大学というのは誰でも入れるものだ。
名前を書けば受かるという意味ではない。
キャンパスはいつでも開放されていて、近所の人が散歩していたり、近くのオフィスのサラリーマンが学食に来ていたりする。
女子大ではもっとセキュリティも厳しいらしいけれど、共学の国立大学ともなれば、キャンパスは開かれた公園みたいなものなのだ。
夕方や土日、夏休みや冬休みには公開講座もある。
大学に籍がなくとも、申しこめば誰でも講義を受けられる。
開かれた大学、生涯学習、セカンド・アカデミー。
大学は、大学生のためだけにある施設ではない。
これは実際入ってみてから知った。
綾は社会人向けの夜間公開講座をとっているという。
なんでも美術史を学ぼうと思っているのだとか。
嘘つけ。
「講座は夕方からですが、せっかくだから昼間の大学も見てみたくて。あたし、高卒で仕事始めちゃったので、大学には行っていないんです。だから取材ですね」
あんたその気持ちわるい敬語どこで身につけたの。
そんなキャラじゃないでしょ。
黒いジャージにピンクのプリーツ・スカートという、かわいいけど雑なファッションの綾は、インタビュー記事のようなよそ行きの笑顔をうかべている。
「すげー、取材ってさすがプロっすね!」
「先日、羽奈にイラストを見せてもらいました。アヤハルノさん、すてきな絵を描きますね」
三号館ロビーのベンチで、豊岡と三智が綾をはさんで会話をしている。
なんというか大人の会話だ。
ちなみにアヤハルノというのは綾のペン・ネームである。
ハナエモリかイデミスギノにでもなったつもりか。
「……」
さっきからわたしのとなりで羽奈はずっとスマホをいじっている。
「いいの? 話さなくて」
小声でたずねる。
「あんた、アヤハルノの絵が好きって言ってたでしょ」
「……うん。なんかちょっと、話しにくくて」
小さな唇をとがらせる羽奈は、なんかもう小学生みたいだった。
急に憧れのアイドルが目のまえに現れて、もじもじしている小学生。
かわいすぎるなこのエセ幼女。
普段は人見知りなんて全然しないのに。
ここで羽奈と綾の間をとりもつとかできればいいんだけど。
ごめんね。
残念ながらわたしはそれほど大人じゃない。
「……そろそろ三限の教室に行かないと。遅れると前のほうの席しかなくなっちゃう」
わたしにできるのは、こうして綾からはなれることくらいだ。
それから、綾の絵を見る機会がどんどん増えていった。
掲示板に貼られた学生課のポスターにイラストが使われていた。
学生新聞に載っていた。
クラスのグループ・トークでイラストが共有された。
綾の描いたスタンプを淳が使いはじめると、他の連中も同じスタンプを買った。
大学で綾自身の姿を見ることも増えた。
広場に座りこんでタブレットで絵を描いていたり。
並木道の舗装や講堂の壁の模様をスマホで撮影していたり。
三号館ロビーでコーヒーを飲みながら三智や豊岡たち同クラの連中とおしゃべりしていたり。
わたし自身は、綾に声をかけたりしなかった。
向こうも話しかけてはこなかった。
綾が何をしにきたのかも聞かなかった。
わざわざ聞かずともわかる。
嫌がらせに決まっている。
いまのおまえとはこれだけ差が開いた。
そう思い知らせるため、自分の描いた絵をわたしに見せつけている。
自分を意識させるため、わたしの居場所を奪うような真似までしてみせている。
あんた、暇なの?
そうした言葉が、何度口から飛びだしそうになったことか。
無視を続けるわたし、そわそわと話しかけない羽奈。
そんなわたしたちをよそに、三智と豊岡はどんどん綾と親しくなっていった。
「春野さんさ、絵に描くモチーフとか構図ってどう決めてんの?」
「決めてないよ。絵を描くのって演技だから。カメラって具体性の暴力じゃん。まなざしはイデアを天上から引きずりおろしちゃう。役者は観光地のキャストでしかなくて、できるのは再現性のない再演だけ。必然じゃなくて蓋然なんだよ。ペンが決めてるんじゃない。決められてるの」
お昼どきをすぎた食堂で、綾はタブレットから顔をあげず豊岡の質問にこたえている。
……こたえて、いるか?
豊岡は「お、おう」と面食らっている。
絵を描いているときの綾は神さまだ。
人間にはわからない言葉でしゃべる。
タブレットを置き、紙コップを手にとった綾に、今度は三智が話しかける。
「春野さんって美大に入ろうとは思わなかったの?」
「うん。あたしが既に考えたことを講義されても時間のムダだし、あたしがまだ考えてないことを教えられるのもネタバレみたいでうざいから。ま、どんなこと言ってるかくらいは聞いてあげてもいいかな、って感じ」
「それで公開講座を受けてるんだね。でも、なんでわざわざここの大学に? 東京や関西圏のほうが大学も多いのに。やっぱり星佳がいるから?」
三智がたずねると、綾は手を動かしながら口もとだけで笑った。
「そうね」
同じテーブルを囲みながら、わたしと羽奈は少しはなれた席に座っていた。
楽しそうに話す三人を見ながら、小声をかわす。
「……ねえ、星佳ちゃん。嫌だったらこたえなくていいんだけど」
「うん」
「春野さんと何か、あったんだよね?」
「うん」
「やっぱり、話すのはキツい感じ?」
「うん」
「そっか」
「羽奈」
「うん?」
「ありがと」
「うん」
名前を書けば受かるという意味ではない。
キャンパスはいつでも開放されていて、近所の人が散歩していたり、近くのオフィスのサラリーマンが学食に来ていたりする。
女子大ではもっとセキュリティも厳しいらしいけれど、共学の国立大学ともなれば、キャンパスは開かれた公園みたいなものなのだ。
夕方や土日、夏休みや冬休みには公開講座もある。
大学に籍がなくとも、申しこめば誰でも講義を受けられる。
開かれた大学、生涯学習、セカンド・アカデミー。
大学は、大学生のためだけにある施設ではない。
これは実際入ってみてから知った。
綾は社会人向けの夜間公開講座をとっているという。
なんでも美術史を学ぼうと思っているのだとか。
嘘つけ。
「講座は夕方からですが、せっかくだから昼間の大学も見てみたくて。あたし、高卒で仕事始めちゃったので、大学には行っていないんです。だから取材ですね」
あんたその気持ちわるい敬語どこで身につけたの。
そんなキャラじゃないでしょ。
黒いジャージにピンクのプリーツ・スカートという、かわいいけど雑なファッションの綾は、インタビュー記事のようなよそ行きの笑顔をうかべている。
「すげー、取材ってさすがプロっすね!」
「先日、羽奈にイラストを見せてもらいました。アヤハルノさん、すてきな絵を描きますね」
三号館ロビーのベンチで、豊岡と三智が綾をはさんで会話をしている。
なんというか大人の会話だ。
ちなみにアヤハルノというのは綾のペン・ネームである。
ハナエモリかイデミスギノにでもなったつもりか。
「……」
さっきからわたしのとなりで羽奈はずっとスマホをいじっている。
「いいの? 話さなくて」
小声でたずねる。
「あんた、アヤハルノの絵が好きって言ってたでしょ」
「……うん。なんかちょっと、話しにくくて」
小さな唇をとがらせる羽奈は、なんかもう小学生みたいだった。
急に憧れのアイドルが目のまえに現れて、もじもじしている小学生。
かわいすぎるなこのエセ幼女。
普段は人見知りなんて全然しないのに。
ここで羽奈と綾の間をとりもつとかできればいいんだけど。
ごめんね。
残念ながらわたしはそれほど大人じゃない。
「……そろそろ三限の教室に行かないと。遅れると前のほうの席しかなくなっちゃう」
わたしにできるのは、こうして綾からはなれることくらいだ。
それから、綾の絵を見る機会がどんどん増えていった。
掲示板に貼られた学生課のポスターにイラストが使われていた。
学生新聞に載っていた。
クラスのグループ・トークでイラストが共有された。
綾の描いたスタンプを淳が使いはじめると、他の連中も同じスタンプを買った。
大学で綾自身の姿を見ることも増えた。
広場に座りこんでタブレットで絵を描いていたり。
並木道の舗装や講堂の壁の模様をスマホで撮影していたり。
三号館ロビーでコーヒーを飲みながら三智や豊岡たち同クラの連中とおしゃべりしていたり。
わたし自身は、綾に声をかけたりしなかった。
向こうも話しかけてはこなかった。
綾が何をしにきたのかも聞かなかった。
わざわざ聞かずともわかる。
嫌がらせに決まっている。
いまのおまえとはこれだけ差が開いた。
そう思い知らせるため、自分の描いた絵をわたしに見せつけている。
自分を意識させるため、わたしの居場所を奪うような真似までしてみせている。
あんた、暇なの?
そうした言葉が、何度口から飛びだしそうになったことか。
無視を続けるわたし、そわそわと話しかけない羽奈。
そんなわたしたちをよそに、三智と豊岡はどんどん綾と親しくなっていった。
「春野さんさ、絵に描くモチーフとか構図ってどう決めてんの?」
「決めてないよ。絵を描くのって演技だから。カメラって具体性の暴力じゃん。まなざしはイデアを天上から引きずりおろしちゃう。役者は観光地のキャストでしかなくて、できるのは再現性のない再演だけ。必然じゃなくて蓋然なんだよ。ペンが決めてるんじゃない。決められてるの」
お昼どきをすぎた食堂で、綾はタブレットから顔をあげず豊岡の質問にこたえている。
……こたえて、いるか?
豊岡は「お、おう」と面食らっている。
絵を描いているときの綾は神さまだ。
人間にはわからない言葉でしゃべる。
タブレットを置き、紙コップを手にとった綾に、今度は三智が話しかける。
「春野さんって美大に入ろうとは思わなかったの?」
「うん。あたしが既に考えたことを講義されても時間のムダだし、あたしがまだ考えてないことを教えられるのもネタバレみたいでうざいから。ま、どんなこと言ってるかくらいは聞いてあげてもいいかな、って感じ」
「それで公開講座を受けてるんだね。でも、なんでわざわざここの大学に? 東京や関西圏のほうが大学も多いのに。やっぱり星佳がいるから?」
三智がたずねると、綾は手を動かしながら口もとだけで笑った。
「そうね」
同じテーブルを囲みながら、わたしと羽奈は少しはなれた席に座っていた。
楽しそうに話す三人を見ながら、小声をかわす。
「……ねえ、星佳ちゃん。嫌だったらこたえなくていいんだけど」
「うん」
「春野さんと何か、あったんだよね?」
「うん」
「やっぱり、話すのはキツい感じ?」
「うん」
「そっか」
「羽奈」
「うん?」
「ありがと」
「うん」