グラシアス・ヒル・コーポレーションへの放火作戦、第二の矢が放たれる。
芸能スキャンダルや組織的な管理売春の次には治験のインチキと薬害スキャンダルだ。外国の治験システムにある瑕疵を悪用した怪しい治験プロセスや、含有成分の不正についての暴露が各プラットフォームで投下される。
少しでも冷静さがあれば「誰かがグラシアス・ヒル・コーポレーションを潰そうとしている」とすぐにでも分かりそうなものだが、残念ながらどんなインテリでもネットという仮想空間へとやってくると知力が最小値にまで弱められてしまうことがある。それがネットという魔空間なのだ。
俺の役割はただ拡散するだけ。そう、ただ拡散するだけなんだ。情報をどう受け取り、どのような発信をするかは自己責任だ。その認識があるからこそ何があっても他人事でいられるのだ。
仮に捕まるとすれば、大元のネタを投下した奴らだろう。そいつらは俺以上にヤバい弱みを掴まれている可能性が高いが、そういう奴らが隠れ蓑になってくれるからこそ俺も安心して計画に参加出来る。
もしかしたら一般的なネットユーザーも二の矢が放たれることを期待していたのかもしれないが、思った以上に凄まじいスピードで炎上は広がっていく。観客参加型の番組でもやっている気分だ。俺たちは視聴者にも裏方にもなれる。そして時々うっかりとカメラに映り込んで袋叩きになる奴が出てくる。地獄のロシアンルーレット。
無駄口はいい。作戦に集中しよう。
芸能ネタはそれに興味のない層がはっきりと存在するものの、薬事法の違反や薬害に関することは広く一般的な人々を怒らせる。ゆえにより素早く燃え広がる。それはより一層一般人の正義感を刺激するからだ。
皮肉なことにエビデンスの立証や反証については時間がかかる。今回のような医薬品の成分についてはなおさらだ。俺たちは薬剤師ではない。だから細かいことは何も分からない。俺みたいにベンゼン環で解説がなされてもページを読み飛ばすのが関の山だ。
治験についても大して知っているわけじゃない。俺たちは門外漢で、社会に怒れる暇な正義漢たちなのだ。それでも「専門家」の誰かが「不正が行われている」と指摘すれば、その言葉を参考にする。
俺たちは決して自分でデータを比較するわけじゃないし、物証を集めたりもしなければ「専門家」を名乗る者の素性を調べようともしない。
その理由はただ一つ――忙しくて、そんな時間はないからだ。
ネットの世界では何もかもが光のスピードで進んでいく。だからこそ、より即物的に何かのニュースや結果が発信されることが求められる。誰もクソ長いローディングに付き合おうなどとはしない。「タイパ」が悪いからだ。
映画ですら早送りで見る奴らがいる時代、誰がわざわざ時間をかけて情報の真偽を吟味するのか。そんなことをする奴はよほどの暇人だろう。それよりもネットフリックスの映画を早送りで見ることの方が大事なのだ。ゆえに情報はそれっぽい情報が正解として採用される。
結果としてそれなりに権威のありそうな奴の言っている言葉が何の吟味も審査もなく無責任に世界へと拡散されていく。そこに大した理由などない。なんとなくみんながそう言っているというだけの理由だ。もっと言えば、そいつに任せている方が楽なだけだ。
今回の俺だってそうだ。煉獄のスケキヨからアホみたいな分量の資料をもらったが、とても作戦開始まで熟読が出来る内容ではない。役に立ちそうな部分をかいつまんで読み飛ばすのがせいぜいだ。それでも資料に目を通すだけ、まだマシな方なんだろう。おそらく多くの仲間たちは資料をロクに読み込んでもいないはずだ。
俺たちの放ち拡散した情報は、勝手に世界の遠くにまで浸透していく。誰かがAIに資料をブチ込んだのか、翻訳がなされて海外でもこの炎上は広がっているようだ。愛だけでなく、憎しみが世界を繋ぐことも立証された。大層な皮肉だった。海外のアーティストだかインフルエンサーだかもこの情報を拡散して共有している。グラシアス・ヒル・コーポレーションにとっては悪夢でしかないだろう。
たかだか日本の匿名プラットフォームから、世界レベルの炎上が生まれている。達成感というよりも、火遊びをしていたら森全体を焼いてしまった気分だった。
真相がどうなのかは知らない。はっきりと言えることは、これで「イタズラでした」では済まされないことだ。あちこちで炎上が広がり、人々の憎しみが拡散されていく。それは決して希釈されて薄くなることなどなく、ただ階乗的にタチが悪くなって広がっていく。
メディアが炎上に気付く。
ネットニュース。このチャンスを逃すなとばかりに炎上を取り上げ、さらに加速させていく。どいつもこいつも救いがたいバカで、なのに俺はその中にいる。
グラシアス・ヒル・コーポレーションがあちこちから叩かれる。数十年前であれば想像だに出来ない世界だっただろう。
岡さんは無事だろうか。自分で火を放っておきながら図々しいにもほどがある。でも、それでも彼女には生きていてほしい。無事であってほしい。彼女はリアルで現れた最初の読者なのだから。
作戦開始から6時間ほどが経過する。奇襲を仕掛けられた形のグラシアス・ヒル・コーポレーションは沈黙を貫いている。とは言っても社内は大混乱だろう。なんとなしにあちこちからイタ電が大量にかかってくる映像が浮かぶ。受ける側は全く身に覚えのない理由でヤバい奴らから罵倒の言葉を浴びるのだ。理不尽極まりない。
あいつらは、社員は自分の上層部の奴らのやったことを知っているのだろうか?
知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
だが、少なくとも俺たちはそんなことはどうでもいい。
はっきり言えることは、悪は断罪される。今の時代では誰もが断罪者になることが出来るのだ。
夜遅く。テレビではいまだにこの炎上が報じられていない。さすがに慎重になっているのか、それとも単にスポンサーだから「忖度」しているだけなのか。俺たちが必死に企業の不正を暴こうとしているのに、日和見を決め込んでリスクを冒さないテレビに腹が立ってきた。ネットニュースを見習え。
まあ、もうテレビはいい。あいつらはコンプラやクレームが怖くなってすっかりオワコン化している。もはやテレビに影響力などない。俺たちが自分で真実を拡散していくだけだ。
今回は拡散だけでなく、まとめ記事の書き上げも担当していた。資料を読み込んだのはそれもあった。
資料にはまとめサイトの投稿方法が添付されており、後は煉獄のスケキヨからもらった情報を自分の言葉に変えて記事風にしていく。とはいっても、読んでいてAIの文章っぽくならないようにするだけの話だが。
あとはマッチポンプだ。別名義で作ったまとめサイトを自分で拡散して、アカウントを切り替えてさらに拡散していく。こうすることでマッチ一本分の火力が見事な火柱へと育っていく。
しかし我ながらよく出来た記事だ。どんなバカが読んだとしても炎上事件の概要を短時間で理解出来る。信憑性はアレかもしれないが、情報の取捨選択はユーザー側の自己責任だ。あいつらが暴走したところで俺の知ったところか。
テレビはいまだにだんまりを決め込んでいるが、一部の新聞のネット版が動き出した。この炎上を軽い程度ではあるが取り上げている。裁判が起きることを危惧しているせいか「一体何が起きているのか」という風な反応の仕方だった。バカ野郎、起きているのは炎上だ。それ以外に何もない。
他のまとめ記事担当もブログやらサイトを立ち上げたようで、あちこちで炎と香ばしい煙が立ちのぼっている。仮想空間の地獄絵図。まさに異世界の出来事で良かったなと思えるほどの騒ぎに変わっている。お陰でこれだけひどい状況になってもいくらかの他人事感を自分の中でキープ出来る。
コンビニへ行こうと外出すると、街並みはいつもと変わらない。そこいらを歩き回る人たちは今まさにネットの世界がとんでもないことになっているとは思わないはずだ。マジで異世界みたいだな、と思う。
◆
――翌日になると、各メディアがこの炎上を取り上げはじめる。というのも株価に影響が出たからだ。
グラシアス・ヒル・コーポレーションの株が大幅な値下がりを見せた。それだけ企業としての価値が落ちたということだろう。投資家たちには動揺が広がり、大手のメディアもこれをスルーし切れなくなった。
朝になると、リビングで両親が食事を摂りながらテレビを観ていた。放送されているのは「グラシアス・ヒル・コーポレーションがネットから攻撃を受けて株価が下がっている」という話だった。
「今の時代はこういうのがあるからな。怖いな」
父親が誰にともなく呟く。他人事みたいに言っているが、まさか目の前の息子がその炎上に関与しているなんて思わないだろう。余計なことは言わずに黙っておこうと思った。そうだ。あんたは何も知らない方がいい。
学校へ行く。いつも通りの光景。岡さんは休んでいた。理由は分からない。陰キャのせいで誰に訊くことも出来ない。
休み時間は本を読んでいたが、内容がまったく頭に入ってこない。やめておけばいいのに、気付けばスマホを眺めている。相変わらずネット上の火は収まる気配がない。気付けばグラシアス・ヒル・コーポレーションの株価がどうなるかまで見守っている。
さすがに倒産はないだろうが、かなりのダメージを受けたのは間違いない。ビッグなんとかみたいに社員のせいにするわけにもいかないだろう。それをすれば一層ひどい未来が待っている。そこまで経営陣はアホでないはずだ。願望込みで。
時々クラスメイトの雑談からグラシアス・ヒル・コーポレーションの話題が出てくる。ほとんどの奴らは岡莉奈がそこの令嬢だとは知らない。知っていてもそっとしておこう。彼女のために。
岡さんのいない学校は退屈だった。知らぬ間に時間は通り過ぎて、学校は終わっている。惰性で来ていたのか、気付けば図書室で本を読む体勢になっていた。苦笑いしたくても状況が状況のせいか笑えなかった。
スマホを見る。今日で何回目だろう。炎上のニュースは相変わらず、まとめサイトの閲覧数がアホみたいに伸びている。人によってはバズったと表現するのだろうか。世界中の見えないところにこれだけの暇人がいるのかと思うと、もうちょっと日本をどうにかするために働けばいいのにと思う。
グラシアス・ヒル・コーポレーションの株価は急落している。底値になったら買っておこうか。あれだけの大企業が炎上騒ぎで壊滅に追い込まれるとは考えがたい。かなりの損失は計上するだろうが、必ず暴君的なメソッドでより一層他の人々を不幸にしながら経営を立て直すはずだ。だからこそあいつらはずっとこの世界で王として君臨出来ているのだから。
そこまで考えて、ふと思った。
まさか、煉獄のスケキヨは株で儲けようとでもしていたのか?
メディアがこの炎上をスルーしまくっているように、なんだかんだと各業界のトップどころに食い込んでいるグラシアス・ヒル・コーポレーションの力は強大だ。ここぞとばかりに弓を引いたメディアは後でそれなりの対価を払わされることになるだろう。
もしかしたら、煉獄のスケキヨは株価の急落を予測していたのかもしれない。底値になった時に大量の株を買い占めて、いくらかの時間をかけて株価が戻りはじめた頃に売ればかなりの利益になる。
そうなると、煉獄のスケキヨの目的はやはり金か。そう考えるとすべてが腑に落ちる気がする。
これはあくまで俺の推測でしかない。
だが、やはり煉獄のスケキヨはグラシアス・ヒル・コーポレーションを攻撃して株価を一時的に落として、底値で買った株券を株価の戻った頃に売り飛ばし、莫大な利益を稼ごうとしていたのではないか。
そして、そのメソッドがうまくいくかを試すためにKJこと鮫島賢司やじゅりぴこと真田樹里亜を「練習」の相手に選んだだけなのかもしれない。あいつらは練習で火ダルマになったのか。本当にヤバい奴からすれば、ネットの人気者もただのカス扱いなんだな。
彼らが火ダルマとなり、現に煉獄のスケキヨが推し進めてきた手法が有効であることは証明されている。あとはその「技術」を当初のターゲットに向けて行使するだけ。そう考えると、俺はいよいよとんでもない奴の片棒を担いでしまった感がある。
仮に捕まったとして、俺は何罪になるのだろう?
恐喝罪? 名誉棄損罪? それ以外にも素人の知り得ない罪が色々と重なる気がする。加えて奴の指示を受けながら鮫島一味を社会の闇へと葬ってきたことから、俺と主犯の距離が近すぎる気がする。これだと何かあった時にシラを切り通すのは難しいだろう。
どうしよう。この件でスケープゴートが求められた時、俺がその役割に選ばれそうな匂いがプンプンする。選ばれし者にはなれなかったが、スケープゴートにはやたら選ばれてきた気はする。
嫌な気付きだ。今さらどうしようもないのに、どうしてこういう考えが天啓のように降ってくるのか。
今さら引くに引けない。後でまた煉獄のスケキヨの指示が来るかもしれない。
どうせここで本を読んでいても内容が頭に入って来ないのだ。そうであればさっさと帰った方が賢いな。決まると動くのは早かった。俺はさっさと帰宅することにした。
◆
帰るとそれはそれでパソコンを使って同じことをやっている。
俺たちのやった活動はちゃんと効果を出しているのか。メディアは事件を取り上げているのか。世間の反応はどうなのか。岡さんは無事なのか。考える要素がたくさんあり過ぎてグルグルする。
要はキャパオーバーだ。やはり未成年にこのレベルの炎上は荷が重すぎた。他人事として見ていたつもりだが、知らぬ間に精神が削られていたようだ。
実際には煉獄のスケキヨに脅されて作戦に参加していただけだが、俺のやったことは少なからず違法性があるはずだ、アホな俺でもそれぐらいは分かる。
真相が発覚した後の方が怖い。まずは一生働いても返せないような賠償金を請求される可能性が高い。そうなるとこの家は売られてしまうのだろうか。俺のせいで、家族全員が路頭に迷うのだろうか。それは嫌だ。本気で嫌だ。
ワンチャンで未成年だから罪には問われてもどうにかなる部分はどうにかなるのかもしれない。それでも俺の情報はずっとネットに残り続けていくだろう。そうなればまともな仕事に就くことが難しくなる上に、生きている間はずっと虐げられる可能性が高い。
仮に無事で済んだとしても、今後の人生をずっと身バレの恐怖と闘いながら生きていくことになる。そんなメンタルで俺は生きていけるのか。
――ある意味、すでに人生が詰んでいるのかも。
そんなことを思った。いまだに炎上は燃え広がり、街を歩いていても出てこないようなヤバい奴らがネットの大海で怒りを爆発させている。彼らにはどうやったら会えるんだろう? 会いたくないけど、どこで会えるのか不思議になってくる。
とりあえず俺のやれる役割は大方終わっている。
放火当時の呟きはすでに消している。プロジェクトがすべて終われば、アカウントも消す予定だ。次に何かあればまた別のアカウントを作ることになる。その日を思い浮かべると憂鬱な気分になった。
後はこの炎上の行く先を見守るぐらいしか出来ることはない。というわけで意味もなくネットニュースやらまとめサイトを徘徊していた。
しばらくそうしていて、あるサイトでフリーズする。
「は?」
思わず漏れる間抜けな声。自分の発したものとは思えなかった。
いや、そんなことはどうでもいい。
画面にはにわかには信じられないネットニュースの見出しがでかでかとゴシック体でおどっていた。
――【悲報】グラシアス・ヒル・コーポレーションの炎上、全部デマだった件【訴訟】
芸能スキャンダルや組織的な管理売春の次には治験のインチキと薬害スキャンダルだ。外国の治験システムにある瑕疵を悪用した怪しい治験プロセスや、含有成分の不正についての暴露が各プラットフォームで投下される。
少しでも冷静さがあれば「誰かがグラシアス・ヒル・コーポレーションを潰そうとしている」とすぐにでも分かりそうなものだが、残念ながらどんなインテリでもネットという仮想空間へとやってくると知力が最小値にまで弱められてしまうことがある。それがネットという魔空間なのだ。
俺の役割はただ拡散するだけ。そう、ただ拡散するだけなんだ。情報をどう受け取り、どのような発信をするかは自己責任だ。その認識があるからこそ何があっても他人事でいられるのだ。
仮に捕まるとすれば、大元のネタを投下した奴らだろう。そいつらは俺以上にヤバい弱みを掴まれている可能性が高いが、そういう奴らが隠れ蓑になってくれるからこそ俺も安心して計画に参加出来る。
もしかしたら一般的なネットユーザーも二の矢が放たれることを期待していたのかもしれないが、思った以上に凄まじいスピードで炎上は広がっていく。観客参加型の番組でもやっている気分だ。俺たちは視聴者にも裏方にもなれる。そして時々うっかりとカメラに映り込んで袋叩きになる奴が出てくる。地獄のロシアンルーレット。
無駄口はいい。作戦に集中しよう。
芸能ネタはそれに興味のない層がはっきりと存在するものの、薬事法の違反や薬害に関することは広く一般的な人々を怒らせる。ゆえにより素早く燃え広がる。それはより一層一般人の正義感を刺激するからだ。
皮肉なことにエビデンスの立証や反証については時間がかかる。今回のような医薬品の成分についてはなおさらだ。俺たちは薬剤師ではない。だから細かいことは何も分からない。俺みたいにベンゼン環で解説がなされてもページを読み飛ばすのが関の山だ。
治験についても大して知っているわけじゃない。俺たちは門外漢で、社会に怒れる暇な正義漢たちなのだ。それでも「専門家」の誰かが「不正が行われている」と指摘すれば、その言葉を参考にする。
俺たちは決して自分でデータを比較するわけじゃないし、物証を集めたりもしなければ「専門家」を名乗る者の素性を調べようともしない。
その理由はただ一つ――忙しくて、そんな時間はないからだ。
ネットの世界では何もかもが光のスピードで進んでいく。だからこそ、より即物的に何かのニュースや結果が発信されることが求められる。誰もクソ長いローディングに付き合おうなどとはしない。「タイパ」が悪いからだ。
映画ですら早送りで見る奴らがいる時代、誰がわざわざ時間をかけて情報の真偽を吟味するのか。そんなことをする奴はよほどの暇人だろう。それよりもネットフリックスの映画を早送りで見ることの方が大事なのだ。ゆえに情報はそれっぽい情報が正解として採用される。
結果としてそれなりに権威のありそうな奴の言っている言葉が何の吟味も審査もなく無責任に世界へと拡散されていく。そこに大した理由などない。なんとなくみんながそう言っているというだけの理由だ。もっと言えば、そいつに任せている方が楽なだけだ。
今回の俺だってそうだ。煉獄のスケキヨからアホみたいな分量の資料をもらったが、とても作戦開始まで熟読が出来る内容ではない。役に立ちそうな部分をかいつまんで読み飛ばすのがせいぜいだ。それでも資料に目を通すだけ、まだマシな方なんだろう。おそらく多くの仲間たちは資料をロクに読み込んでもいないはずだ。
俺たちの放ち拡散した情報は、勝手に世界の遠くにまで浸透していく。誰かがAIに資料をブチ込んだのか、翻訳がなされて海外でもこの炎上は広がっているようだ。愛だけでなく、憎しみが世界を繋ぐことも立証された。大層な皮肉だった。海外のアーティストだかインフルエンサーだかもこの情報を拡散して共有している。グラシアス・ヒル・コーポレーションにとっては悪夢でしかないだろう。
たかだか日本の匿名プラットフォームから、世界レベルの炎上が生まれている。達成感というよりも、火遊びをしていたら森全体を焼いてしまった気分だった。
真相がどうなのかは知らない。はっきりと言えることは、これで「イタズラでした」では済まされないことだ。あちこちで炎上が広がり、人々の憎しみが拡散されていく。それは決して希釈されて薄くなることなどなく、ただ階乗的にタチが悪くなって広がっていく。
メディアが炎上に気付く。
ネットニュース。このチャンスを逃すなとばかりに炎上を取り上げ、さらに加速させていく。どいつもこいつも救いがたいバカで、なのに俺はその中にいる。
グラシアス・ヒル・コーポレーションがあちこちから叩かれる。数十年前であれば想像だに出来ない世界だっただろう。
岡さんは無事だろうか。自分で火を放っておきながら図々しいにもほどがある。でも、それでも彼女には生きていてほしい。無事であってほしい。彼女はリアルで現れた最初の読者なのだから。
作戦開始から6時間ほどが経過する。奇襲を仕掛けられた形のグラシアス・ヒル・コーポレーションは沈黙を貫いている。とは言っても社内は大混乱だろう。なんとなしにあちこちからイタ電が大量にかかってくる映像が浮かぶ。受ける側は全く身に覚えのない理由でヤバい奴らから罵倒の言葉を浴びるのだ。理不尽極まりない。
あいつらは、社員は自分の上層部の奴らのやったことを知っているのだろうか?
知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
だが、少なくとも俺たちはそんなことはどうでもいい。
はっきり言えることは、悪は断罪される。今の時代では誰もが断罪者になることが出来るのだ。
夜遅く。テレビではいまだにこの炎上が報じられていない。さすがに慎重になっているのか、それとも単にスポンサーだから「忖度」しているだけなのか。俺たちが必死に企業の不正を暴こうとしているのに、日和見を決め込んでリスクを冒さないテレビに腹が立ってきた。ネットニュースを見習え。
まあ、もうテレビはいい。あいつらはコンプラやクレームが怖くなってすっかりオワコン化している。もはやテレビに影響力などない。俺たちが自分で真実を拡散していくだけだ。
今回は拡散だけでなく、まとめ記事の書き上げも担当していた。資料を読み込んだのはそれもあった。
資料にはまとめサイトの投稿方法が添付されており、後は煉獄のスケキヨからもらった情報を自分の言葉に変えて記事風にしていく。とはいっても、読んでいてAIの文章っぽくならないようにするだけの話だが。
あとはマッチポンプだ。別名義で作ったまとめサイトを自分で拡散して、アカウントを切り替えてさらに拡散していく。こうすることでマッチ一本分の火力が見事な火柱へと育っていく。
しかし我ながらよく出来た記事だ。どんなバカが読んだとしても炎上事件の概要を短時間で理解出来る。信憑性はアレかもしれないが、情報の取捨選択はユーザー側の自己責任だ。あいつらが暴走したところで俺の知ったところか。
テレビはいまだにだんまりを決め込んでいるが、一部の新聞のネット版が動き出した。この炎上を軽い程度ではあるが取り上げている。裁判が起きることを危惧しているせいか「一体何が起きているのか」という風な反応の仕方だった。バカ野郎、起きているのは炎上だ。それ以外に何もない。
他のまとめ記事担当もブログやらサイトを立ち上げたようで、あちこちで炎と香ばしい煙が立ちのぼっている。仮想空間の地獄絵図。まさに異世界の出来事で良かったなと思えるほどの騒ぎに変わっている。お陰でこれだけひどい状況になってもいくらかの他人事感を自分の中でキープ出来る。
コンビニへ行こうと外出すると、街並みはいつもと変わらない。そこいらを歩き回る人たちは今まさにネットの世界がとんでもないことになっているとは思わないはずだ。マジで異世界みたいだな、と思う。
◆
――翌日になると、各メディアがこの炎上を取り上げはじめる。というのも株価に影響が出たからだ。
グラシアス・ヒル・コーポレーションの株が大幅な値下がりを見せた。それだけ企業としての価値が落ちたということだろう。投資家たちには動揺が広がり、大手のメディアもこれをスルーし切れなくなった。
朝になると、リビングで両親が食事を摂りながらテレビを観ていた。放送されているのは「グラシアス・ヒル・コーポレーションがネットから攻撃を受けて株価が下がっている」という話だった。
「今の時代はこういうのがあるからな。怖いな」
父親が誰にともなく呟く。他人事みたいに言っているが、まさか目の前の息子がその炎上に関与しているなんて思わないだろう。余計なことは言わずに黙っておこうと思った。そうだ。あんたは何も知らない方がいい。
学校へ行く。いつも通りの光景。岡さんは休んでいた。理由は分からない。陰キャのせいで誰に訊くことも出来ない。
休み時間は本を読んでいたが、内容がまったく頭に入ってこない。やめておけばいいのに、気付けばスマホを眺めている。相変わらずネット上の火は収まる気配がない。気付けばグラシアス・ヒル・コーポレーションの株価がどうなるかまで見守っている。
さすがに倒産はないだろうが、かなりのダメージを受けたのは間違いない。ビッグなんとかみたいに社員のせいにするわけにもいかないだろう。それをすれば一層ひどい未来が待っている。そこまで経営陣はアホでないはずだ。願望込みで。
時々クラスメイトの雑談からグラシアス・ヒル・コーポレーションの話題が出てくる。ほとんどの奴らは岡莉奈がそこの令嬢だとは知らない。知っていてもそっとしておこう。彼女のために。
岡さんのいない学校は退屈だった。知らぬ間に時間は通り過ぎて、学校は終わっている。惰性で来ていたのか、気付けば図書室で本を読む体勢になっていた。苦笑いしたくても状況が状況のせいか笑えなかった。
スマホを見る。今日で何回目だろう。炎上のニュースは相変わらず、まとめサイトの閲覧数がアホみたいに伸びている。人によってはバズったと表現するのだろうか。世界中の見えないところにこれだけの暇人がいるのかと思うと、もうちょっと日本をどうにかするために働けばいいのにと思う。
グラシアス・ヒル・コーポレーションの株価は急落している。底値になったら買っておこうか。あれだけの大企業が炎上騒ぎで壊滅に追い込まれるとは考えがたい。かなりの損失は計上するだろうが、必ず暴君的なメソッドでより一層他の人々を不幸にしながら経営を立て直すはずだ。だからこそあいつらはずっとこの世界で王として君臨出来ているのだから。
そこまで考えて、ふと思った。
まさか、煉獄のスケキヨは株で儲けようとでもしていたのか?
メディアがこの炎上をスルーしまくっているように、なんだかんだと各業界のトップどころに食い込んでいるグラシアス・ヒル・コーポレーションの力は強大だ。ここぞとばかりに弓を引いたメディアは後でそれなりの対価を払わされることになるだろう。
もしかしたら、煉獄のスケキヨは株価の急落を予測していたのかもしれない。底値になった時に大量の株を買い占めて、いくらかの時間をかけて株価が戻りはじめた頃に売ればかなりの利益になる。
そうなると、煉獄のスケキヨの目的はやはり金か。そう考えるとすべてが腑に落ちる気がする。
これはあくまで俺の推測でしかない。
だが、やはり煉獄のスケキヨはグラシアス・ヒル・コーポレーションを攻撃して株価を一時的に落として、底値で買った株券を株価の戻った頃に売り飛ばし、莫大な利益を稼ごうとしていたのではないか。
そして、そのメソッドがうまくいくかを試すためにKJこと鮫島賢司やじゅりぴこと真田樹里亜を「練習」の相手に選んだだけなのかもしれない。あいつらは練習で火ダルマになったのか。本当にヤバい奴からすれば、ネットの人気者もただのカス扱いなんだな。
彼らが火ダルマとなり、現に煉獄のスケキヨが推し進めてきた手法が有効であることは証明されている。あとはその「技術」を当初のターゲットに向けて行使するだけ。そう考えると、俺はいよいよとんでもない奴の片棒を担いでしまった感がある。
仮に捕まったとして、俺は何罪になるのだろう?
恐喝罪? 名誉棄損罪? それ以外にも素人の知り得ない罪が色々と重なる気がする。加えて奴の指示を受けながら鮫島一味を社会の闇へと葬ってきたことから、俺と主犯の距離が近すぎる気がする。これだと何かあった時にシラを切り通すのは難しいだろう。
どうしよう。この件でスケープゴートが求められた時、俺がその役割に選ばれそうな匂いがプンプンする。選ばれし者にはなれなかったが、スケープゴートにはやたら選ばれてきた気はする。
嫌な気付きだ。今さらどうしようもないのに、どうしてこういう考えが天啓のように降ってくるのか。
今さら引くに引けない。後でまた煉獄のスケキヨの指示が来るかもしれない。
どうせここで本を読んでいても内容が頭に入って来ないのだ。そうであればさっさと帰った方が賢いな。決まると動くのは早かった。俺はさっさと帰宅することにした。
◆
帰るとそれはそれでパソコンを使って同じことをやっている。
俺たちのやった活動はちゃんと効果を出しているのか。メディアは事件を取り上げているのか。世間の反応はどうなのか。岡さんは無事なのか。考える要素がたくさんあり過ぎてグルグルする。
要はキャパオーバーだ。やはり未成年にこのレベルの炎上は荷が重すぎた。他人事として見ていたつもりだが、知らぬ間に精神が削られていたようだ。
実際には煉獄のスケキヨに脅されて作戦に参加していただけだが、俺のやったことは少なからず違法性があるはずだ、アホな俺でもそれぐらいは分かる。
真相が発覚した後の方が怖い。まずは一生働いても返せないような賠償金を請求される可能性が高い。そうなるとこの家は売られてしまうのだろうか。俺のせいで、家族全員が路頭に迷うのだろうか。それは嫌だ。本気で嫌だ。
ワンチャンで未成年だから罪には問われてもどうにかなる部分はどうにかなるのかもしれない。それでも俺の情報はずっとネットに残り続けていくだろう。そうなればまともな仕事に就くことが難しくなる上に、生きている間はずっと虐げられる可能性が高い。
仮に無事で済んだとしても、今後の人生をずっと身バレの恐怖と闘いながら生きていくことになる。そんなメンタルで俺は生きていけるのか。
――ある意味、すでに人生が詰んでいるのかも。
そんなことを思った。いまだに炎上は燃え広がり、街を歩いていても出てこないようなヤバい奴らがネットの大海で怒りを爆発させている。彼らにはどうやったら会えるんだろう? 会いたくないけど、どこで会えるのか不思議になってくる。
とりあえず俺のやれる役割は大方終わっている。
放火当時の呟きはすでに消している。プロジェクトがすべて終われば、アカウントも消す予定だ。次に何かあればまた別のアカウントを作ることになる。その日を思い浮かべると憂鬱な気分になった。
後はこの炎上の行く先を見守るぐらいしか出来ることはない。というわけで意味もなくネットニュースやらまとめサイトを徘徊していた。
しばらくそうしていて、あるサイトでフリーズする。
「は?」
思わず漏れる間抜けな声。自分の発したものとは思えなかった。
いや、そんなことはどうでもいい。
画面にはにわかには信じられないネットニュースの見出しがでかでかとゴシック体でおどっていた。
――【悲報】グラシアス・ヒル・コーポレーションの炎上、全部デマだった件【訴訟】