恐怖の作戦が始まった。義憤に駆られているヒマはない。失敗すれば色々と終わる。どうしてこんなことになっているのか。だが後悔しているヒマもない。

 指示役の仲間からダイレクトメッセージで続々と指示を送られる。アホみたいな分量のマニュアルも見つつ、ダークウェブも駆使しながら世界に名だたる企業を攻撃していく。

 操作や指示の複雑さに文句を言っている場合ではない。そんなことをすれば、煉獄のスケキヨは絶対に俺を見限る。その時は文字通りジ・エンドだ。スタッフロールの代わりに走馬灯が流れることになる。

 無駄口はいい。作戦はもう始まっている。

 各種プラットフォームに組織的な枕営業や売春の証拠が投下されていく。一企業を崩壊させかねないほどの暴露。人権活動家が怒り、フェミニストが激高する。その怒りは世界へと波紋のように広がっていく。まさに、光のスピードで。

 火はドン引きするレベルで燃え広がる。あちこちでグラシアス・ヒル・コーポレーション叩きが始まる。まるでネット上にガソリンでも撒いてから火を点けたみたいだった。

 人々は怒る。華やかな世界の裏でなされた人権の蹂躙。夢を見ていただけの若者が、消耗品のように酷使されてからゴミのように捨てられる。誰が見ても最悪の光景。現代の日本でこんなことが本当に行われていたのかと、仕掛け人の俺ですら思う。

 当初こそ炎上の規模に恐れ慄いていたが、少しだけ慣れてくると不思議と彼らと似たような義憤を感じはじめた。

 別に俺は芸能人になりたかったわけではないし、才能のある人間が正当な評価を得られるというお花畑な思想に染まっているわけでもない。それでも、若くて才能にも溢れた人々が富裕層の性欲を満たすために浪費され、挙句はボロ切れのように捨てられるのには怒りが沸いた。

 ――そうだ、俺たちのやっていることは正しい。

 俺たちがこういった暴露をしなければ、あいつら悪党のしてきたことは知られずに終わっていたはずだ。そこに残るのは無念のままこの世を去って行った人々の亡骸だけ。

 そうなるぐらいであれば、一人一人がせめて浮かばれるように、俺たちがその怒りの炎を全世界へと向けて燃やし続けないといけない。そうでなもしなければ、彼らがあまりにも無念じゃないか。

 関係者だけが見られる資料にもう一度目を通す。見れば見るほどムカつく内容だ。人の夢を食い物にしやがって。こいつらはマジで許せない。

 次第に冷静さが影を潜めていく。見えない敵と闘う心理とはこういう状態を言うのか。

 指示役からのコミュニケーションが途切れる。次の爆弾が投下されるまで時間がある。その間は俺も「祭り」に参加してやる。

 指示役のアカウントも頻繁に変わる。関係者ですら何人いるのかも分からない。一人がいくつものアカウントを乗り換えているのかもしれないし、時間制で交代しているのかもしれない。すべては煉獄のスケキヨだけが知っている。

 カッカして冷静さを失いそうになっている反面、妙に他人事みたいにこの出来事を俯瞰している自分もいる。それも作家のせいなのか。一人称と三人称の視点を混在させているようだ。不思議な感覚だった。

 怒りに身を任せるのもいいが、あまりにも主観視点で物事を見過ぎると足をすくわれる。批判のコメントはあちこちで呟くが、あくまで「人道的に許せない」という観点でグラシアス・ヒル・コーポレーションを批判していく。こうすれば名誉棄損にはならない。事実としてあったことを批判する分には名誉棄損にはならない……はずだ。

 SNSや匿名掲示板でグラシアス・ヒル・コーポレーションを叩きまくって一息ついたところで次のネタが投下される。

 ――マジか。今度のはもっとヤバい。

 二の矢となったのはグラシアス・ヒル・コーポレーションの薬業部門だった。

 今度は治験や生産管理からのリークだ。煉獄のスケキヨが子飼いにしていた誰かが情報を集めてきたようだ。

 ターゲットになったのはグラシアス・ヒル・コーポレーションの商標がついた美容系の薬品だった。

 飲めば肌は艶やかに変わり、細胞のレベルでドーピング並みの若返りが起こる――どう見ても詐欺というか、典型的な誇大広告に見える触れ込みで売られてきた人気商品。これの裏側にある醜聞を掴んできたようだった。

 またクソみたいに分厚い分量の資料がデータで届いたので、割といい加減に目を通す。謎の化学式やらベンゼン環の図が載っている。文系の俺には分からないので盛大に読み飛ばした。理系にはそのヤバさが分かるのかもしれない。

 要約すると、グラシアス・ヒル・コーポレーションの出している美容品、グラシアス・セルは治験でインチキをしているということだった。

 この商品の認可は一度アメリカでなされて、そこから迂回する形で日本に来て認可された。理由はアメリカの治験システムにあった。

 治験とは、簡単に言えば未認可の薬を生きた人間に接種させて何が起こるかを見守る人体実験だ。治験には希望者が参加して、命を失うリスクを冒す代わりに金を得る。上手くいけばいいが、失敗すれば副作用による後遺症や健康被害を受け、最悪の場合は死が待っている。

 グラシアス・ヒル・コーポレーションはグラシアス・セルの治験において不正を行っていた。

 アメリカの治験にはシステム上の盲点があった。アメリカの治験では、治験で体調不良となった者がその経過観察から脱退した場合、そいつはカウントしなくていいのだ。

 つまり、健康被害の出た被験者については金を積んで早々に治験の舞台から退場してもらうと、それは医薬品の失敗とはみなされない。その被験者は勝手に体調不良となっただけになる。法律上はそのような解釈だ。それがシステム上での瑕疵だった。

 現にそのようなプロセスを踏んで認可を勝ち取った医薬品は多数ある。その過程で発生した見えざる健康被害は決して顧みられることがない。

 グラシアス・ヒル・コーポレーションはここに目をつけた。

 薬効の半分はその効果を信じることから出来ている。効くと思えばより効く。それはある時はプラシーボ効果と言われ、もっと昔だと信仰療法と言われた。要は信じる者は救われるという現象だ。

 あとはその信仰の対象を金とまやかしで作り上げてやればいい。単純明快なメカニズム。どんなものであれ、人はすがるものをほしがるのだ。

 グラシアス・セルの効果は実際には記載表示の半分も効果がないと言われている。アホみたいに高いだけで、市販のサプリメントに毛の生えたような効果しかない。その効果を飛躍させるのは信仰心だ。信じる者ほどその効果は顕著になる。

 煉獄のスケキヨは含有成分や実際の薬効をグラシアス・ヒル・コーポレーションが標榜しているものと専門家の見たリアルな数値で比較する。その結果、見る者の脳裏にはおのずと偽装表示という言葉がよぎるようになる。

 だが、それは結果を見たものだけが各自で理解するものだ。その差は誰が見ても歴然としている。一部の人間にとっては、今まで天動説を信じていたのに地動説の証拠を突きつけられたのに近い心理状態となるだろう。

 また、偽装表示や怪しい方法で治験を突破した医薬品が世界的に莫大な利益を上げている。これがリークされれば混乱は世界レベルにまで達するだろう。

「いや、これ、こわ杉やろ」

 思わずネットスラングを使うオッサンのような口調になる。そうでもしないとやっていられなかった。

 煉獄のスケキヨがどうやってこのネタを仕入れたのかは知らないが、もはやヤバ過ぎて知りたいとも思えない。

 どうする。この作戦を機にアメリカあたりから暗殺者が来るんじゃないか。「ユーは知り過ぎたんだよ」とか言われて、レーザーポインターで心臓を狙われてズドンなんて流れじゃないのか、今は。

 だが、いずれにしてもギャーギャー騒いでいる場合ではない。少なくとも表面上は。

 煉獄のスケキヨは裏切り者を決して許さないだろう。そうなれば鮫島一味の件やら何やらの罪をすべてなすり付けられて社会的に抹殺されるかもしれない。それだけは嫌だ。

 どうする? どうする? どうすればいい?

 いや、ダメだ。今さらイモを引いている場合じゃない。やらなきゃやられる。それならやるしかない。やられる前にやり返せ。それがネットの鉄則だ。たとえそれがオーバーキルになったとしても。

 煉獄のスケキヨから指示役を経由して指示が届く。

 作戦第二弾、開始だ。