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 バスに手を振る。

 擬態は解かず、制服姿のまま街を逍遥する。
 往来を闊歩する人、人、人。
 その間隙を縫うて歩く。
 避けて、避けられ、わたくしがいまここにいることをたしかめる。



 此度の務は骨が折れた。
 何しろ依頼人の春野綾、彼女は人並み外れた偏屈であった。

『もしあの天才を殺す勇気があったなら』

 その願いはかなえようがないものだった。

 条件法は反実仮想だ。
 どんな荒唐無稽も、言葉にさえできれば走馬燈はかなえてみせる。

 しかし条件節として願うことができるのは、因果の『因』のみである。
 勇気というのは『果』である。
 奇しくも春野綾自身が、天才とは結果であると看破していたが、勇気というのも同じく結果である。
 勇気とは行いを評する言葉であり、発揮されないかぎり存在しないものである。

 もちろん『因』であれば条件節として設定はし得る。
 たとえば恐怖を感じる神経を麻痺させるとか、恐怖を楽観視するよう価値観を変容させるとかであれば、仮定することができるだろう。

 しかし春野綾はそれを望むだろうか?

 彼女は己のすべてで生きてきた人間である。
 春野綾という人格は、あらゆる神経と価値観の総体から成っている。
 その一部でも変容させることを、彼女は望むだろうか?

 そのときわたくしは、かつて走馬燈を見せた少年のことを想い起こしていた。

 だから今回、条件節としては何をも仮定しなかった。
 ただ時間を戻した。
 自身が本来歩んでいた未来を知っているというだけで、春野綾には十分であると踏んだから。

 彼女の願いをかなえようがないというのには、他にも理由があった。

 まさか『殺す』ことを願われるとは。

 わたくしの本分は依頼人の最期の願いをかなえることにあり、その善悪を問うところにはない。
 しかし、その願いがまこと依頼人のこころ安らげるに至るやを測るは、我が務の裡であると心得ている。

 わたくしは否と断じた。

 春野綾のこころを堰き止めているのは、たしかに気田星佳であった。
 表層だけを見れば、気田星佳を除くという選択は、たしかに春野綾の気をいっとき晴らすであろう。

 しかしだ。
 仮に春野綾が走馬燈のなかで気田星佳を殺したとする。
 そのあと春野綾はこころ満ちた最期を迎えられるだろうか?

 春野綾の殺意は、原始的なものだった。
 その殺意を昇華させてやりたかった。

『もしあの天才に再び筆を執らせることができたなら』

 春野綾の最期を安らかなものにするためには、斯くあらねばならぬ。

 と、翼のはためく音。
 見あげれば、街の空を横切る電線に、ツクネが止まっていた。

 擬態を解いて狩衣姿に変じ、ひと目にふれぬよう神業をもちいる。
 さすがに制服姿のまま肩にカラスを乗せて歩くわけにはいない。

 舞いおりてきたツクネが、白い姿に戻り、わたくしの肩に止まる。

「空、ようやくひと段落ついたね」

「ああ。長かった」

「走馬燈の限界ぎりぎりまで使ったもんね」

 走馬燈には限界がある。
 月の満ち欠け三回、およそ三ヶ月までしかさかのぼることはかなわない。

 最初、春野綾は高校三年の春まで戻りたいと願った。
 だがそれはかなわぬ願い。
 春野綾は短いと不服を申したてたが、こればかりは如何ともしがたい。

 もちろんわたくし自身も三ヶ月は短いと感じていた。
 春野綾を安らげるためには、気田星佳の人生に介入する必要がある。
 走馬燈で三ヶ月戻ったところで、気田星佳は既に大学に進学してしまっている。
 そこから再び絵を描かせるとなると、これは相応の力業が必要となる。

 そこでわたくしは自ら走馬燈に介入することにした。

 走馬燈の始まりは四月の中旬。
 もう入学式は終わっている。
 わたくしはあれやこれやを改竄し、『京丸羽奈』として大学にもぐりこんだ。
 折を見て気田星佳に接触し、そして彼女と春野綾が接触する機会を増やした。

 そして春野綾が早まらぬようにと目を光らせた。
 実際、一度は危うかった。
 徹夜でともに遊んだあと、春野綾は本気で気田星佳を殺さんと小刀を忍ばせて三号館へと乗りこんできた。

 春野綾はあのとき何を思うていたのだろう。
 かつての宿敵の呆けた生活に憤ったか、それとも充実した大学生活に妬み嫉みを抱いたのか。
 いまとなっては知る由もない。

 いずれにしろわたくしの策は裏目に出た。
 自ら招いた不始末である。
 身を挺してでも気田星佳を守らんと覚悟を決め、春野綾の前に立った。

「本当に空は無茶ばかりする。三ヶ月ものあいだ、ずっと擬態しつづけるなんてさ」

「此度ばかりはツクネが正しい。本当に、正しい」

 京丸羽奈という人格を装いつづけるのには骨が折れた。
 そのうえで春野綾の動向を探り、気田星佳にちょっかいをかけ、彼女の心情の変遷を追うというのは並大抵の労苦ではなかった。

「……しかし、愉しかった」

 想い起こせば、めくるめくような日々だった。
 三ヶ月ものあいだ友人と学生生活を送るなど、長い人生でも初めてのことであった。

 同じ講義を受け、図書館で机を並べて学び、食堂で同じ釜の飯を食らい、三号館ロビーでたむろし、気田星佳のマンションに泊まりこみ、安いスーパーで買いこんだ食材で初夏にもかかわらず鍋をかこみ、クラコンで騒ぎ、安いカラオケで叫び、トイレで戻し、寝ぼけまなこで朝マックを注文し、まだ帰りたくないと公園で池を眺め、ソースのにおいただよう出店で粉ものを買って食べ歩き、空に咲く花火を見あげ……。

 わたくしのような咎人には望外の幸せであった。
 罪であるとさえいってよい。

「わかっているよ、ツクネ。所詮は夜の夢にすぎぬと」

 罪が大きければ、そのぶん罰は重い。
 わたくしはすべてを覚えている。
 しかし、わたくしの他にあの日々を覚えている者はひとりもいない。

「現世に残るは所詮ひとしずくの涙のみ。我らは人を変えず人に残らず。世を変えず世に残らず。そう、わかっているさ」

 歩きつづけているうちに、繁華街の端が近づいてきた。

「ねえ、空」

 肩のうえでツクネがつぶやく。

「もし僕たちが走馬燈の神業を使わなかったら、気田星佳はどういった選択をしていたかな?」

「ツクネ。知ってのとおり、条件法は反実仮想。タラレバに意味はないよ」

「たぶんね、気田星佳は道を選びなおすという選択をしなかったんじゃないかと思うんだ。メモリ・リークは涙ひとしずく分だけしか残らない。でもさ、考えてみてよ。限界まで水の張られたお盆にひとしずくの涙が落ちたら、どうなるか」

 ツクネの言葉が、こころの裡に像を結ばせる。

 表面張力の限界まで水が張られている。
 いまにも溢れそうだが、水面は凪いでいる。

 ひとしずくの涙が落ちる。
 張りつめていた面が破れ、水が溢れる。

 水は堰を切って流れだす。
 まっすぐ、まっすぐ、迷いなく流れていく。

「……斯様なことが、あろうものか」

「あったよ。空は、きっと気田星佳の人生を変えた」

「そは、許されることであろうか。わたくしの務は飽くまでも死者を弔うことだ」

「弔いというのは見送る者のためにあるといっていたのは、空自身じゃないか!」

 鼻の奥が、ツンと痛む。
 こんな感覚はいつ以来だろう。

「わたくしは……彼女のためになれたろうか」

「つい今しがたキミ自身が気田星佳と会って、話しただろう。どうだった? 彼女は晴れ晴れとしていなかったかい?」

「いい顔を、していたよ」

「それにだ。気田星佳は空のことを覚えていた。あの早朝の絵を見ただろう。あそこに描かれていた五人目は、空、まちがいなくキミだよ」

 あの絵。
 春野綾が描き、気田星佳が受け継いだあの絵は、我らが共にすごした日々の記念碑である。

「空はたしかにここにいた。気田星佳は、キミの友人はそれを忘れなかった」

 春風が頬を撫でていく。

「……ポシェットありがとう、などと言われたよ」

 桜を散らせるばかりの春風も、いまばかりは優しかった。

 わたくしは恵まれている。
 恵まれすぎている。
 長すぎる生を償いに宛てるだけの罪人であるにもかかわらず、こうして友を得て、その背中を押すことができるなんて。

 そこでふと思い出す。
 いま、この肩に止まる小さく軽いカラス。
 鳥に身をやつしてまで長い旅路をともにしてくれているこの永遠の友。

 彼こそ、誰にも承認されていない。
 死者も、生者も、みな彼を覚えていない。

「……ツクネ、ありがとう。キミがここにいることを、わたくしはたしかに知っているよ」

 ツクネはきょろきょろと二、三度首を振ったあと、「カー」とひと鳴きして飛びたっていった。
 そして電線にとまり、そっぽを向いた。
 思わず笑ってしまう。

 わたくしが歩くと、ツクネは電線を飛びわたってついてくる。

 繁華街を抜け、あの公園へ。
 池のほとりに立つと、すぐ近くの街灯にツクネが止まる。

 あの朝は、ここにみながいた。

 気田星佳。
 佐久間三智。
 豊岡淳。
 そして、春野綾。

 いい子たちであった。
 しかし悪い子でもあった。

 その命のきらめきは、永遠を歩むわたくしにすれば、須臾の間に散る桜のよう。
 だがこころの裡を探せば、みなそこにいてくれる。

 みなのためにわたくしは祈る。

 花は散る。
 然らばせめて安らかに。
 願わくばこころ措きなく咲いてから。

 己のために、斯く祈る。

第三話 了