今夜は月が明るい。
 でもその光も、森のなかまでは届かない。

 お祖父ちゃんの家の裏手には鎮守の森がある。
 というより、鎮守の森の裏に家があるというほうがたぶん正しい。
 先にあったのは神社のほうだろう。

 神社への参道は家から見て反対側にある。
 そこまで回りこんでいると時間がかかるので、まっすぐ森へつっこむ道を選ぶ。
 もちろん舗装なんてされていない。
 言われなければ道と気づかないような草むらの切れ目を進む。
 まりかさんが迷わず道なりに進めていればいいんだけど。

 二、三分で草むらが開け、神社の境内に出た。
 本殿の裏手から前のほうへ回りこむと……よかった、まりかさんはそこにいた。
 賽銭箱の向こう、拝殿の階段に、まりかさんは座っていた。
 ひざを抱えてうずくまっている。

「……急にいなくならないでよ」

 まりかさんは顔をあげなかったが、「だって」とこたえてくれた。

「だって魔族は誇り高いから、ナキガラをノニサラサナイんでしょ」

 思わず笑ってしまいそうになった。
 そんな場合じゃないのに。

 まりかさんは、僕がでっちあげた設定を覚えてくれていた。
 それが嬉しくて、でもやっぱり笑えなくて。

 だってその言葉は、十五分先の未来に起こることを示していて。

「……さっきはごめん」

 まりかさんの隣に腰をおろす。

「あのあと魔女に会ったよ。いろいろ聞いた。まりかさんの願いを、そんなこととか言って、ごめん」

「いいよ。くだらないのは本当だから」

 まりかさんが顔をあげる。
 メイクをしていない無防備な目もとが、少し赤くなっていた。

「魔女が言ってたよ。まりかさんは、時計の針を自ら止めたって」

「うん。……どこか行きたいな、空を飛べないかなって思って試してみたんだけど、そのときはまだ羽がなかったから」

 ふと思い出す。
 七階建てのマンション。
 学校が見える、何もない屋上。
 まりかさんが魔族の力を見せてくれたあの場所を、思い出す。

「……あたしがさ、ママとパパのこと、うらやましいって言ったら変だと思う?」

「ううん。ちょっとわかるよ。まりかさんのご両親は、お互いのことをちゃんと考えてるよね。ケンカって相手がいないとできないから。……たぶんケンカができなかったから、うちの両親は別れたんじゃないかなって、いまは思う」

「うちのパパとママは、どこまでいっても夫婦なんだよね。夫婦って二人じゃん。二人で成り立ってて、浮気してるのもヤキモチやいてほしいからで、お互いしか見てなくて、そこに他の人は入るすきがないっていうか……何言いたいのかわかんなくなっちゃった」

 まりかさんは、えへへと笑いながら立ちあがった。参道を歩くまりかさんについていく。

「今日、めっちゃ月きれいだね」

 手をかざして空を見あげるまりかさん。

 たしかに今日の月はきれいで……まぶしすぎた。

 こんな暗い田舎の夜だ。
 もっと星が見えてもいいはずなのに。
 月が明るすぎて、小さな星の光は塗りつぶされている。

 まるで僕たちのようだ。

 教室の真ん中で笑う同級生。
 外で遊んでいた淳くんとその友人。
 廃墟で楽しそうに写真をとる人たち。
 家族をかえりみず新しい恋を始めた僕の元・父親。
 いつまでもラブコメを続けているまりかさんのご両親。

 世界の中心は眩しすぎて、僕たちみたいな小さな光は、あってもなくても誰も気づかない。

「世界ってきれいだね。佳くんの言ってたこと、いまならあたしにもわかるよ。どっちかが消えなくちゃいけないなら、そりゃもう決まってるよね」

『僕と世界、どちらかが消えない限り相互不理解は続く。だから、迷うことなんてないはずなのに』

 世界はきれいだから、どちらかが消えるしかないのであれば、自分が消えるほうがいい。

 まりかさんは、僕をわかってくれている。
 理解してくれている。
 それはとても喜ばしいことだ。

 僕は、僕たちはいつも求めている。
 理解を求めている。
 共感を求めている。

 もちろんどちらをより求めるかは人それぞれだ。
 僕が『いいね』とか『わかる』とかいうのは、理解できるということだ。
 まりかさんがそういうときは、共感できるということを意味している。

 発音が同じだけの異邦の言葉のように、きっと意味がちがっている。
 でも根っこにあるものはきっと同じだ。
 僕は、僕たちはいつも求めている。
 認められることを求めている。
 誰かに気づいてほしいと、ただそれだけを求めている。

「まりかさん。僕にはわからない」

 僕が首を振ると、まりかさんは「なんで!」と目を見開いた。

「こないだ言ってたじゃん! 世界とわかり合えないなら自分が消えるほうがいいって!」

「言ったね。でもあのときとは考えが変わったんだ」

「ひどい! 勝手に変えないでよ!」

 まりかさんは地団駄を踏んだあと、すんっと動きを止め、「なんで」と今度は静かにつぶやき、天を仰いだ。

 月を見あげる彼女の顔は穏やかだった。
 何もかもを諦めたように、何らの表情もうかべず、きっと現実でも今日の五分後、彼女はこんな表情で月を見あげ、それから足を虚空に踏み出して。

「……まりかさん。消えたほうがいいだなんて、いまの僕は理解できないし、共感できない」

 大きく息を吸って、吐き、僕は彼女の手をつかんだ。

「僕はまりかさんがここにいるって、知ってるよ」

 握った彼女の手は、熱かった。

「まりかさんはここにいる。ここにいていい」

 小さくて、細くて、折れそうで、でも握るとしっかりそこにある、まりかさんの手。

 わかる必要なんてない。
 理解できなくていい。
 共感できなくていい。
 ただ、認めること。

「ここにいてくれればいい」

 君がいる。
 僕が知っている。

 僕がいる。
 君が知っている。

「ここに、いてほしい」

 そして願うこと。
 それだけでいい。

「……佳くん」

 手に、感触がかえってくる。

「ここにいてくれて、ありがとう」

 まりかさんが手を握りかえしてくる。

 僕たちにはそれぞれ二本の手があって。
 片手はお互いをたしかめるために。
 もういっぽうの手は頬をぬぐうためにあった。



 風で樹々がざわめく。
 頬が乾いていく。

 残ったのは、あと一分。

「そういえば、どうして魔族になろうなんて思ったの?」

「だって悪魔っ子ってかわいいじゃん。佳くんだって好きでしょ。前に言ってたじゃん」

「え? そんなこと言ったかな」

「言ってたって! 自分のツイート忘れないでよ」

 空いたほうの手で、短パンからスマホを取りだすまりかさん。

『僕はひととちがうのに、どうして見た目はひとなのだろう』

『見た目がちがえばわかるのに。ひととはちがうとわかるのに』

『ツノがのびて、尻尾があって、羽がはえていれば、人とはちがうとわかるのに』

「ほら!」

「この人やっぱりわかってなかった!」

「え、これ悪魔っ子になりたいって意味じゃないの?」

「僕たち、理解も共感もできなかったね」

「最期くらい嘘でも『いいね』って言ってよ!」

 まりかさんがつないだ手をぶんぶんと振る。

「よくない。わからない」

「なんで!」

 と、そのとき。

 空から何かが舞ってきた。
 広げた手にひらりと舞い落ちたのは、桜の花びらだった。

「わからないけど、でも、まりかさんがいたことは忘れない」

 花びらの向こうでまりかさんが笑う。

「それ、いいね!」