翌日月曜日。
 学祭まであと二日だ。
 気合をいれてジャージ姿で登校すると、クラスの大半もジャージ姿だった。中でも黒板前に集まっていた行灯班はすでに疲労困憊ムードだ。
 先に登校していた亜里沙へ柚月はそっと声をかける。

「あそこ、どうしたの?」
「あああれ? 土日かけて行灯作りをしたんだってさ。徹夜の子もいたみたいよ」
「どこで? 学校には入れないわよね」
「メンバーの家がこの近所にあるんだって。行灯も余裕で入るガレージがあって、そこで作業をしたらしいよ」

 札幌でも四本の指に入る進学校だ。
 医者の両親を持つ生徒も多い。自宅が広いというのも納得だ。
 感心をしていると、「はいはいー」と陽翔が手を叩きながら教室へ入ってきた。

「追加でカニに塗るアクリル絵具を持ってきたよ。休み時間にコツコツ塗っていこうぜー」

 追加っ? と行灯班が声を裏返す。

「聞いてないよ。夕べの作業で完成だと思っていた」
「重ね塗りした方が迫力が出るでしょ」

「いや知らねえし」、「いまさらどこを塗るのよ」、「お前、こだわり過ぎなんだよお」と行灯班の空気が悪くなっていく。
 登校してきた仁奈が「なに、どうしたの」と声をひそめて聞いてきたほどだ。

 そこで陽翔が「じゃーん」と声をあげた。ひとかかえはある大きな袋を掲げている。

「みんな大好き、星印のカツモトです。担任の先生からの差し入れだよー」

 わあっ、とクラス中が沸きあがる。

「クラス全員分あるからさ。模擬店班も飲んでくれよー」

 星印のカツモト。
 北海道限定の乳酸飲料で道民のソウルフードならぬソウルドリンクだ。
「カツモトだって」、「やった、大好き」と仁奈と亜里沙もウキウキと立ちあがり、「はい」と柚月へカツモトの紙パックを手渡した。

「柚月、飲んだか? 飲んでいるかー」

 陽翔の声に「ああうん、ありがと」と小さく手をあげる。仁奈がカツモトをすすりながら苦笑した。

「陽翔くんって相変わらずうまいよね。あっという間に険悪な空気を変えちゃったもんなあ。カニの塗装だってちゃんとやらせるんだろうね」
「差し入れは先生からだけどね。でも」と亜里沙は声を落とす。
「……陽翔くん、がんばっているよね。目の下、すごい隈だよ。あれは貫徹だね」
「ほかの行灯班もひどい顔だし。みんながんばっているよね」
「ウチも土曜日に予行練習してがんばった気になっていたけどさ。改善点は山ほど出たし、のんびりしていられないっていうか、なんていうか」

 三人で顔を見合わせる。

「あ、あたし手順の確認をしよう」、「私も提出物の確認をするわ」、「わたしは容器ボックスの札つけをするね」とあわただしく作業へ取りかかった。
 飾りつけの補強や小銭入れの準備など、やるべきことは山ほどある。
 授業合間の小さな休み時間や昼休みに作業を進め、放課後はクラスの誰もがジャージ姿で本格的な準備だ。

 そんなふうに夢中で準備していると、バケツの水を替えにいっていた亜里沙が「ちょっとヤバいって」と顔色を変えて戻ってきた。

「ほかのクラスの子に聞いたんだけど、ウチの『杏仁豆腐クラッシュ梅ゼリー』がすっごく評判になっている」
「なんでよ。秘密のメニューにしたでしょう? 数量限定であんまり提供できないからって」

 柚月が眉をよせると「ああ、それおれー」と陽翔が明るい声を出した。

「すっげえうまそうだから、部活の後輩とかにもいいまくった」
「なんてことしてくれんのよっ」と仁奈は陽翔へ詰めよる。

「本当に少ない量しか提供できないから黙っていたのに。買えなかった子たちにクレームつけられたらどうすんの」
「ほかのメニューもうまそうだから騒ぐやつなんていないさ。それに手に入れにくければそれだけ価値があがるって」
「そういう問題じゃないっ」と、仁奈は顔を真っ赤にする。

 陽翔の宣伝効果は絶大で、柚月も廊下を歩くたびにほかのクラスの子たちから「梅ソーダの梅シロップって柚月が作ったんだって?」とか「あっさり餡の白玉お汁粉、楽しみにしているねー」と声をかけられるありさまだ。

「ああもう、どうする?」、「すっごいプレッシャーなんですけど」、「本当だよ。手順確認をもう一度やってもいい?」と模擬店班は柚月だけでなくて涙目だ。

 そして日が変わって学祭前日だ。
 焦燥感は前日の比ではなかった。
 授業は学祭の注意事項のホームルームのみで、あとは全時間学祭準備だ。
 校内のそこかしこで声が立ち、誰もが無我夢中だ。柚月もいつ弁当を取ったのか覚えていないほど、あれやこれやと走り回った。

 焦りすぎて皿をひっくりかえしたり、布を裏返して飾りつけしたりとやり直しが続出だ。
 これ、終わるの? 本当に学祭ができる? 
 なんども泣きたくなる。
 無我夢中で手を動かして、「できたーっ」と亜里沙が飛びついてきて顔をあげた。外はすっかり暗くなって強制下校時間が迫っている。
 仁奈も「間に合ったー」と柚月へ赤い目を向けて、ようやく柚月は肩の力が抜けた。
 ……本当に間に合ったんだ。

「みんなお疲れーッ」

 級長の声が教室に響いた。見ると黒板前に担任の先生と学祭委員も立っていた。

「いよいよ明日から本番だ。この一か月のがんばり、明日にぶつけようぜっ」

 せえの、と掛け声があがって、クラス全員で「おおっ」と拳を突きあげた。
 鳥肌が立つ。
 ヘトヘトなのに妙な緊張感が身体にみなぎる。
「あたし、今日、眠れないかも」、「私もー」、「わたしも」と言葉を重ねる。
 学祭はまだはじまっていないのに、ふわふわとした達成感があった。

 帰宅すると「お帰りっ」と巌が待っていた。

「飯はできているぞ。手を洗ってこい」

 へ、と一瞬で我に返る。
 あわてて手を洗ってリビングダイニングへ入る。ダイニングテーブルに大きなおにぎりと湯気の立つ味噌汁が並んでいた。

「お父さんが作ったの? すごいっ」
「ザンギはスーパーのやつだけどな。豚汁はばあさんから教わったやつだ。握り飯は、まあ、お前にはかなわねえけどな。許せ」

 これから晩御飯を作るつもりだった。
 冷蔵庫になにがあったかなあ、と思いつつ帰ってきた。
 キツイなあ、疲れたなあ、と思っていた。それなのに──。

「食べていい?」
「おう。食え」

 いただきまーす、と両手を合わせて味噌汁をすする。味噌の風味が身体いっぱいに広がって目尻がきゅーっとさがる。

「豚の脂の旨味が最高。すっごくおいしい。お父さん、すごい」

 手のひらいっぱいほどの大きなおにぎりにもかぶりつく。ガツンと塩味が口に広がる。それがやみつきになる。
 こんなに大きなおにぎりなのに、食べきっちゃいそう。

「無理するな。多かったら残してもいいんだぞ」

 心配そうな声を出す巌へ首を振り、「おいしい、おいしい」と完食する。「大丈夫かよ」と作った巌が呆れるほどだ。

「明日からいよいよ学祭本番だな。最終日は一般公開なんだろう? 何時からだ? お前は教室にいるのか?」
「開場は十時だったかな? わたしは教室にいるけど、でも平日よ? 仕事でしょう?」
「有給休暇を取っちゃる。俺が取らないとほかの連中が取りにくいからな」
「そういうものなの?」と答えつつ、そういえば、と公武を思い出した。

 公武さん、一般公開へ誘ったけど、きてくれるかなあ。
 発表はどうなったかなあ。大丈夫だったかなあ……。
 思う先からじわじわと眠気が押しよせた。巌が「おい」と柚月の頭をつつく。

「ダイニングテーブルで寝るな。ここは片づけておくから、風呂に入ってもう寝ろ。明日も早いんだろう?」

 うん、と立ちあがり、睡魔と戦いシャワーを浴びた。ストレッチもせずにベッドへ横になる。あっという間に眠りに落ちた。

 やがてにぎやかな雀の声で目を覚ました。

 カーテンを開けると雲ひとつない青空が広がっていた。
 わあ、と頬を緩めて深呼吸をする。不意に公武の声がよみがえってきた。

 ──大変でしょうが、がんばってください。いましかできないことですから。

 ……本当だなあ。
 いまはまだ実感がないけど、きっとこれはかけがえのない時間なんだ。
 仁奈の顔が脳裏に浮かんだ。亜里沙の顔も続く。
 胸に手を当て口角をあげる。
 よおし、学祭を楽しむぞ。