屋上へは外階段からあがることができる。
 そうと知ってはいたけれど、実際行くのは初めてだった。

 だから鉄柵が屋上への道をふさいでいるというのは初めて知った。
 地上四階の高さで、階段の手摺にのぼり、外へ身を乗りだして鉄柵を避けるなんてスタント・アクションをするはめになるなんて、思いもしなかった。

 怪盗さんは手に持っていた桜の枝をベルトにさし、するりと軽々鉄柵を避けてみせた。

「下を見るな。危うくなればすぐつかむから不安は忘れろ。やることは路上で電信柱をよけるのと同じだ。一気に思いっきりこい」

 と、先にお手本を見せた怪盗さんにつづいて、俺も鉄柵をなんとか突破した。

 屋上は広かった。
 普段は意識していなかったけれど、学校というのはけっこう大きな建物みたいだ。

 怪盗さんは屋上に立つ塔屋へと歩いていった。
 塔屋は二メートル四方くらいの大きさで、鉄の扉がついていた。

「なるほど。普通こんなところに生徒は来ませんもんね」

「ん? それはそうだろうが……。何がいいたい?」

「その塔屋の扉から侵入するんじゃないんすか? 人がこないところだから施錠されてないのかなって」

「いや、鍵がかかっているか否かは知らぬ。塔屋のなかは機械室で、下に降りる階段などはない」

「じゃあ、どうするんです?」

「準備をするから少し待て」
 と、怪盗さんはどこからともなくロープを取りだした。

 その白いロープを見た瞬間、嫌な予感がした。

 怪盗さんは塔屋の周囲にロープを垂らして輪っかにし、何やら複雑な結びかたでロープをくくると、ぎゅぎゅっと引っぱって強度をたしかめた。

「よし」

「よし、じゃないっすよ! 壁から降りる気まんまんじゃないっすか!」

「案ずるな。四階まで少し降りるだけだ」

 怪盗さんはそう言って、どこからともなく大量の器具を取りだした。

「裏山のときみたく言ってくださいよ、この高さなら死なないって!」

「わたくしは嘘をつかない」

「ご立派! というか事前に一階の窓とかに仕掛けくらいしておいてくださいよ」

「そうだな。時間があればそれもできただろう。キミが今日の昼からやり直したりせず、せめて昨日からにしてくれていればな」

 事前に説明は受けていた。
 走馬燈では三ヶ月分までの夢幻を見ることできると。
 しかし俺は一日だけやり直すことを望んだ。

「だって、勝負まで何日も待つのがもどかしいじゃないっすか」

「よかったな。いますぐ命がけの勝負ができるぞ」

 戦闘機のパイロットが身につけるようなごてごてしたベルト。
 たぶん登山で使うような太いロープ。
 ぐねっとひしゃげた金属の輪っか。
 ぶ厚い革の手袋。

 名前も知らない、用途もわからない、安全性など見当もつかない道具たちがセッティングされていく。
 怪盗さんは俺にヘルメットをかぶせ、ベルトを巻きつけた。

「よし」

「なんで俺テストのためにこんなことしてるんでしょうね」

「いまから懸垂降下のやり方を教える。ちゃんと聞いておきなさい」

「俺のグチもちゃんと聞いてほしいです」

 ハーネス。
 ザイル。
 カラビナ。
 フリクションヒッチ。
 ディセンダ。

 なんとなくドイツの香りがする単語が舞いおどった。
 正直、説明されただけではちんぷんかんぷんだったけれど、実際にザイル三本を組みあわせてあれやこれや操作してみると、なるほど、これはちゃんと手順をまもれば安全だし、案外楽しいものだと思えた。

「ではまいろう。まずはキミからだ」

「どうして! 先にお手本見せてくださいよ! お手本! おーてーほーん!」

「わたくしが先に降りてしまうと上から支援ができぬでな。指示をだすし、ザイルの状態も見ている。安心していきなさい」

 背中をぐいぐい押され、屋上の端に立つ。
 上はもちろん、真横も、そして眼下まで夜空が広がっている。

「裏山のときとはちがう。今度は本当に命がけだ。急かしたりしないから、こころの準備ができたら言いなさい」

 おふざけ無しのその口ぶりから、危険も、いまからやることも、すべてが本当なのだと思い知る。

 落ちたら死ぬ。
 その一念が脳を支配する。

 ……ん?
 考えてみれば、大したことないのでは?

 だって俺、もう死んでるし。

 そうだよ。
 いまさら心配したってしょうがない。

「どうせ最期だ! やってやる!」

「勇敢なことだ」

 怪盗さんは、笑って俺の肩をぽんぽんとたたいた。