いや、それは違う。鞄が汚れたのは俺が強行に及んだせいだ。
けど未早はそれを完全に否定した説明で、母さんを安心させている。
「……そうなの。でも、それなら汚れが落ちて本当に良かったわ」
母さんはにこやかに胸を撫でおろしているけど、実際は全然良くない。しかし奥に佇む未早は「黙ってろ」って感じの視線を送ってくる。はぁ……。
「未早くん、もう時間も遅いから車で家まで送るわね」
「大丈夫ですよ! 充分お世話になりましたし」
「いいのよ、気にしないで。ついでに買い物に行こうと思うし。ね、皐月」
「そうだね。乗ってけよ、未早。明日も学校なんだしさ」
「あ、……ありがとうございます」
綺麗になった鞄と共に、母の運転する車で未早の家まで向かうことにした。車内の後部座席で未早が隣に座る。
「先輩のお父さんは車で出勤してないんですか?」
「してるよ、父さんの車で。これは母さんの車」
「なるほど」
未早はシートに深くもたれた。色々と疲れてるみたいけど、どこか楽しげにも見える。
不思議だな。今までだって狭い空間で過ごしたことはあるし、触れ合ったこともある。なのに隣にいる彼は自分の知らない横顔をしていた。
自分と彼はもう“恋人”同士。そう思ったら妙に意識した。
今は母さんがいるし、下手なことはできない。言えない、けど。

「未早」
「っ!?」

吐息混じりの小声で呼んだあと、彼の手の上に自分の手を重ねた。
視線だけが交わる。言葉を交わしたりはしないけど、しばらくそのままでいた。未早の大きな瞳が今までで一番きらきら光っているように見えた。

「……ここで大丈夫かしら? 未早くん、また遊びに来てね。今度はご飯も食べていって」
「はい、本当にありがとうございました」

三十分ほどで未早の家に到着。彼が車から降りた後、追って車を降りる。ドアを閉める前に車内を覗いた。
「母さん、ちょっとだけ待ってて。すぐ戻るから」
「はいはい」
未早の家はほとんど目の前なんだけど、車から離れて、彼が無事に家に入るところまで見守った。
それに気付いた彼がドアを開ける前にこちらを振り返る。
「紅本先輩、今日は色々すいません。あぁ、先輩が書いたあの小説と同じ……展開速すぎ、ってやつですね。でも、ありがとうございます」
「蒸し返すな。とにかく、夜更かししないでちゃんと寝ろよ」
「へへ、先輩もね。また明日、部活で会いましょう!」
今まで見た中で一番かわいい笑顔を残して家に入って行った。ああいう顔をされると、やっぱり憎めないな。
明日が待ち遠しい。
誰かに会うことが楽しみなんて、何年ぶりだか分からない。遅ればせながらドキドキしてきた。

……おやすみ。
心の中で呟いて、また車に戻った。