三月。
わたしはマンションを引き払った。
引っ越し業者に頼み、荷物は新居に送ってもらった。
荷づくりと掃除は、三智と豊岡にも手伝ってもらった。
新居は、東京の西のほう、大学の近くに借りた。
後世、もし誰かがWikipediaでわたしの記事を書くことがあったら、この一八歳の一年間にきっと首をかしげるだろう。
宇都宮で生まれ、東京の美大に通った気田星佳が、なぜ中部地方の都市で一年間をすごしたのか。
わからなくたっていい。
でもこの一年は、きっとわたしの大事な一部になる。
欠かせない時間だったと、いつか思えるようになる。
桜が散りはじめたころ、わたしは小さなキャリー・ケースひとつでマンションを出た。
空っぽになった部屋は広々としていた。
もうこの町とわたしにはつながりがないのだと実感する。
新幹線の駅に向かうバス停まで、三智と豊岡が見送りに来てくれた。
二人は駅まで一緒にいくといってくれたが、わたしは遠慮することにした。
大学のあるここで、二人とおわかれしたかった。
「生きざまがかっけーよ。人生が作品だよ。そんなふうに生きてーよ」
豊岡はガチ泣きだった。
「そう思うならとっとと告れ」
耳うちしてやると、豊岡は「は、はあ? 何言ってんだよ!」と顔を真っ赤にしてうろたえた。
おまえ本当その見た目で中学生みたいな反応するなよ。
いいから早よくっつけ。
そうしたらこっちもすっきりできる。
「星佳」
三智は、正面からわたしを抱きしめた。
「感情の向け先が見つからないときは、こころの裡を探してみてね。きっとそこに、いるはずだから」
熱い。
彼女とふれるお腹が、胸が、喉が、頬が、目が。
「うん」
ガマンするため、わたしも強く、強く腕に力をこめた。
バスは定刻どおりに来た。
もう少し遅れてもいいのに。
乗りこみ、歩道側の座席に腰かける。
窓を開け二人に手をふる。
「ありがとう」
エンジンがかかり、体に振動が伝わってくる。
バスが出る。
手を振っていた三智が目頭をおさえる。
豊岡が走って追いかけてくる。
何かを叫んでいる。
バスが左折し、二人の姿が見えなくなる。
見なれた住宅街を走っていく。
最初の停留所でバスは停まり、乗客をひとり乗せた。
制服姿の女の子だった。
高校生だろうか。
濃紺のブレザーに、薄いピンクのポシェットを提げている。
女の子と目があった。
彼女はぺこりと頭をさげてこちらへと歩いてきた。
「あの、気田星佳さんですよね?」
そしてなぜかわたしの名前を呼んだ。
「突然すみません。前に研究所でお見かけしたことがあって。素敵な絵を描かれる方だなと、覚えていたんです」
「そうなんだ。それはどうも、ありがとう」
そういえばこんな子、研究所にいたっけ。
……いたか?
うーん。
覚えていない。
研究所には制服姿の高校生もけっこういたから。
でも、たしかになんとなく見覚えのある顔だった……気もする。
バスが発車すると、通路に立っていた女の子がよろめき、たたらを踏んだ。
「よければ座る?」
キャリー・ケースを自分の足もとに押しこめて促すと、その子はまっすぐな笑顔で「ではお言葉に甘えまして」と、わたしの隣に腰をおろした。
「遠くへご旅行ですか?」
見た目は幼気でかわいらしいのに大人びた雰囲気をした子だ。
言葉づかいもすごく丁寧。
「東京の美大に入ることになってね。いまからお引っ越し」
「すごい! おめでとうございます! でもたしか、気田先輩ってもう大学生でしたよね?」
「うん。すぐそこの大学に通ってたけど、辞めちゃった」
「ええ! すごい勇気ですね!」
「そんなに無謀でもないんだよ。美大だって意外と普通に就職できるしね」
「プロとかデザイナ以外にも進路ってあるんですか?」
「一般企業に総合職として就職する道もあるんだよ。他の大学といっしょ。最近はビジネスでデザイン思考っていうのが採り入れられていてね、ものをつくるプロセスが身についてる美大の卒業生を、プロジェクトの一員としてアサインしようっていう企業が増えてるんだって」
と、聞きかじりの知識を披瀝する。
高校生相手に大人気ないかぎりだが、彼女にとってもきっとこの話は益がある。
「研究所に通ってるってことは、あなたも美大受験は視野に入れてるんでしょ? だったらこういう知識はあって損しないよ。親を説得するときとか、あとは自分に言い聞かせるときとかにね。……好きを仕事にしていく道を選ぶのは、怖いから」
高校三年になるとき、わたしは一度描くのを辞めた。
石橋を叩いてわたらないと決めた。
自分に才能がないから?
いや、怖いからだ。
未来が怖かったからだ。
綾のような人間の精神構造はどうなっているんだろう?
向こう岸にわたりたかったら橋を探さず川に飛びこむような人間は。
恐怖を感じる神経が鈍麻している?
恐怖への耐性がある?
楽観的すぎて恐怖を理解できない?
恐怖を押しこめられる意志の強さがある?
自分を信じている?
わからない。
なんにしても、わたしはそういうふうにはできていない。
だからわたしは、向こう岸にわたりたかったら石橋を築く。
誰かが用意した石橋を叩いたりなんてしない。
自分で築いた道しか信じない。
「……すごい、ですね。さすが先輩。あたしそこまで考えていませんでした」
「そのうちあなたも考えるようになるよ。この道を歩いていたら、どこかで天才に行きあたっちゃうから」
「天才。……天才って、なんでしょう?」
腕を組み、考えこむ女子高生。
「そうだね。天才っていうのは……」
綾はわたしのことを天才だといった。
最期までそういった。
綾がいなくなったあと、わたしは彼女がのこしたものを見てまわった。
SNSの履歴や投稿サイトの作品群。
そこに付された言葉たち。
そしてわたしは結論づけた。
「天才っていうのは、自分よりも自分の理想に近い絵を描く人のことだよ」
わたしにとっての綾であり、綾にとってはきっとわたしだった。
「天才がいなくなったら自分で描くしかない。わたしたちは未来の自分が天才であると祈って、呪って、描きつづけていくんだよ」
女子高生は顔いっぱいにクエッション・マークを浮かべていた。
「すみません。何をおっしゃっているのか……。あたしもいつか、気田先輩の言ってることがわかるようになりたいです」
「わかんなくていいよ。それより、あなた自身が他人にわからない言葉でしゃべれるようになるといいね」
綾はいつも自分だけの言葉でしゃべっていた。
絵描きは絵で語る。
だから他人にわかる言葉なんてしゃべれなくていい。
もしわたしがこのさき会社に就職する道を選んだら、そのときは他人にわかる言葉をしゃべるようになるだろう。
どちらを選ぶか、わたしはまだその選択を未来に残している。
選べるというのは贅沢なことだ。
恵まれている。
バスが駅に近づいていく。
住宅街をはなれ、繁華街へと入っていく。
「あ、すみません。次降ります」
と、女子高生は前の座席についた降車ボタンを押した。
「先輩、お話できてよかったです! 向こうでもがんばってください!」
満面の笑みをうかべる後輩。
バスが速度を落としていく。
「あなたもがんばって。あ、それと……」
左車線に寄り、バスが停まる。
女子高生が立ちあがり頭をさげると、薄いピンクのポシェットが小さく揺れた。
「そのポシェット、ありがとう」
後輩は「へ?」と気の抜けた声を発したあと、訝しげな顔をしたままバスを降りていった。
ぷしゅーと音がしてドアが閉まる。
手を振る彼女に、わたしも振りかえす。
バスが発車する。
……ポシェットありがとうは、さすがにおかしかったな。
あの子、変な声出してたし。
たぶん、わたしが絵に描いたのはあなただ。
早朝の公園にいた五人目はあなただ。
まったく記憶にはないけれど、きっといつか研究所であなたの姿を見かけていたんだろう。
だから、ありがとう。
モデルにさせていただきました。
なんであなたの姿を借りたのか、わたし自身理由はさっぱりわからないけれど。
繁華街の大通りを走る。
大きな駅ビルが見えてくる。
バス・ターミナルについたら新幹線のホームへ向かう。
残りの距離が減っていく。
この町にわたしが存在する時間が少なくなっていく。
わたしはこの町にいろいろなものを置いていく。
堅実な将来。
拭えない恥の記憶。
このさき音信不通になっていく元・同クラの連中。
きっといつかまた朝までともに語りあう友人たち。
ガレット・デ・ロワみたいな想い。
この世界に天才がいた時間。
そうしたあれやこれやを置いて、わたしはまた大学に行く。
バスが停まる。
キャリー・ケースを抱え、ターミナルに降り立つ。
自作の石橋は、もうここから始まっている。
わたしはマンションを引き払った。
引っ越し業者に頼み、荷物は新居に送ってもらった。
荷づくりと掃除は、三智と豊岡にも手伝ってもらった。
新居は、東京の西のほう、大学の近くに借りた。
後世、もし誰かがWikipediaでわたしの記事を書くことがあったら、この一八歳の一年間にきっと首をかしげるだろう。
宇都宮で生まれ、東京の美大に通った気田星佳が、なぜ中部地方の都市で一年間をすごしたのか。
わからなくたっていい。
でもこの一年は、きっとわたしの大事な一部になる。
欠かせない時間だったと、いつか思えるようになる。
桜が散りはじめたころ、わたしは小さなキャリー・ケースひとつでマンションを出た。
空っぽになった部屋は広々としていた。
もうこの町とわたしにはつながりがないのだと実感する。
新幹線の駅に向かうバス停まで、三智と豊岡が見送りに来てくれた。
二人は駅まで一緒にいくといってくれたが、わたしは遠慮することにした。
大学のあるここで、二人とおわかれしたかった。
「生きざまがかっけーよ。人生が作品だよ。そんなふうに生きてーよ」
豊岡はガチ泣きだった。
「そう思うならとっとと告れ」
耳うちしてやると、豊岡は「は、はあ? 何言ってんだよ!」と顔を真っ赤にしてうろたえた。
おまえ本当その見た目で中学生みたいな反応するなよ。
いいから早よくっつけ。
そうしたらこっちもすっきりできる。
「星佳」
三智は、正面からわたしを抱きしめた。
「感情の向け先が見つからないときは、こころの裡を探してみてね。きっとそこに、いるはずだから」
熱い。
彼女とふれるお腹が、胸が、喉が、頬が、目が。
「うん」
ガマンするため、わたしも強く、強く腕に力をこめた。
バスは定刻どおりに来た。
もう少し遅れてもいいのに。
乗りこみ、歩道側の座席に腰かける。
窓を開け二人に手をふる。
「ありがとう」
エンジンがかかり、体に振動が伝わってくる。
バスが出る。
手を振っていた三智が目頭をおさえる。
豊岡が走って追いかけてくる。
何かを叫んでいる。
バスが左折し、二人の姿が見えなくなる。
見なれた住宅街を走っていく。
最初の停留所でバスは停まり、乗客をひとり乗せた。
制服姿の女の子だった。
高校生だろうか。
濃紺のブレザーに、薄いピンクのポシェットを提げている。
女の子と目があった。
彼女はぺこりと頭をさげてこちらへと歩いてきた。
「あの、気田星佳さんですよね?」
そしてなぜかわたしの名前を呼んだ。
「突然すみません。前に研究所でお見かけしたことがあって。素敵な絵を描かれる方だなと、覚えていたんです」
「そうなんだ。それはどうも、ありがとう」
そういえばこんな子、研究所にいたっけ。
……いたか?
うーん。
覚えていない。
研究所には制服姿の高校生もけっこういたから。
でも、たしかになんとなく見覚えのある顔だった……気もする。
バスが発車すると、通路に立っていた女の子がよろめき、たたらを踏んだ。
「よければ座る?」
キャリー・ケースを自分の足もとに押しこめて促すと、その子はまっすぐな笑顔で「ではお言葉に甘えまして」と、わたしの隣に腰をおろした。
「遠くへご旅行ですか?」
見た目は幼気でかわいらしいのに大人びた雰囲気をした子だ。
言葉づかいもすごく丁寧。
「東京の美大に入ることになってね。いまからお引っ越し」
「すごい! おめでとうございます! でもたしか、気田先輩ってもう大学生でしたよね?」
「うん。すぐそこの大学に通ってたけど、辞めちゃった」
「ええ! すごい勇気ですね!」
「そんなに無謀でもないんだよ。美大だって意外と普通に就職できるしね」
「プロとかデザイナ以外にも進路ってあるんですか?」
「一般企業に総合職として就職する道もあるんだよ。他の大学といっしょ。最近はビジネスでデザイン思考っていうのが採り入れられていてね、ものをつくるプロセスが身についてる美大の卒業生を、プロジェクトの一員としてアサインしようっていう企業が増えてるんだって」
と、聞きかじりの知識を披瀝する。
高校生相手に大人気ないかぎりだが、彼女にとってもきっとこの話は益がある。
「研究所に通ってるってことは、あなたも美大受験は視野に入れてるんでしょ? だったらこういう知識はあって損しないよ。親を説得するときとか、あとは自分に言い聞かせるときとかにね。……好きを仕事にしていく道を選ぶのは、怖いから」
高校三年になるとき、わたしは一度描くのを辞めた。
石橋を叩いてわたらないと決めた。
自分に才能がないから?
いや、怖いからだ。
未来が怖かったからだ。
綾のような人間の精神構造はどうなっているんだろう?
向こう岸にわたりたかったら橋を探さず川に飛びこむような人間は。
恐怖を感じる神経が鈍麻している?
恐怖への耐性がある?
楽観的すぎて恐怖を理解できない?
恐怖を押しこめられる意志の強さがある?
自分を信じている?
わからない。
なんにしても、わたしはそういうふうにはできていない。
だからわたしは、向こう岸にわたりたかったら石橋を築く。
誰かが用意した石橋を叩いたりなんてしない。
自分で築いた道しか信じない。
「……すごい、ですね。さすが先輩。あたしそこまで考えていませんでした」
「そのうちあなたも考えるようになるよ。この道を歩いていたら、どこかで天才に行きあたっちゃうから」
「天才。……天才って、なんでしょう?」
腕を組み、考えこむ女子高生。
「そうだね。天才っていうのは……」
綾はわたしのことを天才だといった。
最期までそういった。
綾がいなくなったあと、わたしは彼女がのこしたものを見てまわった。
SNSの履歴や投稿サイトの作品群。
そこに付された言葉たち。
そしてわたしは結論づけた。
「天才っていうのは、自分よりも自分の理想に近い絵を描く人のことだよ」
わたしにとっての綾であり、綾にとってはきっとわたしだった。
「天才がいなくなったら自分で描くしかない。わたしたちは未来の自分が天才であると祈って、呪って、描きつづけていくんだよ」
女子高生は顔いっぱいにクエッション・マークを浮かべていた。
「すみません。何をおっしゃっているのか……。あたしもいつか、気田先輩の言ってることがわかるようになりたいです」
「わかんなくていいよ。それより、あなた自身が他人にわからない言葉でしゃべれるようになるといいね」
綾はいつも自分だけの言葉でしゃべっていた。
絵描きは絵で語る。
だから他人にわかる言葉なんてしゃべれなくていい。
もしわたしがこのさき会社に就職する道を選んだら、そのときは他人にわかる言葉をしゃべるようになるだろう。
どちらを選ぶか、わたしはまだその選択を未来に残している。
選べるというのは贅沢なことだ。
恵まれている。
バスが駅に近づいていく。
住宅街をはなれ、繁華街へと入っていく。
「あ、すみません。次降ります」
と、女子高生は前の座席についた降車ボタンを押した。
「先輩、お話できてよかったです! 向こうでもがんばってください!」
満面の笑みをうかべる後輩。
バスが速度を落としていく。
「あなたもがんばって。あ、それと……」
左車線に寄り、バスが停まる。
女子高生が立ちあがり頭をさげると、薄いピンクのポシェットが小さく揺れた。
「そのポシェット、ありがとう」
後輩は「へ?」と気の抜けた声を発したあと、訝しげな顔をしたままバスを降りていった。
ぷしゅーと音がしてドアが閉まる。
手を振る彼女に、わたしも振りかえす。
バスが発車する。
……ポシェットありがとうは、さすがにおかしかったな。
あの子、変な声出してたし。
たぶん、わたしが絵に描いたのはあなただ。
早朝の公園にいた五人目はあなただ。
まったく記憶にはないけれど、きっといつか研究所であなたの姿を見かけていたんだろう。
だから、ありがとう。
モデルにさせていただきました。
なんであなたの姿を借りたのか、わたし自身理由はさっぱりわからないけれど。
繁華街の大通りを走る。
大きな駅ビルが見えてくる。
バス・ターミナルについたら新幹線のホームへ向かう。
残りの距離が減っていく。
この町にわたしが存在する時間が少なくなっていく。
わたしはこの町にいろいろなものを置いていく。
堅実な将来。
拭えない恥の記憶。
このさき音信不通になっていく元・同クラの連中。
きっといつかまた朝までともに語りあう友人たち。
ガレット・デ・ロワみたいな想い。
この世界に天才がいた時間。
そうしたあれやこれやを置いて、わたしはまた大学に行く。
バスが停まる。
キャリー・ケースを抱え、ターミナルに降り立つ。
自作の石橋は、もうここから始まっている。