九月が終わり十月になったころ、まりかさんの元気がなくなってきた。

 彼女には元から、何もないところをぼんやり見るクセがあったけれど、だんだんその頻度が増え、もぐる深さもましていっていた。
 どうかしたのかときいてみると、彼女は「世界の終りが近いの」とこたえた。

 とある曇りの日。
 冷たい水をかかえた灰色の雲が空をおおった日。

 僕たちは昼休みを学校の図書室ですごしていた。
 図書室にくる生徒は多くない。
 放課後には多少のにぎわいをみせるが、昼休みにはほとんど無人になる。
 せいぜいカウンターの中に図書委員の当番がいるくらいだ。

 僕たちは書架の陰に座りこみ、児童文学や絵本を読んですごした。
 これらの書物には、かつて地上で権勢を振るった魔族たちの痕跡が残っている。
 そんな設定を用意していたが、気がつけば普通に読書を楽しんでしまっていた。

 茶色い装丁の『アルセーヌ=ルパン全集』などは特に懐かしかった。
 昔はよくお母さんと近くの図書館に行って、このシリーズを一冊ずつ借りていた。

「……幼稚園のころ、よく遊んだ友だちがいたんだ」

 隣で全集の第一巻を読んでいたまりかさんに、僕は語りかけた。

「僕の部屋にレゴがあったでしょ。あれでいっしょに世界をつくっては滅ぼして、つくっては滅ぼしてって遊んでたんだ」

「いたんだね、友だち」

「うん、いたんだよ。淳くんっていうんだけど、活発で人気者で、僕とは正反対だったよ。だからかな。小学校にあがった頃からはいっしょに遊ばなくなっちゃった。レゴの世界は、遊んでたときのままとってあったんだ」

「捨てちゃえばよかったのに」

「捨てられたら、よかったんだけどね」

「……あーあ。世界なんて滅びちゃえばいいのにね。そしたらこんなことで悩まないのに」
 天井を見あげ嘆息するまりかさん。

 それから彼女は「そういえば」とつぶやき、スマホを取りだした。

「佳くんも前にそんなことつぶやいてたよね。世界が滅びちゃえばいいって。えっと……あ、これこれ」

 まりかさんが表示させたツイートは、たしかに僕のものだった。

『僕と世界、どちらかが消えない限り相互不理解は続く。だから、迷うことなんてないはずなのに』

「……まりかさん。これはね、そういう意味じゃないよ」

 僕が告げると、彼女はスマホに視線を戻した。

 そして数秒後に、はっと顔をあげた。

「佳くんのほうが消えちゃいたいってこと?」

 微笑みをかえす。

「どっちも同じことだからね。世界が消えたら僕も消える。僕が消えたら世界は観測できなくなる。どっちにしてもお互いを理解する必要がなくなるでしょ」

 まりかさんは「むー」と顔をしかめて僕をにらみつけた。

「……魔族はそんなこといわない! もっと自分第一で、もっと前向き。自分が消えるくらいなら世界を滅ぼすほうが絶対いいよ!」

 まりかさんは両手でファイティング・ポーズをとりながら、ひねり出したような明るい声で僕を励まそうとした。

 ちょうどそのとき、五時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。

「もうしばらく、ここで滅活してこうか」

 僕の提案に、まりかさんはうつむきながら「うん」とこたえた。



 五時間目が終わったあと、僕たちは教室へ戻ることにした。

 考えてみれば授業をサボるのは生まれて初めてだった。
 正直にいえば、緊張と罪悪感以外に、少しの昂揚があった。
 僕にとっては、世界を滅ぼすより授業をサボるほうがよほど大それたことだった。
 悪魔が家に来るより女子が来るほうが大事件になるのと同じだ。

 まりかさんと並んで廊下を歩き、教室のドアに手をかけた瞬間だった。

「さっきの授業さ、あいつらいなくなかった?」
「あー。麻布と水窪? いなかった。たぶん」
「ねーね、知ってる? つきあってるらしいよ。あの二人」
「うっそ、マジで?」
「なんか二人でお街歩いてたんだって」
「うーわ。ないわ」
「きも」
「いや、ある意味おにあいじゃね?」

 教室の中からそんな声がもれてきた。

 意外と僕たちは見られていたんだなと、そう思った。
 誰も僕たちのことなんて認識していないと思っていたから。

 しかし、それは僕たちが教室に居場所を持っているということを意味しはしない。
 むしろ逆だ。
 僕とまりかさんが教室で立場を得ていないからこそ、同級生たちは、僕たちを歓談のタネにしている。
 彼ら彼女らはコンテクストを共有している。
 僕とまりかさんはどういってもよい対象であるという常識を共有している。

 僕とまりかさんはそのコンテクストを共有していない。
 僕たち二人は主語じゃない。目的語だ。
 語られる対象であり、観察される対象であり、指をさされる対象だ。

 そんなことを考えている自分に気づく。

 よくこの状況でそんな冷静に分析できるな。

 冷静?

 ちがうでしょ。

 こんな状況だから考えてるんだよ。
 自分から自分を遊離させて、自分を客観視しようとしている。
 逃避だよ。
 自分を守ってるんだ。
 いま傷つけられているのは僕ではなく、水窪佳という人間であると、こころから自分を切り離しているんだよ。

「あいつら並んでるとおもしれーよな」
「あの二人、おもしろいとかある?」
「麻布ってやばいじゃん。制服あれだし、メイクとかもさ」
「地雷系?」
「そーそ。地味陰キャと地雷系ってラブコメのマンガありそうじゃね?」
「あはは!」

 ふと嫌な予感がして隣を見る。
 まりかさんが、脳みそばんってしたりしないかと。

「……」

 まりかさんは、何の感情も浮かべていなかった。

 ふと、以前訪れたマンションを思い出した。
 まりかさんが住んでいるという四〇四号室の鉄の扉。
 重く、無表情に閉ざされた扉。

 僕は目の前の現実から自分を逃している。
 まりかさんは、現実から扉を閉ざしていた。

「まりかさん、行こう」
 だから僕は彼女の手をとった。

 僕が小走りになると、まりかさんがつんのめる。

「え、どこ行くの?」

「どこでもいいよ」

 まりかさんが走りだす。僕の隣に並びかける。

「どこでもいっか!」

 僕たちは昇降口を駆けぬけて、上靴のまま学校を飛びだした。