こでまり保育園は、生後二ヶ月から小学校就学前までの子どもたちが通う保育園。


 正規の保育士が十五名、さらに午前は主婦、夕方は専門学生などのアルバイトの職員が十名ほど、開園から閉園までの時間をローテーションで働いている。


 休憩中。職員室の机でわたしは、昨日の夜ご飯の詰め合わせ弁当を食べていた。


 保育士たちは忙しく、広いとは言えない職員室は途中作業の制作や資料が散らかりっぱなしになっている。


 それでも、わたしは保育園らしい、この生活感がきらいじゃなかった。


 午後二時、そろそろわたしの休憩が終わる頃。


 悠が休憩の交代で、ドアから職員室に入ってきた。


 「悠、ちょっと」


 「ん?どうした、晴」


 職員室内に、わたしと悠の他にもうひとりの職員しかいないことを確認してから「ロッカーに、いつもみたいにお弁当入れといたからね」と、わたしは声をかけた。


 「今日も作ってきてくれたの?嬉しい!ありがとう!」と、悠が心から嬉しそうな顔をしたあと「でも、いつも俺のぶんまで大変じゃない?」と、わたしの顔を心配そうに覗き込んでつづけた。


 「いいよ、どうせ昨日の余りものだから用意するのも大変じゃないし、それに悠はわたしがお弁当持ってこないとコンビニで済ませるだけでしょ」


 「へへへ、用意するのめんどくさくってさ」


 「もー、毎日それじゃ体に良くないでしょ。なんのために人参ジュース飲んでるの!今度、料理も教えるから覚えてよね」


 「えー、俺、料理苦手なのにー」


 「苦手だからやらないじゃだめ!悠もそろそろ自分で料理くらいできるようになって、他にも…」と、わたしがあれこれ言い出したら止まらなくなってきたのを、うしろで座って見ていた最首明里が「くすくす」と笑い出す。


 明里はわたしと同期で同い年の保育士。柔らかい物腰で人あたりが良く、ふわふわした性格の子だ。


 わたしは困ったことがあるとよく明里に相談をする。仕事仲間であり気が許せる親友なのだ。


 「なんか晴と犬塚君見てると、長年の夫婦みたいに見えるよ〜」


 「えー、まだ付き合って一年半なんだけど」


 「それだけふたりの相性が良いんじゃない〜」と、明里はにこにこしている。


 「でしょ、明里さんもそう思うでしょ、俺たちってやっぱり相性バッチリなんだよなー」


 「うんうん、羨ましいくらいだよ〜」


 「調子に乗らないの、悠。もー、明里も変なこと言わないでよ」


 「でも、いつもわたしには犬塚君には晴が必要で、晴には犬塚君が必要に見えるなぁ〜。なんて言うのかなふたりでひとつってやつ?とっても、お似合いのふたりだよ〜」


 明里はいつも人をよく見ている。わたしの気持ちは言わなくても、きっと明里に筒抜けのはず。


 人にいや味なことは言わず、わたしなんかよりおっとりしていて可愛い。本当に人が出来た友人だと思う。


 でも彼女の言葉が、わたしの心にちょっとだけちくりと刺さる。


 「明里さん、相変わらず良いこと言うなぁ」


 悠は相変わらず恥ずかしげもなく感心している。


 「もう休憩終わりだから保育室に戻るね」


 そう言ってから、わたしは心情が悟られないよう職員室から逃げるように出た。


 ふたりでひとつか。それってどっちかが欠けたら、もうだめじゃん。


 そう思った途端、また胸が苦しくなってきた。


 そして、あふれ出そうになる涙を必死に堪える。あぁ最近、自分のお情緒がおかしい。


 はっきりそう自覚できる。でも抑えられるはず、わたしは大丈夫と胸に手を置いた。


 悠とは、もう離れられないくらい近くて、お互いにかけがいのない存在になってしまっている。


 そのことが嬉しくもあり、同時に後悔もした。


 職員室から、明里と話す悠の裏表のない自然体で明るい声が聞こえてくる。


 二年前、出会った頃の悠からはとても想像もできない。


 あの頃の悠、つまり彼がこでまり保育園にアルバイトに来たばかりのとき。


 たしかに悠は、今と変わらない元気な笑顔で爽やかな青年だった。しかし、変に勘の良いわたしは彼の笑顔がどこがぎこちない気がして、勤務あとの職員室で声をかけた。


 「犬塚君、いつも無理して笑ってるでしょ。作った笑顔ってずっとはつづかないし、わかるんだよ。もし、わたしで良かったら困ったことがあるなら話を聞こうか?」


 すると、悠は苦笑いをしながらこう言った。


 「さすが猫本さんだなぁ、身の上話で、ちょっと暗い話だけど、猫本さんに聞いてもらえたら心がらくになるのかも」


 そう言って、悠は自身の引きずってしまっているつらい過去をわたしに打ち明けた。


 これはそのとき悠から聞いた、彼の子どもの頃の話だ。


 悠の実家、岐阜県K市は名古屋よりずっと田舎町。


 そのK市でおじいちゃんが、我が子のように悠を育ててくれたそうだ。


 おじいちゃんは、いつも幼い悠を散歩に連れていってくれた。


 鶏小屋や牛小屋を見たあと、田んぼ道と川の堤防を歩き、最後に決まって神社に寄るのがいつもの散歩コース。


 ある日、その神社でいつものように手を合わせるおじいちゃんに悠は質問をした。


 「じいちゃんって、手を合わせてお願いばっかしてるよね。神社でも家でもさ」


 「はっはっはっ、家でお願いはしとらんよ」


 「いつも仏壇の前でしてるじゃん」


 「うーん、あれは報告かな」


 「報告?誰に?なんの?」


 「ばあちゃんにみんなのこと報告しとるんや」


 「ふーん、じゃあ今はなんの報告してんの?」


 「神社は報告じゃなくて神様にお願いしとるんや」


 「神様にお願い?何を?」


 「悠がいつまでも健康で幸せであれますようにってお願いしとるんだよ」


 おじいちゃんは、そう言って悠の頭を優しく撫でた。


 悠はそのとき、ほとんどの子どもが誰しも一度は考えたことがある質問をおじいちゃんにした。


 「じいちゃん、神様って本当にいるの?」


 「いるよ」


 「でも俺見たことないよ」


 「きっと目で見えるものじゃないんだよ、でも神様はみんなをよく見とる、だから悪いことすれば罰があたる、良いことすれば自分に良いことが返ってくる、やで悠も良い子にしとれよ」


 「うん、わかった」


 悠の両親は仕事が忙しくほとんど家にいなかったが、だいすきなおじいちゃんがいてくれたから悠は寂しくなかった。


 悠はおじいちゃんから愛情をたくさんもらって育ち、小中学校も元気に登校し地元の高校に進学した。


 しかし高校二年生の夏に悠の幸せが、ある出来事でばらばらに壊れてしまう。


 暑い真夏日。おじいちゃんが畑で倒れているのが見つかったのだ。


 見つけた近所の人が呼んだ救急隊員に、その場で死亡が確認された。原因は熱中症だった。


 悠の両親はお通夜と葬式の日は、さすがに仕事を休んだが、次の日からは相変わらず働き詰めで家には帰ってこなかった。


 だいすきなおじいちゃんがいなくなってから、誰もいない家でひとりぼっちで夕食を食べるたびに、今までの幸せな生活はおじいちゃんがいてこそだったのだと思い知らされた。


 高校からの帰り道。どうせ誰もいない家に帰っても寂しいだけなので悠はよく道草をした。


 決まって行くのは、おじいちゃんとの思い出の散歩コース。


 スケボーともこの頃に出会い、悠はひとりきりの長い時間をひたすら堤防でスケボーするようになった。親友の八満君ともこの頃にスケボーを通じて仲良くなったらしい。


 スケボーしたあとの帰り道。神社の前を通るたび、悠は納得できないやりきれなさでいっぱいだった。


 おじいちゃんは言っていた。


 神様はよく見てる。悪いことをすれば罰があたり、良いことをすれば良いことが返ってくる。


 おじいちゃんは両親に変わって自分を育ててくれた。


 だから、老後をゆっくりなんてできなかったはず。


 ばあちゃんが早くに亡くなって寂しい思いをしたけれど、めげずに頑張って生きてきた。


 そんな善人なおじいちゃんが突然死んでしまって、ニュースで見た犯罪者はのうのうと生きている。


 神様がいるとしたら一体何を見ているのだろうか。それに大人になればなるほど見えてくる。人間はぜんぜん平等ではない。


 悠は高校でクラスメイトと自分の家庭環境を比べて惨めな思いをした。


 そして、悠は過去からの抱え込んでいた話をしたあと、わたしにこう言った。


 「保育園って人の家族の幸せなところをどうしても見ちゃうじゃないですか、それを見るとぎゅっと胸が苦しくなることがあるんです、こんなんじゃ保育士やってけないって笑顔で頑張ってみたんですけど、猫本さんには簡単にバレちゃいましたね。俺って保育士向いてないかも、ははは」


 悠は苦笑いをしたあと言葉をづづける。


 「いつもじゃないけど、たまに幸せって何かわからなくなるような感覚に陥るんです、そのとき、もしかしたら俺って心が空っぽなのかもとか思って勝手にへこむんですよ。変ですよね、ははは」


 また空元気で笑う悠。彼のつらい過去を聞いたとき、わたしはなにも言葉が出てこなかった。話をただ聞くことしかできなかった。


 家族に支えられ恵まれた環境で育ったわたしには、想像もつかない苦しみを彼は抱えていたのだ。


 でも悠はわたしたちが、付き合って一年記念日デートしたあの日。


 秋晴れの空の下。わたしにこう言ってくれたのだ。


 「幸せって何かわからなくなってたとき、俺は晴を見て自分の生き方が変わったんだよ。俺は、今、幸せって何かわかるよ。俺の幸せは晴と一緒にいることなんだよ」


 あのときの屈託がない、秋晴れの雲ひとつない青空のような悠の笑顔を、わたしは忘れることはない。


 だから。


 わたしは何があっても頑張ろうと決意したのだ。