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「そこ、いいかな」

 声をかけると、彼女はこちらへと振りかえった。

 黒くまっすぐのばした髪を高い位置でくくり、ふちなしのメガネをかけた佐久間三智は、わたくしの顔を見てかすかに首をかしげた。
 声をかけてきた相手が見知らぬ顔であれば、そうした反応にもなろう。

「ごめんなさい。じゃまだった?」
 と、彼女は一歩横に動いた。

 その口ぶりは、見知らぬわたくしを同学年と判断したがゆえのものだろう。
 職員室の外の掲示板、一年生の学年末テストの順位表。
 佐久間三智はその前に立っていた。
 彼女をどかせるとなれば、相手は同じ一年生である。
 佐久間三智はそう推測したらしい。

「じゃまではないよ。掲示は教室前にもされている。順位もキミの横から見える」

 そう返事をして、彼女の横に立つ。

「ごめんなさいはこちらこそだ。わたくしはただキミと話がしたくて声をかけたのだよ、佐久間三智さん」

 彼女は「わたしと?」と訝しげな顔をした。

「夏焼宏樹くんは、知っているね?」

 佐久間三智は「ええ」とこたえ、掲示板に視線を向けた。

 わたくしも掲示板を見る。
 貼りだされた大きな模造紙の一番右端にはこう書かれている。

『学年末考査 一年生』

 そして右から順に成績上位者の名が記されている。

『一位 佐久間 三智
 二位 ……』

 そこに彼の名前はない。

「夏焼宏樹くんは、かわいい後輩だった。勢いだけの無鉄砲で、口の減らない男だったが、悪い子ではなかった」

 同学年だと思われるのは不都合だ。
 どこの組の者かと誰何されたとき、適当な名前を出しにくい。
 だから上級生だというふりをしておく。

「先輩でしたか。失礼しました」

 こころここにあらずといった様子で、佐久間三智は前を見たまま一揖した。

「……順位表の右端を見るということは、夏焼くんの学力はご存知ですね。本当ならここには彼の名前が書かれていました」

 と、彼女は『一位 佐久間 三智』と書かれた名前に手をやった。

「先生を問いつめて聞きだしました。合計点は彼のほうが上だったと。ただ、順位表に名前があると、見た生徒が動揺するかもしれないから、と配慮したそうです」

「彼とはライバルだったのだね」

「たぶん、そうです。彼はわたしを意識して、張りあう気持ちを持っていたようです。でも、本当はわたしのほうがずっと強く彼を意識していた。いまとなっては、そんな気がしています」

「それは、どうして?」

「夏焼くんがいつ事故にあったのかは、ご存知ですよね」

 うつむく佐久間三智に、「ああ」とこたえる。

「わたし、少し前から朝は毎日ランニングをしているんです。夏焼くんが習慣にしていると人伝にききまして」

「よいこころがけだ」

「その日もわたしは朝から走っていました。そうしたら、いきなり涙がこぼれてきたんです。ひとしずくだけど、涙が。目にゴミがはいったわけでもないのに」

「もしかして、その時間というのが」

「はい。あとになって知りました。ちょうどその時間、夏焼くんが……」

 佐久間三智は地面を見て、手のひらを掲示板のガラス戸においた。

「幼いころから勉強が好きでした。わたしほど自分の全部を勉強に注ぎこんだ人間は他にいないと思っていました。でもいたんです。同じ中学に、夏焼くんがいました。彼とはいつも掲示板のうえで数字というツノを突きあわせていました。圧力は、接する面積がせまいほど強くなります。針の先のような一点のみで彼と接するのが、とても楽しかった。劇的で、詩的で、美して、清くて、潔いと思っていました」

 ガラス戸が、がたんと不穏な音をたてる。

「でも、もっと話しておけばよかった」

 佐久間三智の手のひらの周りがくもる。
 そこには熱がある。

「佐久間三智さん。これはわたくしの持論だがね、虫の報せというものは存在するよ。縁ある人がいつの間にかこころの裡に住まいし変事を報せるというのは、事実あることなんだ」

「こころの、裡に……」

 佐久間三智は、ガラス戸からはなした手を、そっと胸にあてた。

「感情の向け先が見つからないときには、こころの裡を探してごらん。きっとそこにいるだろう」

 彼女は目を何度かしばたたかせたあと、強くうなずいた。

「……はい。探してみます」