次の日。わたしの勤務が終わってから職員室に向かうまでの廊下で、ぶっきら棒なピアノの音が聞こえてきた。


 この右手の人差し指だけで弾いている感じ…、悠だな。


 練習している曲も、わたしが好んでよく弾いている『にじ』だと、すぐわかった。


 どうやら職員室に置いてある電子キーボードで練習しているようだ。


 悠は専門学校を卒業してからピアノにまったく触っていない。


 わたしは幼い頃からお父さんとピアノをずっと弾いていたので、今でもわりと弾ける。


 今日は悠にピアノの稽古でもつけてやるか。帰りにアイスでも奢ってもらおう。


 そんなことを考えながら職員室のドアに近づいたとき。


 職員室の中から可愛らしい女性の声が聞こえてきた。


 どうやら職員室の中には、悠の他にもうひとり女性がいるようだ。


 「悠くん、そうそう、その調子」


 「ここの指がうまく動かないんだよなぁ」


 「そこは難しいけど、あとは慣れだよ。あ、ちょっと手を貸して」


 この可愛らしい声の主は誰だろう。わたしはそれが気になってしょうがない。 


 本当は盗み聞きなんてしたくないけれど、どこかふたりの声色が楽しそうだし。


 今、悠の彼女であるわたしが職員室に入っていくのは気まずいな。そう思ってドアの前で立ち止まってしまった。


 「うんうん、だんだんうまくなってる」


 「なんかわかってきたかもー」


 「これだけできれば、あとは弾いた数だからね、悠くん頑張れっ」


 「俺の場合は楽譜見てやるより、もう指で覚えちゃったほうがいいね、ありがとう、川口さん」


 川口さん…。


 そうか、わかった。悠と八満君ともうひとり。今年から入ってきた新人保育士の川口理依奈ちゃんだ。


 たしか歳が悠と同い年で顔が可愛くてスタイルもモデルのようにすらっとしている。


 きっと誰が見ても可愛いとか綺麗だと思うような子だ。


 おまけに保育にも真剣で、先輩保育士からのアドバイスも素直に聞き、性格も良いと聞いたことがある。


 まさに非の打ち所がないとは理依奈ちゃんのことだ。


 ふたりの声から、なんかお互いの距離が近い気がする。手を触れられて悠が意識してしまったらどうしよう。


 そんな想像をしてしまう自分が心底いやになる。モヤモヤとわたしの中に渦巻くどうしようもなく、いやな感情、これは嫉妬だ。


 盗み聞きまでして、わたしはいやな女だ。悠が取られるのではないかとすぐ不安になってしまう。


 もう、ふたりの会話を聞きたくない。そんなことを思っても、どうしようもなくわたしは聞き耳を立ててしまう。


 聞いても良いことなんて何もないのに。


 ふと、こんなわたしなんかと一緒にいるより、可愛くて性格の良い理依奈ちゃんと、悠は付き合ったほうが幸せなのではないかと思ってしまった。


 すると、また胸が締めつれられたように苦しくなってきた。


 そんなわたしは蚊帳の外でふたりの会話は進んでいく。


 「悠くんはなんで、にじを練習してるの?」


 「この前ね、子どもたちを散歩に連れてったんだ。そしたら空にすごく綺麗な虹が架かってた。輪が大きくて下のほうまではっきり見える虹だったよ。その虹を見つけた歩夢君が、ママに見せてあげたいって言ったんだ。前にママと一緒に虹を見たとき、ママがこの虹をパパにも見せてあげたいって泣いたんだって」


 「たしか歩夢君のパパって…」と、理依奈ちゃんは言葉を詰まらせた。


 歩夢君のパパは、歩夢君が産まれてすぐに病気で亡くなっている。


 保育士たちはそのことを知っていて、普段からシングルマザーとして頑張る真希さんを支えているのだ。


 真希さんは本当によく頑張っている。


 休む間もなく日中は和味で働き、夜は毎日、歩夢君をワンオペ育児しているのだ。


 「なんか寂しい気持ちになったから、子どもたちみんなで虹を見ながら『にじ』を歌ったんだ。歩夢君もみんなと歌ったら笑顔に戻ってた。すると歩夢君が今度の保育参観で、にじを歌ってママに聞かせたいって言い出したんだ。この虹はママに見せてあげれないけど歌なら聞かせてあげれるって。他の子どもたちも大賛成してくれて、今度の保育参観でにじの演奏会をすることになったんだ」


 「そっか、それは成功させなきゃね。わたしも応援する」と理依奈ちゃんが言った。


 「ありがとう」


 そっか。珍しく悠がピアノを頑張ってると思ったら子どもの願いを叶えるためだったんだ。


 実に悠らしい理由だ。今度、わたしもピアノを教えてあげよう。


 「そういえば、この前はありがとうね、悠くん」


 理依奈ちゃんが悠にべつの話を始めた。


 彼女の甘い声色からこれ以上聞いてはいけないと、わたしは何かを察知した。でも体がぴくりとも動かない。


 「俺、なんか感謝されるようなことしたっけ?」


 「悠くんって人にしてあげたことも忘れちゃう性格なんだね」


 理依奈ちゃんがふわりと笑ったのが声色からでもわかる。


 「うーん、だめだ、思い出せない。思い出せないってことは大したことじゃないから気にしなくていいよ」


 やってあげたことさえ忘れてしまうところが実に悠らしい。


 付き合う前はなんでも忘れる悠も可愛く思えた。でも今はちがう。


 なんでも忘れすぎて腹が立ってくるのだ。しかし今はそれどころではない。


 わたしは次に理依奈ちゃんが何を言い出すか気が気じゃなかった。


 「この前、子どもがケンカしたとき、悠くんが仲裁してくれたことだよ」


 「あー、思い出した。歩夢君とめいちゃんがケンカしたときかー。あのふたり殴って蹴ってのケンカ始めちゃったもんね」


 「本当はあのとき近くにいたのわたしだったのに、ふたりのケンカを止めれなかった。自分の下手さがいやになるよ」


 「理依奈ちゃんは下手じゃないよ。それにケンカは止めなくていいんだよ、殴ると蹴るのは怪我するから止めるけど」


 「え、なんで止めなくていいの?」


 「だってさ、あのふたりは本当は仲良くしたい気持ちがあるのに、まだ子どもだから口下手なんだ、気持ちをどう表現していいかわからなくて、相手のいやなことを言ってしまってケンカになってるんだよ。よくケンカするけど決してきらい同士じゃない」


 悠はたまに保育に関してまともなことを言う。それは普段から、彼が真剣に子どもたちのことを考えて保育しているからだろう。


 「自分や友達が言われるといやだって言葉に気付けたりさ、素直に思いっきりケンカできる友達がいて、仲直りすることや、友達や大人に支えられる経験が子ども時代の財産だと思う。だから変にケンカは止めなくて良かったんだよ。『まずはちゃんとお互いの気持ちを伝え合うことが大事』全部、俺が尊敬する人からの受け売りなんだけどね」


 「子どもたちがケンカしてしまうのは自分が下手だからだって。だから子どもをケンカさせないようにしてたら、そのことばかり考えちゃって、つらくなって、保育園の先生、わたしは向いてないのかなって…」


 そう言った理依奈ちゃんの声は嗚咽が混ざって震えていた。


 「大丈夫だよ、気にしすぎだって。保育はまず自分が楽しまないと子どもも楽しくなれないよ!これも受け売りなんだけどね」


 「悠くん、本当にありがとう」


 「自分のせいって思わなくていい。あ、今日ピアノ教えてくれてありがとう、お礼に鞄に入ってたクッキーあげる」


 「え、いいの?ありがとう」


 さっきまで声が震えていた理依奈ちゃんが、花を咲かせたような笑顔をしていることが声色でわかる。


 もう我慢できない。


 わたしはどうすればいいかわからないけれど、とにかくドアを開けて職員室の中に飛び込む。


 「あ、ふたりともお疲れ様」


 今やってきました、と顔は頑張って平然を装う。


 突然、わたしがあらわれてびっくりした表情の理依奈ちゃんは「あ、お疲れ様です」と、悠とわたしに会釈をしてから、荷物をまとめてぱたぱたと職員室を出ていった。


 そのとき理依奈ちゃんの頬がほんのり桃色に染まっていたのをわたしは見逃さなかった。


 さっきまで感情が昂って涙が出ていたからだろうか。それとも他の理由か。


 こういうことを考えるわたしは本当に性格が悪い女だ。


 「晴ーっ、お疲れー」


 そんなわたしの気持ちを知るはずもなく無邪気な声が飛んでくる。こいつはなんでこんなに鈍感なんだろう。でも悠にはわからないのだろうな。


 悠は人懐っこくて普段から誰にでも優しい。わたしとちがって気にしいなタイプでもない。裏表のない素直な性格だ。


 やっぱり悠はこんなわたしなんかじゃなく、理依奈ちゃんみたいな子といたほうが幸せなんじゃないか。


 ふたりが付き合う妄想を勝手にしてしまい、またつらくなった。


 「どうした晴、大丈夫?」と悠が心配して覗き込む。


 普段、鈍感なくせに相変わらずわたしの変化にはすぐ気づく。


 「うん。なんでもないよ」と、せいいっぱいの空元気で笑顔を作った。


 「そっか」と怪訝な顔をしてから「そういえば、今日はやっぱ晴はすごいなって思ったんだ」と悠が微笑む。


 「何が?」


 「前に晴が教えてくれた言葉を思い出したんだ。素直にケンカできる人がいることが幸せ、まずはお互いの気持ちをちゃんと伝え合うことが大事って。あと保育は自分も楽しまなきゃ子どもも楽しくないって」


 「うん」


 わたしは下を向いて小さくうなずく。


 それは以前、悠が保育で悩んでいたときわたしが彼にかけた言葉だった。


 一年くらい前のことなのにまだ覚えててくれたんだ。


 偉そうに先輩としてアドバイスしたのに、わたしは情けなくなった。


 わたしの持ってる不安を彼に全部素直に伝えれたら心が軽くなるだろうか。


 わたしはそんなことできない。気持ちを伝え合うことが大事とアドバイスをしたのに皮肉なものだ。


 保育ではできるけどプライベートの、本当のわたしはだめだめだ。


 「晴なんか困ってる?俺にはなんでも言ってほしいな」


 優しく包み込むような悠の言葉にわたしはもう限界だった。


 「悠のバーカッ」と、不意打ちに彼の腹を思いっきり殴った。


 もちろん女の力だし、悠は腹筋が硬いというのが自慢なので、痛くないことはわかっている。


 「ぐへっ。ちょ、晴。不意打ちはずるいって」と悶える悠が面白くてわたしは笑みがこぼれた。


 「やっと、いつもみたいに笑ってくれた」と、悠が微笑みながらわたしの涙を指でふいてくれた。


 そのとき、わたしはやっと自分が泣いていたことに気づいた。


 「晴はさ、人には優しいけど自分は無理しちゃうところがある、あんま無理しないでね。でも、そういうところもだいすきだよ」


 疑う余地などないほどに、悠は好きな気持ちをわたしだけに向けてくれる。


 悠はみんなに優しいけど、わたしには特別の優しいをくれる。


 こんなにも悠はまっすぐなのに、わたしは捻くれ者だ。


 やっぱり悠といることが世界でいちばん幸せに思う。


 ごめんね、悠。


 もう少しこの幸せをわたしだけのものにしたい。