*


 幾年かが経ちました。
 誰になにを言われようと、あなたは妻を娶ろうとせず、あたくしを傍に置いておきたがりました。
 そのことに、あたくしはいつも申し訳ない気持ちと仄暗い喜びとを一緒くたに感じては、この息苦しいだけの戀を今後どうすべきかと、震わしい思いに駆られるばかり。

 戯れの延長なのでしょうが、紫陽花の季節が訪れるたび、あなたはあたくしに『どの色の紫陽花が好きか』と尋ねます。
 毎年、毎年、あたくしが倒れていた辺りをふたり並んで歩いては、出会いの思い出にそれぞれ耽り、そして帰り際にそう問うてくるのです。

 あたくしは、そのたびに白と答えました。どの宝石よりもきらびやかで、それでいて無垢でしょう、と。
 美しさは、花にとってすべて。だからこそあたくしは、己の美しさを称えるためにそう返していたのです。己がちっぽけな花に過ぎぬことを忘れるなという自戒も込めて。

 そうして、また幾たびか季節が巡りました。

 少年と青年の狭間を泳ぐ瑞々しさを、力強くその身に秘めていたあなたは、出会いの日から相応の月日を重ね、髪に、あるいは肌に、(よわい)を重ねた証を覗かせ始めていました。
 隣を歩くあたくしはといえば、もはや己が紫陽花であった頃を忘れる日もしばしば。紫陽花の季節が訪れるたび、あなたにどの色の紫陽花が好きかと問われ、それでようやっと思い出す……そんなことを繰り返す始末でありました。
 このときにも、あたくしは同じ問いに同じ答えを返したのです――しかし。

「……そうだろうか」

 低く返され、あたくしは目を瞠りました。
 これまでは『そうか』とはにかんだように笑うだけだったのに、あなたは今、なんとおっしゃったでしょう。

「あれを見てご(らん)

 戸惑ったまま、あなたが指差す方向へ視線を向けます。
 そこには、ひと株の枯れた紫陽花がありました。どんな花びらであったのか、元の色など想像がつかぬほど茶色に萎れたそのひと株から、あたくしは片刻も目を離せなくなります。

「白の紫陽花だったものだ。(しお)れて茶色になって、それでも花びらは散り落ちることを知らない」

 ――なんと無様で、汚らわしいことだろうね。

 忌々しそうに吐き捨てるあなたの声を、あたくしは呆然と聞き入れました。
 告げられた言葉の衝撃を咀嚼しながら、あたくしは静かにあなたへ向き直ります。
 萎れた紫陽花を眺めていたはずのあなたは、いつしかあたくしを睨みつけていました。あたくしは息を詰め、刺すような視線を向けてくるあなたを、その口が開くさまを、じいっと見つめ返すしかできません。

「人は齢を取る生き物だ。なのに、君はいつまで経っても若く美しい……花の精なのかと、戯れに零したこともあったが」

 言いながら、あなたは胸元から細長いなにかを取り出しました。
 す、と柄と鞘が離れ、ああ、小刀か、と気づいたときには、あなたはすでにあたくしにその切っ先を向けた後。

「あやかしの類ならば(はら)わねばなるまい。お願いだ、どうか違うと言ってくれ」

 苦渋の表情であたくしに刃を向けるあなたが、一瞬、泣いているように見えました。
 ……いまさら、その程度の理由であたくしを突き放そうとする心根。ああ、これが人間というものかと、つい声をあげて笑ってしまいます。

 躊躇の欠片もなく、あたくしはあなたの腕に手を伸ばしました。
 あなたは見るからに戸惑い、切りつけるなら今が絶好の機会だと誰の目にも明白だというのに、震える指から小刀の柄を取り落としてしまったようです。

 転がる小刀が光を弾くさまを横目に、あたくしは、あなたの唇に自分のそれを寄せました。
 出会って以降、互いに愛を囁きながらも一度も触れ合ったことのない唇と唇が重なった瞬間、あたくしはあなたのそれを噛みちぎってやりました。ぐ、と呻いてあたくしの肩を押し返そうとするあなたを気にも留めず、たった今つけたばかりの傷口へ塗り込むように唾液を擦りつけ、そして。

 大きく目を見開いて再び呻いた直後、あなたは地面にうずくまりました。
 なにが起きたのかよく分かっていない顔で胸元を押さえるあなたの、その形相がなんだか不憫に思えてしまったあたくしは、毒ですよ、とそっと囁きます。

「あたくしに触れてはならないと申し上げた理由、お分かりいただけましたか」

 毒に痺れて地面に伏したあなたを見下ろしても、もう視線はかち合いません。
 そのことを寂しいと思いました。他ならぬあたくしこそが、あなたをこういう末路へ導いたというのに。

 夢は、夢だから美しい。
 そのことに、あたくしはもっと早く気づくべきだったのでしょう。

 頬を伝う水滴の正体には、間を置かずに気づきました。
 涙。人の真似ごとをして二十余年を過ごしてきたあたくしではありますが、それを零すことは初めてで、けれどそれが涙だとあっさり思い至れるくらいには、人としての生活に慣れきってしまっていました。

 あなたが地面に落とした小刀に、身を屈めて指を伸ばします。
 刃面に映る自分の顔。二十年以上前、あなたに初めて鏡を見せてもらったときと寸分変わらぬ顔。人ならざるものの顔。どうしてか、また勝手に笑いが零れます。
 刃を首に添えると、地面の側からくぐもった呻きが聞こえてきました。

 あなたの声。
 あたくしを止めきれない、哀れなあなたの。

「さようなら」

 地に這いつくばるあなたの、苦しげに歪んだ顔を目に焼きつけながら、あたくしは勢いをつけて己の首を掻き切りました。その方法こそ、あなたを最も傷つけてやれるに違いないと思ったからです。
 そうしてあたくしは、ゆっくりと最後の息を吐き終え、静かに――できるだけ静かに瞼を落としたのです。