠けた。それは、とても重いものだったのだ。