次の日。


 保育園からの帰り道で、わたしは悠に考えてきた計画を話す。


 「やることの優先順位を決めて効率よくやった方がいいと思うの」


 「もう大人なんだからわかってるよ」と、悠がとなりで自信満々に言った。


 「それがわかってないのが悠なの」と、わたしは呆れて返す。


 「うー、思いあたる節がありすぎて反論できない」


 うなだれる悠を見て、それでも根拠のない自信を持っていたり、ときには自分の非を素直に認めたり、わたしにはないものばかり持っている彼を少しだけ羨ましく思う。


 その反面、もっとうまくできないものかと呆れるところも多々あるが…。


 「スケボーの大会は来月末だから、まだ時間があるよね」


 わたしがそう言うと、悠が「うん、たしかに」とうなずく。


 「だからスケボーの練習は週一回。あとは全部保育園のことやるよ」


 「わかった!そうする!」と、悠が素直に返事をした。


 大好きなスケボーが週一回なのは、悠にとってつらいかもしれないけれど、今月中に誕生日会、保育参観、研究会の資料とやらなければならないことが立て込んでいるのだ。


 「じゃあ、さっそく保育参観のにじの曲をやろう。今からわたしんちの電子キーボード持ってくるから先に家に帰ってて」


 「あのさ、にじの曲なんだけど…」


 いつになく改まった表情をして悠が言った。


 まさか、歩夢君のために保育参観でにじの演奏会をすると決めたのに、大変だから諦めてしまうつもりだろうか。


 悠に限ってそんなことはしないはず。それでも、もしかして…。と一瞬でも不安になった自分がバカらしくなるような、想像を超えてくることを悠が急に言い出した。


 さすが悠だ。


 「にじの曲さ。俺やっぱりギターで弾きたい。だから教えてほしい」


 そう言って悠が頭を下げる。


 急な提案で驚いたが、とりあえず、わたしは落ち着いて理由を訊くことにした。


 「保育参観は今月中にあるんだよ、時間がないのになんで急にギターで弾きたいの?」


 「うーん、俺にとっては晴は彼女なんだけど、ずっと前から憧れの存在で、ギター工場で晴がにじを弾いたとき、俺も晴みたいに弾きたいって決心したんだ」


 わたしなんか、たいした人間じゃないのに。


 そんなふうに思ってくれていたなんてと、素直に嬉しく思う。


 以前のようにわたしなんかと、過度に消極的に思わなくなったのはきっと悠のおかげだ。


 しかし実際に今からギターを練習し、保育参観に間に合うのだろうか。


 悠はわたしをまっすぐ見つめる。


 彼はやると決めたことは最後まで投げ出さない。


 それに一度言い出したら聞かない性格だ。


 仕方がない。


 わたしは頭の中でにじの曲を思い出す。


 うーん。使うコードはG、C、D、Em…。


 コード自体は難しくもなく、簡単なストロークでやれば悠でもやれそうだ。


 むしろピアノの両手弾きより、悠にはギターのほうが簡単かもしれない。


 考えがまとまったので「わかった。わたしが教えたことを、悠が毎日練習すれば充分に間に合うと思う。じゃあ家からギター持ってくるね」と言うと、「晴ぅ〜。本当にありがとう」と悠の顔がぱっと明るくなる。


 「今、感謝しなくていいから、そういうのは全部なんとかなってからにしよう」


 「わかった。でも本当にありがとう晴」


 わたしは一度家に帰ると、ギターとお母さんから受け取った惣菜の入ったタッパーを持って、悠の家に向かった。


 前もって事情を話しておいたので、お母さんが夕食で食べるために惣菜を用意しといてくれたのだ。


 アパートの二階の階段を上がって突きあたりが悠の部屋。


 ドアのぶに手をかけると鍵はかかっておらず、わたしは「入るねー」と言ってそのまま部屋に入った。


 「いらっしゃーい」と奥から悠の声が聞こえた。


 玄関にはスケボーでつま先が削れたスニーカーが置いてあり、その横にはスケボーが立て掛けられている。


 簡素なワンルームの部屋で真ん中にはテーブル、隅っこには布団が畳んで置かれているだけだ。

 
 あとはわたしが来たときしか使わない埃被ったキッチン。


 思ったより部屋が片付いている。


 悠が不自然にクローゼットの前でそわそわしていることに気がつくと、わたしは問答無用で勢いよくクローゼットを開けた。


 案の定クローゼットの中は、服や下着がぐちゃぐちゃに詰め込まれている。


 悠は服を畳まない。皺になるのが気にならならないのだろうか。


 それにさっきまで部屋に散らかっていたであろう、お菓子やペットボトルのゴミも入っている。


 「晴ーっ、男子の部屋来ていきなりクローゼット開けないでよ」と、悠が情けない声を出す。


 「それは悠が見られちゃ困るもの入れてるからでしょ!ちゃんと服畳みなよ!ゴミはゴミ箱に捨てる!なんでそんなにだらしがないの!見られなければいいと思ってるでしょ!わたしにはわかるんだからね」と、捲し立てた。


 「わかったよぉ。勘弁してー」


 「クローゼットに詰め込むのは片付けたって言わないからね」


 まったく世話が焼ける。


 夕食を食べてギターを教えたら、わたしはクローゼットの掃除でもするか。


 とりあえず、キッチンでお母さんが作ってくれた惣菜を出す。タッパーの中には生姜焼きと夏野菜の煮物が入っていた。


 米は悠の部屋の炊飯器で炊いてあったので、わたしは惣菜を皿に盛り付けてテーブルに置いた。


 「わー、緑さんの手料理だ。いつも美味しいんだよな。今度会ったらお礼言っとかなきゃ」


 「わたしもお母さんの作った手料理だいすき」


 わたしたちは、いただきますと手を合わせる。


 「うちは母親が仕事ばっかで帰ってこなかったからさ。あんまお袋の味ってわかんないんだけど、こういうのなんだろうなって思う」と、悠が煮物を口に入れて嬉しそうに微笑んだ。


 悠は生姜焼きのおかげで米が進むと言って、茶碗に三杯もご飯をおかわりした。


 食べ終わると、あと片付けをさっと済ませてさっそくギターを教えた。


 なぜ保育参観のギターから教えることにしたかというと、曲の練習ばかりは反復練習でしかどうにもならない。


 悠にとっていちばん時間が掛かることだと、わたしは予想したからだ。


 普通は研究会の資料のほうが時間が掛かってしまう。


 けれど悠は普段からよく考えて保育をしていて、わたしは彼の保育の相談にしばしば乗っている。


 その内容をまとめて資料として提出すれば、それで大丈夫だと思ったのだ。


 園長先生もそういった悠の良いところを見込んで、研究会の話を持ってきたのだと思う。


 わたしは思ったことを言葉や文字にするのが苦手だ。


 でも悠はそういうのが得意で、それは普段の彼の態度や連絡ノートを見ればわかる。


 以前、真希さんも悠が書いたクラスのおたよりは、子どもたちのエピソードがわかりやすくて面白い短編小説のようだと、その文章力を褒めていた。


 おそらく研究会の資料作成で、悠にとっていちばん難関になるのはパソコンの使い方だろう。


 誕生日会は、以前ペープサートをふたりで作ったので、あとは劇の内容を確認するだけだ。


 劇でやる絵本の『ノンタンブランコのせて』は、保育士をやっていたら普段から子どもたちに読んでいる定番の絵本だ。だから悠も内容はだいたい暗記している。きっと大丈夫。


 頭の中で考えをまとめていると、となりで悠がわたしを呼んだ。


 「晴ぅ、指が痛いよー」


 ギターを抱え、わたしが教えたCコードを悠が頑張って鳴らそうとしている。


 「無駄な力が入ってるんだよ」と、わたしはクローゼットの服を畳みながらアドバイスをした。


 「指先がじんじんする」


 「弾いてれば皮が厚くなって痛くなくなるよ。子どもたちが竹馬や鉄棒の練習するときと一緒だよ」


 「晴ぅ〜、Cコードのいちばん下の弦が鳴らない」


 「上の人差し指が引っ掛けちゃってるんだよ。ほら人差し指を立ててやってみて」


 綺麗なCコードの音が鳴った。


 「おぉー、できた!」と、音が綺麗になっただけで感動する悠。


 「良かったね、あとは教えた各コードを綺麗に鳴らす練習と、コードチェンジの練習ね。毎日やるんだよ」


 「なんかギター弾ける気がしてきた」と言い、悠は無邪気に目を輝かせている。


 「夜遅くは近所迷惑だから弾いちゃだめだからね」


 悠は楽しくなっていつまでも練習してしまいそうなので、一応注意しておいた。


 「わかってるって」


 「もう少しできるようになったら、次は歌いながらギターを弾く練習ね」


 「早くやりたいなー。ギター楽しい」


 「そうだね。ギターってやりだすと楽しいよね。でも、まずは基礎練からね。保育参観が近くなったら、保育中に子どもたちと練習もするんだよ」


 悠は素直なのでアドバイスがすっと入っていく。それにやると決めたらコツコツ努力することもできる。


 この調子なら保育参観は大丈夫そうだ。さて、明日はパソコンの使い方だな。


 これがいちばん難関だ。