起きたらもう夕方だった。

 帰ってシャワーを浴びて寝たのが朝九時のこと。
 それはまあ、こうなる。

 お腹がすいた。
 でも冷蔵庫のなかは空っぽ。
 朝帰りの途上、コンビニやスーパーに寄る気力はなかった。
 買いものには行きたいけど、そろそろ夕食どきでスーパーが込みそう。
 しかたないからもうちょっと夜になってから出かけるか。

 ベッドから出る気になれず、スマホを手にとる。
 昔だったらSNSで二時間でも三時間でもつぶせたけど、絵をやめてからはそうした暇つぶしができなくなった。
 いや、しなくなった。
 天気予報だけ見たらベッドから降りて本でも読もう。

 そう考えながらスマホを見たら、同クラのグループ・トークの通知が出ていた。
 羽奈が投稿したらしい。何かと思い開いてみる。

「うぇ」
 思わず声がでる。

『さっきアップされた絵バズってるね。さすが(絵文字)』

 貼られたリンク。
 覗くサムネイル。
 見えているのが一部であっても、そしてどんなに小さくてもわかる。

 それは地雷。
 綾の絵だ。

 なんで羽奈はこんなものを共有してくるのか。
 わたしが避けていると知っているだろうに。

 プール・バーで豊岡とした話を思い出す。
 豊岡と同じように、羽奈も考えているのかもしれない。
 せっかくの機会なのだから綾と接触をもてと。
 実際クラコンの話を綾にしたのも羽奈だというし。

 羽奈はいい子だ。
 とってもいい子。
 だからそうしたお節介をするのだろう。
 勘弁してよ。

 LINEを閉じる。
 体調が悪くなる。
 内臓がひっくり返る。
 嘔吐感。
 指先が気持ちわるい。
 穢れに触れた気分。
 洗面所で手を洗う。
 顔も洗う。
 それでも気分が晴れない。

 カーテンからのぞく夕方の空の紅。
 わたしが熟睡しているあいだにも、綾は描いていたというのか。
 あてつけか。

 見たのは一瞬だったが、綾の投稿は目に焼きついた。
 そのイラストも。
 付された言葉も。

『天才はどっちだ』

 綾はわたしと同じモチーフを好んで描く。
 お互いを求めているのに、二人そろっては存在できない。
 『共に在りたいが、共に在られない』。

 今回投稿されていたのもそういったテーマの絵だった。
 タイトルとしても、添付するつぶやきとしても、その一文は不自然ではないものだ。

 しかし、わたしには別の捉えかたしかできなかった。

『天才はどっちだ』

 それはわたしに宛てた言葉だった。
 初めて送ってきたメッセージもそうだった。
 アイツはわたしを天才と呼ぶ。

 ベッドから跳ね起き、充電していたiPadからケーブルを引っこ抜く。
 こっちにはペンタブを持ってきていない。
 デスクトップも実家に置いてきた。
 PC代わりのiPadはあるけどイラストのアプリは入れていない。

 昔使っていたアプリをiPadにインストールする。
 タッチ・ペンは持っていないので、指で描くしかない。

 何を描こう?
 ……昔だったらすぐ思いついた。
 というか常に描きたいものがあった。
 生活していると、今度こういうの描きたいなと浮かんできて、そんな思いつきが脳内にたくさん溜めこまれていた。

 いま自分のなかに一切のストックがないという事実に戦慄する。
 自分が空っぽになってしまっているようで……。

 いいや。
 とにかく描こう。
 モチーフなんてなんでもいい。
 いまわたしはとにかく絵を描きたい。

 なんでだろう?
 綾に負けたくない?
 自分がまだ描けるということを証明したい?

 わからない。
 とにかく描きたい。
 描くことをしたい。

 昔使っていた投稿サイトにアクセスし、サイン・インする。
 ユーザIDもパスワードも指が覚えていた。

 『星蝕(ほしばみ)』。
 その文字の並びを見るのは数年ぶりだった。
 それがわたしのペン・ネームだ。
 『けたせいか』のアナグラム『欠けた星』からの連想でつけた。

 どれにするか。
 ……これでいい。
 昔、出版社主催のコンテストに応募した作品。
 綾は二次選考落ち、わたしは三次選考まで進んだ。
 そのときの投稿作を、もう一度描いてみる。
 モチーフもレイアウトもそのままに模写する。

 下書きの線を雑に引きまくる。重ねて少しずつ。

 ん?
 あれ?
 案外よくない?
 意外と腕はなまってない?
 iPadに指という貧弱な作業環境でもけっこう描ける!

「……何これ」

 しかし、そのあとはもうメタメタだった。
 本線一本だけにしようとすると、もうボロボロ。
 下書きの線たちからガチャを引いたらドブだった。

 なんだこのゴミ。
 なめてんの?
 指の骨折れてるの?

 下書きの線はしょせんごまかしだ。
 それらしく見えるだけのハリボテ。
 わたしは自分をごまかしていただけだった。

 こんな粗大ゴミみたいな線画でも、塗りとエフェクトでごまかせば、たぶんそれなりに見えるものにはなる。
 でもそれはデコっただけの産業廃棄物にすぎない。

 ……作業環境のせいか?
 そうではないと内心わかっていても、その可能性にすがってしまう。

 綾はいまどんな作業環境で描いているんだろう?
 高校二年生のときまでは知っている。
 PC周りは実際綾の家で見たし、たしかTwitterでもつぶやいているのを見た。

 もしかしたら最近もつぶやいているかも。
 綾のタイム・ラインはわたしにとって致死性の地雷が散らばる死の荒れ地だ。
 それでも見ないといけない。
 薄目で、アイツの絵が目に止まらないように……。

 高三からいまも使っている表垢ではなく『星蝕』のほうのアカウントに切り替える。
 こちらでないと『アヤハルノ』をフォローしていないから。

 さかのぼっても、なかなかそれらしいツイートは見つからない。
 イラストの投稿。
 日常のツイート。
 アニメの感想。
 他の絵師やクリエイタのリツイート。

 リツイのなかで、とあるつぶやきに目が止まった。
 それは、わたしも知っているTRPGシナリオ・ライタのツイートだった。

 TRPGとはテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームのこと。
 人間同士が役割を演じながら対話で進めるゲームだ。
 古くからある遊びだが、むしろ近年になってから流行を見せている気がする。

 隆盛にはオンライン環境の充実が寄与している。
 Discordなどのおかげで気軽に複数人でリモート通話ができるようになったし、キャラクタ・シートやステータスの管理ツール、ダイスのシミュレータなどWeb上のサービスも増えてきた。
 オフで集まらなくても遊べるのは大きい。
 YoutuberやVTuberの活動と相性がよく、配信が多いのも普及の一因となっている。

 ライターというのは、TRPGで用いるシナリオを書くクリエイタのことだ。
 解くべき謎、冒険する舞台の設定などを用意するのがシナリオ・ライタである。
 彼ら彼女らは、作成したシナリオを無料頒布したり販売したりする。
 そうした際にはイメージ・イラストをつけるのが一般的である。
 小説でいう表紙絵、ゲームでいうパッケージ絵だ。

 わたしも依頼を受けて描いたことがある。
 そのときの依頼主が、いま見ている『玖保ミサ』さんだった。
 ミサさんは『鎮守の森で』や『魔族令嬢』など、日常と隣りあわせのロー・ファンタジーをモチーフとしたシナリオを描く人だ。
 緻密で深遠な世界設定と、硬質なのにノスタルジックな語り口に定評がある。

 そんなミサさんのツイートを、綾はリツイートしていた。

『条件法の魔女。魔女は不朽不滅である。この伝説には証言者が要らない。願いをかなえてもらった人はもうこの世にいない。だから体験者の不在が、すなわち魔女の不在とはならない。魔女の伝説は生き続ける』

 この『条件法の魔女』というのは、ミサさんが作成した新しいシナリオの設定だろうか?

 検索してみると、その『魔女』はTwitterのアカウントに端を発する都市伝説のようだった。
 いわく、『魔女』は命と引き換えに願いをかなえる、いつも桜の枝を持っている、臨死体験の走馬燈を見せる、云々。

 『魔女』のつぶやきはたったひとつ。
 固定ツイートになったそのつぶやきには『あなたの最期の願いをかなえます』とあった。

 わたしなら、なんと願うだろう?

 絵の才能がほしい?
 技術がほしい?
 時間を戻して?
 天才に生まれ変わりたい?
 理想の絵を描けるようになりたい?
 綾と代わりたい?
 綾よりうまくなりたい?

「綾を殺したい?」

 口に出し、思わず笑ってしまう。
 わたしはどんだけ綾のことが好きなんだ。

 そんなわけないだろ。
 いや、そんなわけあるだろ。

「……描くか」

 あえて口に出して言う。

 そして再びイラストのアプリを起動させる。
 外は暗くなっているが、こちとら夕方まで寝ていた身だ。
 夜はまだ長い。