六月には恒例のクラコンが開かれた。

 クラシック・コンサートではない。
 クラス・コンパ。
 要するにクラス飲みだ。

 幹事は豊岡がつとめた。
 入学以来、豊岡が積極的に動いてくれているおかげで、うちのクラスは繋がりが保たれている。
 入学二ヶ月で早くも集まることがなくなったクラスもあるらしい。
 サークルや部活なんかの居場所がある人はいいけれど、わたしみたいな根無し草にその状況はかなりつらい。

「感謝してるぞ、豊岡ー!」

「よくわかんねーけどありがとーっ! ひゅーっ!」

「ヤバい豊岡と肩組んじゃった! 誰かー消毒液持ってないー?」

「待って気田さーん? それふつうに傷つくやつー」

「あんたのこころの傷もアルコール消毒してあげるー!」

「ひゃっはー! しみるー!」

 クラコンには、当然綾は参加しない。
 そんな解放感もあって、わたしのテンションはフル・スロットルだった。
 とちゅうで我にかえり、ああこれ記憶に残ってあとになってからめっちゃ後悔してひとり反省会開くやつだわ、と思いながらもいまさらテンションを元にはもどせず、わたしは風になるまで駆けぬけた。

 二次会は少し落ちついた雰囲気のお店に移動した。
 外を歩いたこともあって早くも冷静に戻っていたわたしに、三智は静かに笑いかけた。

「さっきはごきげんだったね」

「コロ……シテ……」

 反省会はせめて後日ひとりになってから開催させてほしい。
 当日現地開催とかただの拷問だ。

 二次会は朝まで続いた。
 一人また一人と帰っていき、日付が変わるころには十人弱に、夜が明けるころには四人だけが残っていた。

「そろそろ出ますか。俺会計してくるから、先出てて」

「ありがとう。割り勘の計算が大変だったらあとで手伝うよ」

 ひとりレジへ向かおうとする豊岡を、三智がねぎらう。

「サンキュー」
 と、豊岡はホルダーにはさまった伝票の束をひらひら振ってこたえた。

「じゃあ、先に出てよっか」

「ん」

 いつもの薄いピンクのポシェットを肩にかけた羽奈について、わたしも外へ出る。

 六月とはいえ早朝は肌寒い。
 しかし冷たい酸素が心地よい。
 夜から朝までずっといた半個室スペースに比べたら天国だ。

 会計をすませて出てきた豊岡が「行きますか」とつぶやく。

 店をはなれ、あてどなく歩く。
 さっさと帰って寝ればいいのに、なんとなく帰ろうという気になれないでいた。

 きっとみんなそうだった。
 豊岡も、三智も、羽奈も、きっと同じ気持ちだった。

 今日は土曜。
 授業がない休日。
 自由の日。

 わたしたちは繁華街をぶらぶらと歩き、羽奈の「小腹すかない?」というひと言を汐に、駅前のマクドナルドにしけこむことにした。

 朝マックの食欲をそそる匂い。
 ホットコーヒーの湯気。
 気だるい空気。

「前から思ってたけど、みっちゃんって笑いのハードルが低いよね」

「よくいわれるよ。情緒が小学生とか、味覚が小学生とかね」

 羽奈のからみに、ひとりだけオレンジ・ジュースを頼んだ三智がこたえる。

「わたしも前から気になっていたんだけど、もしかして羽奈は浪人生だったりする?」

「あたし? ……あたしが年上に見える?」
 自分を指さす羽奈。

「いや、まったく。ただ、高校時代の先輩に似ている気がして。やっぱり気のせいか」
 首をかしげる三智。

 徹夜明けの朝六時。
 この時間になると、疲れと眠気で理性や社会性がオフになる。
 普段思っていながら言えなかったこと、聞けなかったことがするりと口から出るようになる。

「俺もきいていい? 気田って、やっぱり春野さんと何かあったの?」
 コーヒーを片手に豊岡がそうたずねてくる。

「……まあ、見てればわかるよね。そう、あったんだよ。ケンカっていうのとはちょっとちがうかな。わたしと綾は別の道を選んだ。それだけだよ」

「やっぱ気田も絵描いてた感じ?」

「ちょっとだけね」

「あーね。やっぱそういうことか」

 椅子にもたれ、頭の後ろで手をくむ豊岡。

「だろうとは思ったよ。星佳ちゃん、絵うまいもんね」

 羽奈がうんうんとうなずく。
 心理学入門の実験で描いた絵のことを思い出しているのだろう。

「……春野さんってさ、やっぱ天才だよな」

 いつになく落ちついた口調で豊岡が話しだす。

「自分語りしていい? 俺さ、昔サッカーやってたんだわ。ガキのころは自分が天才だと思ってた。それも中学までだったけどね。ジュニア・ユースからユースにあがったら、外から本物の天才がきちゃったんよ。技術もフィジカルも、最初は俺のほうが上だったんだわ。でも、アイツは覚悟がちがったね。朝から晩まで、つーか寝てる時間もふくめて、全部をサッカーに捧げてた。逃げ道も言い訳も用意しないで、人生全部をぶっこんでた。……そんなヤツにかなうわけないんよ。高校一年までで俺はサッカーをあきらめた。ユース辞めたら暇で暇で、ちょうどいいから勉強しまくった。どの教科も中学一年レベルで止まってたけど、他にやることないから時間だけはやたらとあったわけ。まさか国立大に受かるなんて思わなかったけど」

 豊岡の話をきいていると、痛い。
 耳が、こめかみが、胸が、痛い。
 まるで自分のことのように痛い。

「その彼は、いまどうしてるの?」
 テーブルにひじをついた三智がたずねる。

「プロ契約して、こないだリーグ戦でデビューしてた。笑っちまったよ、ウェブ・メディアで特集記事なんか書かれててさ。とにかくストイック。サッカーしかない生活。これからも成長しつづけるだろう、だってさ。知ってるっつの。……天才ってさ、覚悟なんだよ。俺たち凡人は、人生全部ぶっこめるヤツらにはかなわないわけ」

 豊岡は、皮肉とか、自嘲とか、諦念とか、そういった苦味を口にふくんだ笑みをうかべた。

「豊岡くんは天才になりたいの?」

 三智の質問に、豊岡は「いや」と首をふった。

「なりたくない。サッカーしかないとか、勉強しかないとか、そんなのやだよ。俺、高校時代の記憶ほとんどねーもん。勉強しかしてない。虚無だった。大学ではいろいろ知りたい。いろんな人と関わりたい。ちゃんと遊びたい。記憶を残したい。凡人には凡人の生きかたってのがあるんだよ。諦めた代わりに何も得られなかったら……」

 豊岡はそこで言葉を失い、喉もとに詰まった言葉を流しこむようにコーヒーを飲みほした。

「なんか豊岡くん、意外と大人だね」
 羽奈がつぶやく。

「羽奈っちだってそうだろ。みんなそうだよ。俺たち大学生はさ、もう大人なんだわ。何かを諦めてここにいるわけよ」

 やめろ。
 もうやめてくれ。

 わかる。
 わかってしまう。
 わかってしまうから、もうやめて。

 わたしたちは地元や高校にいろいろなものを置いてきている。
 夢や希望。
 自分が天才である可能性。

 凡人は石橋を叩いてわたる。
 わたしは石橋を叩いてわたらない。

 天才は石橋なんて叩かない。
 向こう岸にわたりたかったら迷わず川に飛びこむ。

 天才とは、覚悟。
 豊岡の言いぶんは正しい。

 ねえ、豊岡。
 もうやめよう?
 サッカーのメディアなんて見るなよ。
 特集記事なんて読むな。
 SNSもやめろ。
 ネットは地雷に満ちている。
 自衛しろ。
 目をそむけろ。

 わかるよ。
 気になるのは、よくわかる。

 天才はまぶしい。
 放つ輝きが強すぎる。
 コンビニの壁で青く光る誘蛾灯みたいなものだ。
 わたしたち凡人は虫けら。
 蚊、蛾、蝿。
 まばゆい光に吸い寄せられて、ばちっと電撃で殺される。

 ダメだよ、豊岡。
 光を見たらおしまいなんだよ。
 そっちに引き寄せられちゃうんだよ。

 わたしたちは目をそらすしかない。
 光が視界に入らないように。
 思い出さないように。
 世界にそんなものはいなかったことにして生きていくしかないんだよ。

 豊岡にはできる。
 そういう生きかたができる。
 逃げられる。

 だからやめればいい。
 見るのをやめればいい。

 いまのわたしにはできていない。
 平穏で平凡なわたしの大学生活に、あの強烈な光が自分から飛びこんでくる限り、目をそらすことすらできない。

「……わたしたちは、子どもだよ」

 不意に、三智がつぶやいた。

「まだこれから選ばなくちゃいけないことがたくさんある。いまは教養課程だけど、二年生からは専門を選ぶことになる。今年度だって冬学期には選択必修が増えてくる。いつかは大学のあとの進路も選ばないといけない」

「……就活、かあ」
 ため息をつく豊岡。

「わたしの高校では二年生になるとき文系か理系かを選んだ。みんなが同じテストを受けたのは高校一年の学年末テストまでだった。……人は、いつ自分の人生が終わるかなんてわからない。選ぶまえに終わりを迎えてしまう人もいる」

 三智は、おだやかな笑顔をわたしたちそれぞれに向けた。

「たしかにわたしたちは何かを諦めてきた。選択肢は減りつづけている。それでもまだわたしちは選べる。これからもね。わたしたちは幸せだよ」

 ここにいない誰かにその言葉を捧げるように、三智は窓の外の空を見あげて言った。