G市のパンフレットを見ると、花火の時間は八時半からなので、ディナーを食べてからまだ時間があった。
わたしたちは、花火の前まで温泉に入って冷えた身体をあたためることにした。
八時には部屋に戻ってこようと、ふたりで約束をして、各自、旅館の大浴場の入り口に入る。
この旅行で悠に別れを告げる決心をしたが、別れ話などするタイミングはなかった。
そもそも別れ話などしたことがないので、どう話を切り出していいかわからない。
憂鬱な気分になりながら脱衣所で服を脱いでいると、ごほごほと咳が出てきた。
わたしはMSコンチンを飲むために、ディナーでお酒を飲まなかったのに、MSコンチンを飲み忘れてしまったことに気がつく。
とにかく一度脱いだ服を急いで着直す。
その間も咳は止まらない。
どんどん過呼吸のようになっていく。
だめだ。部屋まで間に合わない。
わたしはそう思って脱衣所のトイレに駆け込んだ。
そして咳あげしてしまい、便器の中に激しく嘔吐した。
苦しい。嘔吐しながらも咳は止まらない。
十分くらい吐きつづけ、もうなにも出なくなった。
咳がおさまってきて、わたしはよろけながらなんとか部屋に戻ってMSコンチンを飲んだ。
ベッドに座って休んでいると、部屋の時計が目に入って、あと少しで悠が温泉から出てくることに気がついた。
今は咳がおさまって喉に違和感はない。薬が効いているのだろうか。とりあえず今はそういうことにする。
悠に怪しまれないように、わたしは浴衣にさっと着替えた。
いろんな感情が頭の中をぐるぐる駆け回る。
そして思い出が走馬灯のように過ぎていく。
桜舞公園で、悠が急にわたしに告白してきた日のこと。
一緒に行った夏祭りで、悠がわたしに言ってくれた言葉。
わたしが悠にギターを教えた日のこと。
悠が保育参観を成功させたときのこと。
スケボー大会の日に海辺で、悠がわたしと幸せになりたいと言ってくれたこと。
そして、さっきまでの楽しかったひととき。
悠と一緒にいると楽しくて幸せで、心から安心できて、わたしはいやなことを全部忘れてしまう。
でも、ふとひとりになって現実を…。現実のわたしを見たとき。
わたしはこんなふうだった。
絶望で真っ暗でなにもできやしない自分。
こんなわたしの運命に大好きな悠を巻き込むわけにはいかない。
わたしと悠は幸せになれない。なぜなら、わたしは助からないからだ。
だから、お別れをしなければならない。
もっと悲しくならないうちに。
そう思っていたのに悠との日々が心地良すぎて、春には決心していたはずなのに冬になってしまった。
もう限界だ。
ここまでだ。
わたしは覚悟を決めた。
これが、わたしたちの最後のクリスマスなんだ。
洗面所で鏡を見たら、自分とは思えない人物が鏡に写っている。
黒い目に光がない。その人物は正真正銘、現実のわたしだ。
ガチャっと音を立ててドアが開く。悠が入浴を終えて部屋に戻ってきた。
「おぉー!浴衣姿の晴可愛い!あれ?晴、頭洗ってない?」と言って、悠はすぐにわたしの異変のなにかに気づく。
「うん。湯冷めしそうだし、またあとで入るからいっかと思ってね」
わたしは悠の顔を見ずに素っ気なく答える。
そろそろ花火の時間なので、わたしたちはコートを羽織って外に出た。
街の真ん中を通る川の上に大きな橋がある。
その橋の上が花火を見る絶好の場所だと、悠が記憶を頼りに教えてくれたので、わたしたちは橋の上に来た。
「もうすぐ花火が始まるね」
そう言って悠が胸を弾ませる。
「うん…」と、わたしは素っ気なく返事をした。
わたしは今どんな顔をしているのだろう。きっと真っ青な顔をしているにちがいない。
心の中はぐちゃぐちゃで、これが悠とお別れする悲しみなのか、病気への恐怖や不安なのか、もうわけがわからない。
そんなわたしをよそに黒い空に花火は上がる。
冷たく空気が澄んでいて、とても綺麗に花火が見える。
ぱらぱらと雪も降ってきて幻想的で美しく、目の前のことなのに、わたしにはそれが遠い世界のことのように感じた。
まるで絵画を見ているような感覚だ。
「うわー。雪と花火が合わさってすっげえ綺麗」
わたしのとなりで悠は花火に目を輝かせる。
「うん」と、一言返す。
「俺さ、絶対晴のこと幸せにするよ。だから結婚しよう、俺たち」
夜空を舞い落ちる雪、上がってく花火。
そのすべてがスローモーションに見えた。
これ以上はだめだ。もう今言ってしまおう。
そして思っていたより、わたしの言葉はすっと出た。
「いや」
え、と意表をつかれた表情をして悠がわたしを見る。
「わたし、悠と結婚したくない。わたしたち、もう別れよ」
わたしは悠の目を見てはっきりと言った。
花火があと少しで終わりというところだったが、わたしはその場にいられなくて逃げるように立ち去る。
わたしが足早に歩く背後を、悠が慌てて追いかけてきた。
「晴っ、ちょっと待って!どうしたんだよ俺なんか悪いことした?」
わたしは無視して振り向かず歩きつづける。
「テーブルマナーできてなかったのいやだった?ごめん、許して」
悠は必死に謝ったが、そのすべてを無視して旅館の部屋に入った。
そして、わたしは悠のほうを振り向いて冷たくこう吐き捨てた。
「もう別れよ。わたしたちってさ、いろんなところが正反対でもともと合わないじゃん」
「でも、さっきもそれでお互いのこと補ってるって話したじゃん」
悠がそう言って声を荒げた。
「悠ってさ。なんでもわたしに教えてもらえばいいと思ってるよね。ずっと迷惑だった。人任せ。そんな人ともう一緒にいたくないの」
「え…。ご、ごめん晴」
「もう邪魔だから、どっかいってほしい。わたしはひとりになりたい」
「急に意味わかんないって、納得できないよ。晴、俺のこと捨てないでよ」
悲痛な表情をした悠がぽろぽろと涙を流す。
「悠とだったら、わたしはひとりで生きていくほうがマシ」
この言葉を聞いた悠の肩がびくっとなった。
悠が泣きながらわたしを見つめる。
その目にいつもの輝きはない。
「保育園以外では会わないでほしい。もう顔も見たくない」
そう言ってわたしは布団に入り、悠とは反対を向いて横になった。
それから、わたしたちは一言も喋らなかった。
翌朝、帰りの電車もふたりで乗ったが、ふたりとも口を開かず目も合わせなかった。
灰色の空からふわふわと雪が舞い落ちる。
この雪はきっと一日中降って、すでに雪を被った山や街をいっそう白く染めるのだろう。
雪に埋もれてなにもかも白くなって。
とても綺麗。
この雪が、わたしの心の黒いもやもや全部を白く染めてくれればいいのに。
そんなことを思いながら揺れる電車の席で、わたしはただただ外の景色を眺めていた。