何が起こっているのかわからなかった俺は、朝食の支度をする母親の態度とテレビのニュースで、時間が巻き戻っているのだと理解した。
にわかには信じがたいが、もしも本当に一週間前まで戻ったのだとしたら。
じっとしていられるはずもなくて、俺は着替えを済ませると一目散に家を飛び出して学校へと走った。
「わっ……!? びっくりした。志麻くん、おはよう」
「…………千綿」
登校中の千綿の後ろ姿を見つけて、声を掛けるよりも先に肩に手を伸ばす。
振り向いた彼女は驚いた顔で俺のことを見上げていて、本当に生きているのだと実感した。
(俺の願いが、叶ったのか……?)
そんな魔法のようなことはあり得ないと思うのだが、実際に千綿は生きている。
もしかしたら、長い長い悪夢を見ていただけなのかもしれない。そんな風にさえ思ってしまう。
半信半疑だったその状況も、昼になる頃には紛れもない現実なのだと理解することができていた。
サンドイッチを頬張る千綿の横顔を眺めていると、やっぱりあの学園祭での出来事の方が、夢だったように思えてくる。
「俺の話してた?」
「し、してない……!」
花江と話しているところに急に割って入ったから、千綿は慌てているようだった。だけど、俺は構わずに手元のサンドイッチに噛り付く。
弁当のお裾分け――見方によっては一方的かもしれないが――をよく貰うのだが、千綿の母親はやっぱり料理が上手い。
それを千綿が食べるからこそ、より美味そうに見えるというのは間違いないだろう。
やっぱり現実はこちらの方なのだと安心することができた。
「そういえば、志麻くんも前は眼鏡かけてたよね」
コンビニへの買い出しの最中、スミセンを見ていた千綿がそんなことを言い出す。
「……千綿は、前髪ぱっつんじゃなかったよな」
そう言って話題を逸らしたのだが、確かに俺は一年の頃は瓶底と言っても差し支えない分厚い眼鏡をかけていた。
前髪だって今よりもずっと伸び放題で、周囲から自分という存在を隔離するような状況だったのだ。
それらはすべて、自分で意図してやっているものだった。いわゆる高校デビューの、逆バージョンとでも言えるのかもしれない。
『藤岡くんのことが好きです』
そう伝えてきた相手の名前はおろか、顔すらももう覚えてはいない。
中学の頃まで髪を短くしていた俺は、好意を告げられることが何度かあった。大抵はよく知りもしない女子だったのだが。
彼女たちは決まって『かっこいいから』を理由に挙げてきた。そして、『思っていたのと違う』と去っていく。
元々無かった繋がりが失われるだけなので、それ自体は別に構わなかった。
今思えば中学生なんてそんなものなのかもしれないが、その様子を面白く思わない人間も少なからず存在する。
昨日まで仲の良かった友達が、まるで俺が存在しない人間であるかのような態度を取り始めた。
ある時は、顔も見たことのない先輩から『彼女を奪った』と言いがかりをつけられたこともある。
隣にいてくれる友人もいたが、俺がそうした出来事を打ち明けると『顔がいいから、その分いい思いもしてるだろ』と言われた。
こんな顔なら無い方がマシだと思うようになって、そのうち周囲は俺という人間を見てはくれないのだと諦めるようになった。
だから高校に入ってからはずっと、周りに関わることをせずにやっていこうと思ったのに。
『藤岡くんのもさあ、そのくらい切りたくなるよね』
会話もしたことのないようなクラスメイトが、勝手なことを言っているのが聞こえた。
こんな髪型をしていれば他人からは鬱陶しく見えるだろう。それでも、誰にも迷惑なんてかけていない。
読書ではなく音楽でも聴いていれば良かったと思った時、耳に届いたのが彼女の声だった。
『一人でいるのって、悪いことじゃないよね』
周囲はみんな同調するだろうと予想していたのに、それは思いもよらない言葉だった。
『どんな人なのかってちゃんと知ったら、見え方も変わること……あると思うんだ』
嶋千綿。良くも悪くも派手に目立つ方ではないが、ああやって物申すタイプではない印象だったのに。
(……周りは全員こうだって、決めつけていたのは俺の方なのかもしれない)
そんな風に考えが変わった日の帰り道、俺の前に再び彼女は現れた。
『落し物は拾えるけど、視界が狭いと危ないから気をつけて帰ってね』
彼女からしてみたら、当たり前の気遣いだったのかもしれない。
それでも、髪型を変える提案をするわけでもなく、何気ないその言葉が俺にとっては嬉しかった。
(どんな顔、してるんだろう)
自分の意思で伸ばした前髪のせいで、彼女がどんな表情をしているのかをはっきり見ることはできなかった。
それがなんだか悔しくて、俺は少しして買い揃えたコンタクトレンズと共に、髪の毛をすっきりさせることにしたんだ。
千綿の顔がよく見えるようになっただけじゃなく、俺の世界も変わっていった。
相手を知れば見え方も変わる。その言葉通り、勝手に壁を作っていたクラスメイトは中学の時とは違って、気のいい奴ばかりだった。
もちろん、中学の時のような人間が完全にいなくなるわけではないのだが。
それでも高校の三年間が良い思い出になるだろうと予感できるのは、一歩を踏み出すきっかけを千綿がくれたからだった。
そうやって迎えた学園祭当日。
クラスの出し物であるお化け屋敷は想像以上に盛況で、午前中の忙しさは準備期間の比ではなかった。
千綿が主体となって作り上げた看板が、客寄せ効果を大いに発揮していたのも知っている。
金のかかったテーマパークのそれと同等、とはさすがに言わないものの、高校の学園祭にしてはかなり良い出来だと思う。
(休憩になったら千綿誘って、とりあえず昼飯……)
そこまで考えて、俺はあの記憶の中の学園祭を思い出す。
長蛇の列ができていた出店で並ぶのも、千綿と一緒ならば楽しかった。けれど、あそこでそれなりに時間を食ってしまったのも事実だ。
本来ならもっと回りたい場所もあっただろうし、後夜祭までの時間は限られている。
「……村田」
「ん? 藤岡なんか言った?」
「悪いんだけど、ちょっと早めに抜けてもいいか?」
「なんだよー、ちょいサボりか?」
裏方でビニール袋に氷水を入れていた村田は、俺の言葉に口先を尖らせて抗議の声を上げてくる。
本来ならこんにゃくをぶら下げようという案だったのだが、食べ物を粗末にできないとの声と不衛生だとの声で、冷えた水入り袋を下げることになった。
その袋を頬にピタピタと当てられる冷たさに自然と眉間に皺が寄るが、薄暗さと前髪で村田に見えてはいないだろう。
「このあと千綿と回るんだけど、飲食が多分スゲー並ぶから。先に買っときたいんだよ」
理由を素直に伝えると、村田は何かを察したように袋を持つ手を引っ込める。
「なるほどなあ。そういうことなら、この村田様が一肌脱いでやろう」
「サンキュ」
「ついでに俺のも買ってきて」
ちゃっかり買い物を頼まれたが、それを礼代わりとしてくれるのならと引き受ける。
そうして一足先に持ち場を離れた俺は、足早に出店を回って昼食の買い物を済ませた。
混雑してはいたものの、これからもっと混むのだろうと思われる時間帯に比べれば、早めに買い回れたように思う。
時間を節約できた俺は、結果的にあの記憶の学園祭よりも色々な場所を千綿と共に回ることができた。
「…………遅いな」
ベンチに座って行き交う生徒たちの姿を眺めていた俺は、スマホの画面を確認するが特に新しい通知は入っていない。
スミセンの呼び出しを受けた千綿を置いて、どこかに行く気にもなれなかった。
同じ学園祭だというのに、千綿が隣にいないというだけで途端に色褪せた空間に見えてくる。
(やっぱ、一緒に行けば良かった)
一人でいても意味がない。今からでも迎えに行こうかと立ち上がったところで、近づいてくる足音が聞こえる。
「ちわ……」
「藤岡くん見っけ!」
千綿かと思って顔を向けた先にいたのは、彼女ではなく二人組の女子生徒だった。