開けられた襖から廊下に出る。
いない。
外に行ったのか。
玄関を見る。
やっぱり、まりかさんのバレエ・シューズがない。
急いで部屋に戻り、スマホを拾う。
まりかさんに通話をかける。
出ない。
「くそ」
小さく毒づく。
つんのめりながらスニーカーを履き、家を出る。
外は本当の暗闇だった。
はるか遠くには灯かりも見えるし、空は晴れて月も明るいけれど、それらの光に闇をはらうだけの力はない。
あたりを見回す。
近くに光は見つからなかい。
まりかさんがスマホを使ってくれていれば、すぐ見つけられたのに。
スマホで足もとを照らしてみるが、そうすると今度は足もと以外がまるで見えない。
暗闇に目を慣らしたほうがよさそうだ。
灯かりを消して歩きだす。
とりあえず庭に出てみるが、まりかさんはいなかった。
こんな暗いなかどこまで行ったんだろう。
ひょっとして、魔族は夜目もきくのか? ちゃんと聞いておけばよかった。
そうだ。
ちゃんと聞いて、ちゃんと話していれば、こんなことには。
なんであんな言いかたをしてしまったのか。
それこそまりかさんにとっては命と引き換えにするだけの価値がある願いだっていうのに。
そして気づく。
まりかさんを見つけるための手段はここにある。
僕の手もとに。
スマホの向こうに。
『条件法の魔女』のアカウントを開き、DMを送る。
『探している人がいます。見つけさせてください』
送信してから、ふと我にかえる。
たしかに魔女は本物かもしれない。
でも、いますぐに願いをかなえてくれる保証なんてない。
こんな夜中に、こんな片田舎で、すぐに願いをかなえてくれるはずが。
と、目の前を白いものが横ぎった。
ひらひらと舞う、小さな白いもの。
それは桜の花びらのようだった。
じゃり、と足音。
スマホから顔をあげる。
いつの間にか、人が立っていた。
つい一瞬前まで、そこには誰もいなかったのに。
月灯かりが照らしたのは、桜のように淡くかがやく灰色の髪。
身にまとっているのはもこもこした和服。
どこかで見たことがある。
教科書。
マンガ。
ゲーム。
歴史。
平安時代とかの貴族。
いや、実物もどこかで見た。
神社か。
神職の人が着ていた。
なんだっけ。
水干?
狩衣?
その人は、手に花の咲いた枝を持っていた。
前に見たツイートを思い出す。
『魔女は銀髪でいつも桜の枝を持っているらしいね。花が散るとき依頼人も死ぬんだとか』
Twitterなんて嘘とネタとデタラメだらけだと思っていた。
でもいま目の前に、書かれていたとおりの光景が広がっている。
その言が正しいとすれば、いま目のまえにいるこの人は魔女で、手に持っているのは桜。
そして桜の花が示しているのは、まりかさんの……。
「キミの願いはかなえられぬものだ」
その人は、魔女はそう言った。
「どうすればかなえてもらえますか?」
設定も、背景も、理由も、条件も、全部どうでもいい。
ただ願いをかなえてさえくれれば、他はどうでもいい。
「命と引き換えなんですよね? だったら!」
魔女は桜の枝を口もとへやり、ふうと息をついた。
「そは風説にすぎぬ。流布されるなかでついた尾ひれである。わたくしは命を奪うことはしない」
「じゃあ、どうすれば……?」
「そも前提から違えている。わたくしには、生者の願いをかなえることはできない。キミは、これを知っているか」
と、魔女が手を掲げると、手のひらのうえ、宙空にぼんやり光る提灯が現れた。
いや、提灯とは微妙にちがう。
木組みの直方体。
側面に張られた白紙のスクリーンに、ちらちらと舞う花びらの影が映しだされている。
影は回っている。
くるくる、くるくると回っている。
「……走馬燈」
前に科学館でゾートロープを見たとき、まりかさんはつぶやいていた。
走馬燈みたい、と。
僕はそのときまで走馬燈というものを知らなかった。
だから調べた。
走馬燈というのは灯籠の一種である。
中心に立てたろうそくの光で、外側の紙に影絵を映すものだ。
紙とろうそくの間に切り絵などをつるし、ろうそくの上昇気流で風車を回して切り絵を動かす仕組みになっている。
そして、走馬燈という言葉には、別の意味もある。
「そういうこと、なんですか?」
わかってしまった。
「キミは賢い」
走馬燈とは、死に瀕した人が見る過去の情景のことをもさす。
死ぬ間際、人は、過去に経験したあれやこれやの情景を次々に思い出すという。
連続写真のように。
つぎはぎした動画のように。
走馬燈のように。
目前に迫る死を避けるための手段を探すため、過去の知識を手当たりしだいに思い出している、などとも言われている。
「わたくしにできるのは、走馬燈に影を映すことのみ」
「じゃあ、まりかさんは、もう……」
魔女は命を奪わない。
生者の願いをかなえることはできない。
かなえるのは最期の願い。
死にゆく者が走馬燈で見たいものを、用意する。
「わたくしは、花散らす者を安らげることを務としている。逝く前に、せめて夢のなかで願いをかなえられるように。……彼女はわたくしに願った。『もしあたしが魔族の令嬢だったなら』と。キミも中学生であるならば、英語の授業で習ったであろう。仮定法は反実仮想なのだ」
「いま僕が見ているこの世界は、まりかさんの見ている走馬燈のなか、ということですか?」
うなずく魔女。
「然様。仮定のうえに成りたつ架空の世界だ。わたくしはいま麻布まりかの願いをかなえている。重ねて、キミの願いは応えることはできない。それにだ、キミは彼女に会うてなんとする?」
魔女は、くるくると回る走馬燈を見つめながらそうたずねてきた。
「責める? 理由を問う? 理解する? 共感する? それとも世界を滅ぼすのをやめさせる? 何を驚く。まこと、麻布まりかには世界を滅ぼす力がある。わたくしが与えた。彼女は反実仮想であるこの世界を滅ぼすことができる。最期の夢を見るのを、途中でやめることができる」
僕は。
僕は……どうする?
「いずれにしろ彼女に残されている時間は少ない。十九分と五十二秒のあと、走馬燈は動きを止める。麻布まりかは時計の針を自ら止めた。走馬燈に未来は映らない」
走馬燈は、死に瀕した者が見るもの。
走馬燈が止まるということは。
そして、時計の針を自ら止めたということは。
「つまり現実では今日の二十分後に、まりかさんは……」
「キミは本当に賢い」
そんなことはない。
絶対にない。
僕は賢くなんかない。
だっていま、どうしたらいいかわからない。
まりかさんのために何ができるのか、まるでわからない。
でも。
「それでも、まりかさんに伝えたいことがあります」
魔女は無言のまま目を閉じた。
「先にも申したが、わたくしの務は花散らす者に夢を見せること。生者の願いをかなえることはできない」
僕に背を向け、歩きだす魔女。
「待ってください。待って! 僕が死ねばいいんですよね? 死者の願いをかなえてくれるというなら、いますぐ死ねば!」
僕が追いかけようと一歩踏みだすと、彼女は手に持った桜の枝を横に向けた。
「これはただのひとり言だ。先刻、あちらの森へ駆けていく人影を見た」
その枝は、鎮守の森をさしていた。
「……っ。ありがとうございます!」
それだけ告げて、僕は走りだした。
月灯かりの照らす夜のなか、ひときわ暗く浮かぶ森を目ざして。
いない。
外に行ったのか。
玄関を見る。
やっぱり、まりかさんのバレエ・シューズがない。
急いで部屋に戻り、スマホを拾う。
まりかさんに通話をかける。
出ない。
「くそ」
小さく毒づく。
つんのめりながらスニーカーを履き、家を出る。
外は本当の暗闇だった。
はるか遠くには灯かりも見えるし、空は晴れて月も明るいけれど、それらの光に闇をはらうだけの力はない。
あたりを見回す。
近くに光は見つからなかい。
まりかさんがスマホを使ってくれていれば、すぐ見つけられたのに。
スマホで足もとを照らしてみるが、そうすると今度は足もと以外がまるで見えない。
暗闇に目を慣らしたほうがよさそうだ。
灯かりを消して歩きだす。
とりあえず庭に出てみるが、まりかさんはいなかった。
こんな暗いなかどこまで行ったんだろう。
ひょっとして、魔族は夜目もきくのか? ちゃんと聞いておけばよかった。
そうだ。
ちゃんと聞いて、ちゃんと話していれば、こんなことには。
なんであんな言いかたをしてしまったのか。
それこそまりかさんにとっては命と引き換えにするだけの価値がある願いだっていうのに。
そして気づく。
まりかさんを見つけるための手段はここにある。
僕の手もとに。
スマホの向こうに。
『条件法の魔女』のアカウントを開き、DMを送る。
『探している人がいます。見つけさせてください』
送信してから、ふと我にかえる。
たしかに魔女は本物かもしれない。
でも、いますぐに願いをかなえてくれる保証なんてない。
こんな夜中に、こんな片田舎で、すぐに願いをかなえてくれるはずが。
と、目の前を白いものが横ぎった。
ひらひらと舞う、小さな白いもの。
それは桜の花びらのようだった。
じゃり、と足音。
スマホから顔をあげる。
いつの間にか、人が立っていた。
つい一瞬前まで、そこには誰もいなかったのに。
月灯かりが照らしたのは、桜のように淡くかがやく灰色の髪。
身にまとっているのはもこもこした和服。
どこかで見たことがある。
教科書。
マンガ。
ゲーム。
歴史。
平安時代とかの貴族。
いや、実物もどこかで見た。
神社か。
神職の人が着ていた。
なんだっけ。
水干?
狩衣?
その人は、手に花の咲いた枝を持っていた。
前に見たツイートを思い出す。
『魔女は銀髪でいつも桜の枝を持っているらしいね。花が散るとき依頼人も死ぬんだとか』
Twitterなんて嘘とネタとデタラメだらけだと思っていた。
でもいま目の前に、書かれていたとおりの光景が広がっている。
その言が正しいとすれば、いま目のまえにいるこの人は魔女で、手に持っているのは桜。
そして桜の花が示しているのは、まりかさんの……。
「キミの願いはかなえられぬものだ」
その人は、魔女はそう言った。
「どうすればかなえてもらえますか?」
設定も、背景も、理由も、条件も、全部どうでもいい。
ただ願いをかなえてさえくれれば、他はどうでもいい。
「命と引き換えなんですよね? だったら!」
魔女は桜の枝を口もとへやり、ふうと息をついた。
「そは風説にすぎぬ。流布されるなかでついた尾ひれである。わたくしは命を奪うことはしない」
「じゃあ、どうすれば……?」
「そも前提から違えている。わたくしには、生者の願いをかなえることはできない。キミは、これを知っているか」
と、魔女が手を掲げると、手のひらのうえ、宙空にぼんやり光る提灯が現れた。
いや、提灯とは微妙にちがう。
木組みの直方体。
側面に張られた白紙のスクリーンに、ちらちらと舞う花びらの影が映しだされている。
影は回っている。
くるくる、くるくると回っている。
「……走馬燈」
前に科学館でゾートロープを見たとき、まりかさんはつぶやいていた。
走馬燈みたい、と。
僕はそのときまで走馬燈というものを知らなかった。
だから調べた。
走馬燈というのは灯籠の一種である。
中心に立てたろうそくの光で、外側の紙に影絵を映すものだ。
紙とろうそくの間に切り絵などをつるし、ろうそくの上昇気流で風車を回して切り絵を動かす仕組みになっている。
そして、走馬燈という言葉には、別の意味もある。
「そういうこと、なんですか?」
わかってしまった。
「キミは賢い」
走馬燈とは、死に瀕した人が見る過去の情景のことをもさす。
死ぬ間際、人は、過去に経験したあれやこれやの情景を次々に思い出すという。
連続写真のように。
つぎはぎした動画のように。
走馬燈のように。
目前に迫る死を避けるための手段を探すため、過去の知識を手当たりしだいに思い出している、などとも言われている。
「わたくしにできるのは、走馬燈に影を映すことのみ」
「じゃあ、まりかさんは、もう……」
魔女は命を奪わない。
生者の願いをかなえることはできない。
かなえるのは最期の願い。
死にゆく者が走馬燈で見たいものを、用意する。
「わたくしは、花散らす者を安らげることを務としている。逝く前に、せめて夢のなかで願いをかなえられるように。……彼女はわたくしに願った。『もしあたしが魔族の令嬢だったなら』と。キミも中学生であるならば、英語の授業で習ったであろう。仮定法は反実仮想なのだ」
「いま僕が見ているこの世界は、まりかさんの見ている走馬燈のなか、ということですか?」
うなずく魔女。
「然様。仮定のうえに成りたつ架空の世界だ。わたくしはいま麻布まりかの願いをかなえている。重ねて、キミの願いは応えることはできない。それにだ、キミは彼女に会うてなんとする?」
魔女は、くるくると回る走馬燈を見つめながらそうたずねてきた。
「責める? 理由を問う? 理解する? 共感する? それとも世界を滅ぼすのをやめさせる? 何を驚く。まこと、麻布まりかには世界を滅ぼす力がある。わたくしが与えた。彼女は反実仮想であるこの世界を滅ぼすことができる。最期の夢を見るのを、途中でやめることができる」
僕は。
僕は……どうする?
「いずれにしろ彼女に残されている時間は少ない。十九分と五十二秒のあと、走馬燈は動きを止める。麻布まりかは時計の針を自ら止めた。走馬燈に未来は映らない」
走馬燈は、死に瀕した者が見るもの。
走馬燈が止まるということは。
そして、時計の針を自ら止めたということは。
「つまり現実では今日の二十分後に、まりかさんは……」
「キミは本当に賢い」
そんなことはない。
絶対にない。
僕は賢くなんかない。
だっていま、どうしたらいいかわからない。
まりかさんのために何ができるのか、まるでわからない。
でも。
「それでも、まりかさんに伝えたいことがあります」
魔女は無言のまま目を閉じた。
「先にも申したが、わたくしの務は花散らす者に夢を見せること。生者の願いをかなえることはできない」
僕に背を向け、歩きだす魔女。
「待ってください。待って! 僕が死ねばいいんですよね? 死者の願いをかなえてくれるというなら、いますぐ死ねば!」
僕が追いかけようと一歩踏みだすと、彼女は手に持った桜の枝を横に向けた。
「これはただのひとり言だ。先刻、あちらの森へ駆けていく人影を見た」
その枝は、鎮守の森をさしていた。
「……っ。ありがとうございます!」
それだけ告げて、僕は走りだした。
月灯かりの照らす夜のなか、ひときわ暗く浮かぶ森を目ざして。