羽奈はマンションの前まで送ってくれた。
そして、すぐ寝たほうがいいよ、と言い残して帰っていった。
服を脱ぎ散らかして、シャワーでメイクを流して、ベッドに倒れこんで意識が薄れていくなかで、ふと大事なことを思い出し、布団の沼から身を起こす。
実家のお母さんにLINEを送る。
『デスクトップとペンタブ、捨ててないよね。すぐ送って』
送信ボタンをタップして、スマホを床に投げ捨てたところで、意識がとんだ。
起きてからはiPadで絵を描いた。
昼か夕方か、夜か朝かはわからなかった。
わかっていたのは、デッサンの練習を再開すべきということだけだった、
何回か寝て起きたあと、宅配便が届いた。
実家で使っていたデスクトップPCと周辺機器一式だった。
テーブルのうえを片づけてディスプレイとペンタブを配置して、わたしはペンを手にとった。
数日が経った。
体が痛くなった。腰と肩と首筋と後頭部のつけ根と肘とこめかみと指と手首と目と下腹部と膝と体のどこかが痛い。
ロー・テーブルにあぐらはきつい。
机と椅子がほしい。
でもそんなお金はない。
選んでいる時間もない。
過去の自分がうらやましい。
投稿サイトの自分の絵を見返すたび、そう思った。
この線、どうやって引いたんだろう?
ロスト・テクノロジーだ。
昔の絵はオーパーツ。
たぶん必修の授業はいくつかブッチした。
何個かわからない。
もしかしたら全部かもしれないし、下手したら二週連続で欠席しているかも知れない。
日付を数えるという文明的な行為がひどくむずかしかった。
先週までのわたしにはできていたはずなのに。
どうやっていたんだろう?
あ、スマホか。
スマホは床に放置したままだった。
画面は真っ暗。
まあ、電池がもつはずないよね。
枕もとの充電器にさしてまた放置。
数分か数時間か数日か、しばらくするとスマホが鳴りだした。
どうした。
わたしだって鳴きたいわ。
LINEの着信。
三智だ。
「もしもし」
「あ、出た。――うん、星佳、出たよ。だいじょうぶ――」
電波の向こうで、三智は誰かと話しているようだった。
聞こえてくる遠い声は、たぶん羽奈と豊岡だ。
「もしもし。星佳、生きてる?」
「死んでる」
「学校来れる?」
「いつ?」
「あのさ、いま三号館にいるんだけど、」
そこから先は、貝殻から聞こえる波の音のように三智の声は遠くなっていった。
気がつくとわたしはベッドでうつ伏せになっていて、スマホの電池はまた切れていた。
どうせいつかはなくなるのに充電してもしょうがない。
スマホは放っておくことにした。
ベッドにいないときはテーブルのまえにいた。
ペンを握っていない時間は眠っていた。
たぶんトイレやお風呂にも行ったはずだけど、記憶にはない。
不意に昔のことを思い出した。
高校二年の夏休みもこんな感じで過ごしていた。
Discordの綾のサーバに入りっぱなしで、ずっと音声をつないでいた。
発言は一時間に一回するかしないか。
会話は数時間に一回くらい。
朝とか夜とかといった概念がなかったので、頻度がほんとうにそのくらいだったかすらわからない。
あれ、わたしスマホどうしたっけ?
なんか一回通話しなかったっけ?
なんで床に転がってるんだろう?
電池ないし。
ん?
そういえば三智と話したような気が……。
夢?
いや、通話履歴あるな。
現実か。
マジか。
そのあとメッセージ来てるし。
羽奈や豊岡からもだ。
件数がヤバい。
二桁って。
開くの怖いな。
既読つけたら何か返さないとだし。
って、綾からもなんか来てる。
『大学来ないの?』
「何言ってんだコイツ!」
急に意識が戻った。
目が覚めた。
心臓止まるかと思った。
いま何時?
九時。
何曜?
火曜。
いまから行けば二限の必修に出られる。
いま何月何日?
七月?
マジか、六月終わってんじゃん!
え、わたし必修三回サボってない?
ヤバいヤバい行かないと!
慌てて立ちあがったら、膝に力が入らずベッドにぶっ倒れてしまった。
足の筋肉が衰えている。
というか全身が重い。
宇宙から帰ってきたときってこんな感じなのかな。
なんでもいいからとにかく学校!
できる限りのスピードで準備して、家を出て、大学へ。
昼休みが終わるころ、ようやく三号館にたどり着く。
そしてドアを開けたところで思い出した。
そうだった。
綾。
コイツの存在を忘れていた。
意識にのぼっていなかった。
綾はロビーのベンチに腰かけてiPadにアップル・ペンシルを走らせていた。
思わず足が止まる。ロビーには羽奈も、三智も、豊岡もいた。
そしていつもわたしが座っていた場所に綾がいた。
「うわ、マジか!」
と、不意に豊岡が声をあげた。
「急にどうしたの?」
訝しがる三智に、豊岡がスマホの画面を見せる。
「ほら、これ! 春野さん、大賞受賞だって!」
「本当だ。出版社主催の賞って、たぶんすごいんだよね、春野さん」
タブレットから少しだけ顔をあげる綾。
「……そうね。まあ、」
と、そこまで言ったところで、綾はこちらに顔を向けた。
そしてヤツは、にんまりと下卑た笑顔を顔いっぱいに広げた。
「賞の位置づけは、同じ界隈の人のほうが詳しいかな。その昔、見事三次選考まで勝ち進んだ星蝕さん?」
綾の問いかけと視線。
三智が、豊岡が、羽奈が、その場にいた同クラ全員がわたしを見た。
気がつけば、わたしは並木道を走っていた。
息が切れ、道ばたの街路樹に手をつく。
咳。
洟。
涙。
寝不足のせいか、急に走ったせいか、乾いた喉が剥がれるように痛かった。
もう二度と三号館には行きたくない。
行くたびにわたしは逃げている。
前回は羽奈に手を引かれて帰ってきた。
あのときはまだマシだった。
帰宅したあと、服を脱いでシャワーを浴びることができた。
今度はもうムリだった。
帰ってきてそのままベッドに倒れこんだ。
服がしわになるのも、枕やシーツに化粧がつくのも気にしていられなかった。
とにかく体が重かった。
地球が大きくなったのか。
重力が5Gだった。
体温計どこやったっけ?
テーブルのうえの小物入れに……あ、ディスプレイとかペンタブとか置くためにどけたんだった。
そういえば体温全然測ってない。
あれ、そういえば最近来てなくない?
いつ以来?
ここまで間空くの、何年ぶりだろう。
描くのをやめてからはずっと安定してたのに。
まあ、体温計はいいや。
測らなくていい。
どうせ熱あるのわかってるし。
とに、かく、寝ない、と。
そして、すぐ寝たほうがいいよ、と言い残して帰っていった。
服を脱ぎ散らかして、シャワーでメイクを流して、ベッドに倒れこんで意識が薄れていくなかで、ふと大事なことを思い出し、布団の沼から身を起こす。
実家のお母さんにLINEを送る。
『デスクトップとペンタブ、捨ててないよね。すぐ送って』
送信ボタンをタップして、スマホを床に投げ捨てたところで、意識がとんだ。
起きてからはiPadで絵を描いた。
昼か夕方か、夜か朝かはわからなかった。
わかっていたのは、デッサンの練習を再開すべきということだけだった、
何回か寝て起きたあと、宅配便が届いた。
実家で使っていたデスクトップPCと周辺機器一式だった。
テーブルのうえを片づけてディスプレイとペンタブを配置して、わたしはペンを手にとった。
数日が経った。
体が痛くなった。腰と肩と首筋と後頭部のつけ根と肘とこめかみと指と手首と目と下腹部と膝と体のどこかが痛い。
ロー・テーブルにあぐらはきつい。
机と椅子がほしい。
でもそんなお金はない。
選んでいる時間もない。
過去の自分がうらやましい。
投稿サイトの自分の絵を見返すたび、そう思った。
この線、どうやって引いたんだろう?
ロスト・テクノロジーだ。
昔の絵はオーパーツ。
たぶん必修の授業はいくつかブッチした。
何個かわからない。
もしかしたら全部かもしれないし、下手したら二週連続で欠席しているかも知れない。
日付を数えるという文明的な行為がひどくむずかしかった。
先週までのわたしにはできていたはずなのに。
どうやっていたんだろう?
あ、スマホか。
スマホは床に放置したままだった。
画面は真っ暗。
まあ、電池がもつはずないよね。
枕もとの充電器にさしてまた放置。
数分か数時間か数日か、しばらくするとスマホが鳴りだした。
どうした。
わたしだって鳴きたいわ。
LINEの着信。
三智だ。
「もしもし」
「あ、出た。――うん、星佳、出たよ。だいじょうぶ――」
電波の向こうで、三智は誰かと話しているようだった。
聞こえてくる遠い声は、たぶん羽奈と豊岡だ。
「もしもし。星佳、生きてる?」
「死んでる」
「学校来れる?」
「いつ?」
「あのさ、いま三号館にいるんだけど、」
そこから先は、貝殻から聞こえる波の音のように三智の声は遠くなっていった。
気がつくとわたしはベッドでうつ伏せになっていて、スマホの電池はまた切れていた。
どうせいつかはなくなるのに充電してもしょうがない。
スマホは放っておくことにした。
ベッドにいないときはテーブルのまえにいた。
ペンを握っていない時間は眠っていた。
たぶんトイレやお風呂にも行ったはずだけど、記憶にはない。
不意に昔のことを思い出した。
高校二年の夏休みもこんな感じで過ごしていた。
Discordの綾のサーバに入りっぱなしで、ずっと音声をつないでいた。
発言は一時間に一回するかしないか。
会話は数時間に一回くらい。
朝とか夜とかといった概念がなかったので、頻度がほんとうにそのくらいだったかすらわからない。
あれ、わたしスマホどうしたっけ?
なんか一回通話しなかったっけ?
なんで床に転がってるんだろう?
電池ないし。
ん?
そういえば三智と話したような気が……。
夢?
いや、通話履歴あるな。
現実か。
マジか。
そのあとメッセージ来てるし。
羽奈や豊岡からもだ。
件数がヤバい。
二桁って。
開くの怖いな。
既読つけたら何か返さないとだし。
って、綾からもなんか来てる。
『大学来ないの?』
「何言ってんだコイツ!」
急に意識が戻った。
目が覚めた。
心臓止まるかと思った。
いま何時?
九時。
何曜?
火曜。
いまから行けば二限の必修に出られる。
いま何月何日?
七月?
マジか、六月終わってんじゃん!
え、わたし必修三回サボってない?
ヤバいヤバい行かないと!
慌てて立ちあがったら、膝に力が入らずベッドにぶっ倒れてしまった。
足の筋肉が衰えている。
というか全身が重い。
宇宙から帰ってきたときってこんな感じなのかな。
なんでもいいからとにかく学校!
できる限りのスピードで準備して、家を出て、大学へ。
昼休みが終わるころ、ようやく三号館にたどり着く。
そしてドアを開けたところで思い出した。
そうだった。
綾。
コイツの存在を忘れていた。
意識にのぼっていなかった。
綾はロビーのベンチに腰かけてiPadにアップル・ペンシルを走らせていた。
思わず足が止まる。ロビーには羽奈も、三智も、豊岡もいた。
そしていつもわたしが座っていた場所に綾がいた。
「うわ、マジか!」
と、不意に豊岡が声をあげた。
「急にどうしたの?」
訝しがる三智に、豊岡がスマホの画面を見せる。
「ほら、これ! 春野さん、大賞受賞だって!」
「本当だ。出版社主催の賞って、たぶんすごいんだよね、春野さん」
タブレットから少しだけ顔をあげる綾。
「……そうね。まあ、」
と、そこまで言ったところで、綾はこちらに顔を向けた。
そしてヤツは、にんまりと下卑た笑顔を顔いっぱいに広げた。
「賞の位置づけは、同じ界隈の人のほうが詳しいかな。その昔、見事三次選考まで勝ち進んだ星蝕さん?」
綾の問いかけと視線。
三智が、豊岡が、羽奈が、その場にいた同クラ全員がわたしを見た。
気がつけば、わたしは並木道を走っていた。
息が切れ、道ばたの街路樹に手をつく。
咳。
洟。
涙。
寝不足のせいか、急に走ったせいか、乾いた喉が剥がれるように痛かった。
もう二度と三号館には行きたくない。
行くたびにわたしは逃げている。
前回は羽奈に手を引かれて帰ってきた。
あのときはまだマシだった。
帰宅したあと、服を脱いでシャワーを浴びることができた。
今度はもうムリだった。
帰ってきてそのままベッドに倒れこんだ。
服がしわになるのも、枕やシーツに化粧がつくのも気にしていられなかった。
とにかく体が重かった。
地球が大きくなったのか。
重力が5Gだった。
体温計どこやったっけ?
テーブルのうえの小物入れに……あ、ディスプレイとかペンタブとか置くためにどけたんだった。
そういえば体温全然測ってない。
あれ、そういえば最近来てなくない?
いつ以来?
ここまで間空くの、何年ぶりだろう。
描くのをやめてからはずっと安定してたのに。
まあ、体温計はいいや。
測らなくていい。
どうせ熱あるのわかってるし。
とに、かく、寝ない、と。