目を開けると、世界は薄いオレンジ色をしていた。
夕方まで寝てしまったらしい。
もうちょっと早く起きるつもりだったのに。
ベッドから身を起こす。
また汗をかいた。
たぶん熱は下がっている。
でも体はまだ重い。
抗体が戦っているのだろう。
「あ、起きた?」
ベッドを背に座っていた羽奈が振りかえる。
手には文庫本。
少しはなれたテーブルにはマグカップ。
「ちょっと寝すぎちゃった」
「こういうときは寝たほうがいいんだよ。星佳ちゃん、紅茶飲む?」
「うん」
立ちあがった羽奈の背中に、「ありがと」と声をかける。
窓から湿っぽい風。
寝ているだけの怠惰な一日にはもったいないくらいに優しい、夏の前の夕方の風。
なぜ夕日は昔日を想い起こさせるのだろう。
いつも変わらないからか。
夕方の帰り道にはその日一日を思い返しているからか。
思い返す夕方の自分を思い出しているのかもしれない。
ベッドのうえで、壁にもたれかかって座る。
枕もとの充電ケーブルにスマホがささっている。
羽奈が充電してくれたらしい。
画面が光る。
いつの間にか七月も中旬になっている。
ヤバい。
夏学期の試験がもうすぐ始まる。
ロックを解く。
LINEの通知が溜まっている。
……ごめん。
あとにさせて。
いまはまだちょっと考えたくない。
ってこうして考えている時点でもう思い出しちゃってるんだけど。
綾の受賞。
いまさらショックを受ける筋あいなんてない。
だってもうわたしは絵をやめている。
やめているはずなのに。
前に動画で見たウォーターベッドを思い出す。
わたしの表面はどこも濡れていない。
でもなかには目いっぱいの水が詰まっている。
針が刺さって膜が破れたら、なかからは止めどなく気持ちが溢れだす。
Twitterを開く。
玖保ミサさんのアカウントから『条件法の魔女』へと飛ぶ。
『あなたの最期の願いをかなえます』
例の固定ツイートを改めて見る。
「お湯沸かしてるから、ちょっと待っててね」
台所から戻ってきた羽奈は、テーブルの台所側にマグカップを持っていった。
ベッド側はわたしに譲る、ということだろう。
ベッドから降りてクッションに腰をおろす。
「星佳ちゃん、起きあがってだいじょうぶ?」
「ずっと寝てたから、むしろ起きないときつい」
羽奈にこたえながら『魔女』に宛ててDMを送る。
送るのは『星蝕』のほうからだ。
表垢で接触なんてしたくない。
『高校三年生の春に戻りたい』
過日の夕暮れ。
筆を折ると決めたあの日。
直後、ぶるるるとくぐもった音。
羽奈がポケットからスマホを取りだす。
「……豊岡くんからだ。星佳ちゃんだいじょうぶか、だって。心配してるね」
「ん。あとでLINEしとく」
『魔女』に願う。
それはある意味緩やかな自殺だ。
綾は言った。
生きないなら死ね。
うん。
そうする。
もしかしたら、綾も願ったのかもしれない。
才能を。
技術を。
結果を。
評価を。
実績を。
いや、それはないか。
綾は自分にないものを求めない。
もし願うとしたら時間。
時間だけだ。
時間があれば自分でやるから、時間だけをよこせ。
わたしだったらそう願うし、綾もきっと同じだ。
こういうところでわたしたちは似ている。
吐きそうなほど嫌だけど。
ふっ、と鼻で笑ってしまう。
緩やかな自殺って。
そもそも『魔女』なんてネタだ。
現実の存在じゃない。
わたしはいま遊んでいるだけだ。
都市伝説という壁に向かって願望というボールを打ちつける一人遊びで、わたしはわたしを傷つけている。
スマホに通知。
『キミには資格がない』
魔女からのDMだった。
まさか返事が来るなんて。
いや、アカウントがあるということは開設した誰かがいるということで、そこにはいたずらを仕掛けた人間がたしかに存在している。
しかし、資格がないってどういうことだ。
それに『キミには』って?
まるで誰かには資格があるみたいじゃないか。
誰か。
綾?
指を走らせ、文章をつづる。
ひゅーと笛のような音が鳴った。
台所からだ。
「あ、お湯沸いたみたい! はいはい!」
慌てて席を立ち、台所へと向かっていく羽奈。
その背中を見送り、『魔女』へDMを送る。
『資格って何? なんでわたしにはないの? アイツには資格があったっていうの?』
がたたた、と音が鳴る。
テーブルのうえで、羽奈のスマホが震えている。
「羽奈、鳴ってるよー」
ベッドから降り、テーブルに身を乗りだす。
羽奈のスマホに手を伸ばす。
台所へ持っていこうと思って。
そのとき、目に入ってしまった。
羽奈のスマホに出ていた通知。
TwitterのDMが届いたという表示。
差出人とメッセージの冒頭。
『星蝕 資格って何? なんでわたし……』
心臓が跳ねる。
からからの喉に唾を飲みこむ。
テーブルの脇に、薄いピンクのポシェットが置いてある。
めずらしい。
羽奈がポシェットを置いていくなんて。
そっと手に取り、開けてみる。
なかには桜の枝が入っていた。
「あーあ。見ちゃったね」
いつの間にか、そばに羽奈が立っていた。
斜めの夕日が羽奈の足もとを照らしている。
腕を後ろに組んでいる。
顔には薄い笑顔がうかんでいた。
優しいような、諦めたような、懐かしむような、そんな笑み。
「……羽奈、あんた魔女なの? ううん、『魔女』のアカウントはあんたのなの?」
思わずバカげた質問をしてしまったので、言いなおす。
「お察しのとおりだ。返してくれないか。大事なものなのだ」
と、羽奈はわたしの手からポシェットを取りあげた。
その声も、顔も、体も、たしかに羽奈のものなのに、もう別人だとしか認識できない。
構成する物質が同じでも、そこに宿る魂が入れ替わってしまったように、いまの羽奈はもう魔女だった。
「願いをかなえるって、本当なの?」
「信じるかはキミ次第だ」
卓上のスマホを手にとる魔女。
「……いただいた質問にこたえよう。然様。彼女、春野綾には資格があった」
「何が! わたしと何がちがうの!」
すがりつくわたしを見下ろす魔女。
その視線には哀れみがあった。
目をそらしてしまう。
そんな目で見ないで。
「最期の願いという意味を考えてみなさい」
「命だったら、差しだすから……!」
魔女は、服を握るわたしの手を優しく剥がしていった。
「受けとれぬよ。キミの命はキミだけのものだ」
視界がぼやける。
目もとから頬にかけて温かい感触。
「温かくして、もう一度寝なさい」
と、魔女はわたしをベッドにつれていき、布団をかけた。
「……ぐっ、ひっぐ」
腕を目もとに押しあてると、袖が湿り気を帯びる。
「おやすみなさい」
と魔女はわたしの頭を撫で、それから部屋を出ていった。
ドアが閉まり、鍵のかかる音。
それからポストの金属音。
「……行かないでよ」
届かない言葉が天井に吸いこまれていく。
悲しみと寂しさに塗りつぶされ、また意識が薄れていった。
夕方まで寝てしまったらしい。
もうちょっと早く起きるつもりだったのに。
ベッドから身を起こす。
また汗をかいた。
たぶん熱は下がっている。
でも体はまだ重い。
抗体が戦っているのだろう。
「あ、起きた?」
ベッドを背に座っていた羽奈が振りかえる。
手には文庫本。
少しはなれたテーブルにはマグカップ。
「ちょっと寝すぎちゃった」
「こういうときは寝たほうがいいんだよ。星佳ちゃん、紅茶飲む?」
「うん」
立ちあがった羽奈の背中に、「ありがと」と声をかける。
窓から湿っぽい風。
寝ているだけの怠惰な一日にはもったいないくらいに優しい、夏の前の夕方の風。
なぜ夕日は昔日を想い起こさせるのだろう。
いつも変わらないからか。
夕方の帰り道にはその日一日を思い返しているからか。
思い返す夕方の自分を思い出しているのかもしれない。
ベッドのうえで、壁にもたれかかって座る。
枕もとの充電ケーブルにスマホがささっている。
羽奈が充電してくれたらしい。
画面が光る。
いつの間にか七月も中旬になっている。
ヤバい。
夏学期の試験がもうすぐ始まる。
ロックを解く。
LINEの通知が溜まっている。
……ごめん。
あとにさせて。
いまはまだちょっと考えたくない。
ってこうして考えている時点でもう思い出しちゃってるんだけど。
綾の受賞。
いまさらショックを受ける筋あいなんてない。
だってもうわたしは絵をやめている。
やめているはずなのに。
前に動画で見たウォーターベッドを思い出す。
わたしの表面はどこも濡れていない。
でもなかには目いっぱいの水が詰まっている。
針が刺さって膜が破れたら、なかからは止めどなく気持ちが溢れだす。
Twitterを開く。
玖保ミサさんのアカウントから『条件法の魔女』へと飛ぶ。
『あなたの最期の願いをかなえます』
例の固定ツイートを改めて見る。
「お湯沸かしてるから、ちょっと待っててね」
台所から戻ってきた羽奈は、テーブルの台所側にマグカップを持っていった。
ベッド側はわたしに譲る、ということだろう。
ベッドから降りてクッションに腰をおろす。
「星佳ちゃん、起きあがってだいじょうぶ?」
「ずっと寝てたから、むしろ起きないときつい」
羽奈にこたえながら『魔女』に宛ててDMを送る。
送るのは『星蝕』のほうからだ。
表垢で接触なんてしたくない。
『高校三年生の春に戻りたい』
過日の夕暮れ。
筆を折ると決めたあの日。
直後、ぶるるるとくぐもった音。
羽奈がポケットからスマホを取りだす。
「……豊岡くんからだ。星佳ちゃんだいじょうぶか、だって。心配してるね」
「ん。あとでLINEしとく」
『魔女』に願う。
それはある意味緩やかな自殺だ。
綾は言った。
生きないなら死ね。
うん。
そうする。
もしかしたら、綾も願ったのかもしれない。
才能を。
技術を。
結果を。
評価を。
実績を。
いや、それはないか。
綾は自分にないものを求めない。
もし願うとしたら時間。
時間だけだ。
時間があれば自分でやるから、時間だけをよこせ。
わたしだったらそう願うし、綾もきっと同じだ。
こういうところでわたしたちは似ている。
吐きそうなほど嫌だけど。
ふっ、と鼻で笑ってしまう。
緩やかな自殺って。
そもそも『魔女』なんてネタだ。
現実の存在じゃない。
わたしはいま遊んでいるだけだ。
都市伝説という壁に向かって願望というボールを打ちつける一人遊びで、わたしはわたしを傷つけている。
スマホに通知。
『キミには資格がない』
魔女からのDMだった。
まさか返事が来るなんて。
いや、アカウントがあるということは開設した誰かがいるということで、そこにはいたずらを仕掛けた人間がたしかに存在している。
しかし、資格がないってどういうことだ。
それに『キミには』って?
まるで誰かには資格があるみたいじゃないか。
誰か。
綾?
指を走らせ、文章をつづる。
ひゅーと笛のような音が鳴った。
台所からだ。
「あ、お湯沸いたみたい! はいはい!」
慌てて席を立ち、台所へと向かっていく羽奈。
その背中を見送り、『魔女』へDMを送る。
『資格って何? なんでわたしにはないの? アイツには資格があったっていうの?』
がたたた、と音が鳴る。
テーブルのうえで、羽奈のスマホが震えている。
「羽奈、鳴ってるよー」
ベッドから降り、テーブルに身を乗りだす。
羽奈のスマホに手を伸ばす。
台所へ持っていこうと思って。
そのとき、目に入ってしまった。
羽奈のスマホに出ていた通知。
TwitterのDMが届いたという表示。
差出人とメッセージの冒頭。
『星蝕 資格って何? なんでわたし……』
心臓が跳ねる。
からからの喉に唾を飲みこむ。
テーブルの脇に、薄いピンクのポシェットが置いてある。
めずらしい。
羽奈がポシェットを置いていくなんて。
そっと手に取り、開けてみる。
なかには桜の枝が入っていた。
「あーあ。見ちゃったね」
いつの間にか、そばに羽奈が立っていた。
斜めの夕日が羽奈の足もとを照らしている。
腕を後ろに組んでいる。
顔には薄い笑顔がうかんでいた。
優しいような、諦めたような、懐かしむような、そんな笑み。
「……羽奈、あんた魔女なの? ううん、『魔女』のアカウントはあんたのなの?」
思わずバカげた質問をしてしまったので、言いなおす。
「お察しのとおりだ。返してくれないか。大事なものなのだ」
と、羽奈はわたしの手からポシェットを取りあげた。
その声も、顔も、体も、たしかに羽奈のものなのに、もう別人だとしか認識できない。
構成する物質が同じでも、そこに宿る魂が入れ替わってしまったように、いまの羽奈はもう魔女だった。
「願いをかなえるって、本当なの?」
「信じるかはキミ次第だ」
卓上のスマホを手にとる魔女。
「……いただいた質問にこたえよう。然様。彼女、春野綾には資格があった」
「何が! わたしと何がちがうの!」
すがりつくわたしを見下ろす魔女。
その視線には哀れみがあった。
目をそらしてしまう。
そんな目で見ないで。
「最期の願いという意味を考えてみなさい」
「命だったら、差しだすから……!」
魔女は、服を握るわたしの手を優しく剥がしていった。
「受けとれぬよ。キミの命はキミだけのものだ」
視界がぼやける。
目もとから頬にかけて温かい感触。
「温かくして、もう一度寝なさい」
と、魔女はわたしをベッドにつれていき、布団をかけた。
「……ぐっ、ひっぐ」
腕を目もとに押しあてると、袖が湿り気を帯びる。
「おやすみなさい」
と魔女はわたしの頭を撫で、それから部屋を出ていった。
ドアが閉まり、鍵のかかる音。
それからポストの金属音。
「……行かないでよ」
届かない言葉が天井に吸いこまれていく。
悲しみと寂しさに塗りつぶされ、また意識が薄れていった。