「……つっ」

 歩きはじめてから三時間くらい経ったとき、まりかさんが小さく声をあげた。
 慣れない靴で、靴ずれをおこしたようだった。

「このくらいへっちゃら! だってあたし魔族だし!」
 と、まりかさんは羽を広げて飛んでみせた。

 いいなあ。
 魔族になると空飛べるんだもんな。
 自由だよな。

 そう思っていられたのも三分くらいだった。

「……も、ダメ。飛ぶの、すっごい、疲れる」

 魔族のご令嬢はあっという間に地面に逆戻りしてきた。

「魔族って不便だね」

 しかたないので僕がまりかさんをおんぶすることにした。

「だいじょうぶ? 重くない?」

「全然、平気」

 まだ辛うじて嘘をつくだけの元気があってよかった。
 女の子はもっと羽のように軽いものだと思っていた。
 砂袋を担いでいるようだなんて口が裂けてもいえない。

 いや、まりかさんは小柄だし、やせっぽちだし、絶対軽いほうなんだけど。
 僕がひ弱なのと、疲れているせいだ。
 そうに決まっている。

 そうして休み休み歩いているうちに、空が明るくなってきた。
 両側に広がる田んぼだらけの景色。
 右側はるか遠くに見える山の稜線が白んでいる。

「あっちが東かな」

「日が昇るほうだっけ?」

「こんな時間に起きてるの、初めてだよ」

「あたしはけっこう徹夜してるよ!」

「夜が終わるのってなんかさみしいね」

「いまってもう朝なの?」

 もうだいじょうぶだというので、まりかさんをおろして、僕たちはならんであぜ道を歩いた。

 朝になると音が増えてくる。
 車やバイクのエンジン音。
 ポストのかたんという金属音。
 カラスの羽ばたき。
 キジバトの鳴き声。

 だんだん見たことのある景色が増えてきた。
 コンクリート造の二階建ての公民館。
 その前に立っているバス停。
 その先、田んぼの海に浮いた島のような森は、この地を守る鎮守さまだ。

「チンジュさまって何?」

「神社だよ。その森の向こうがお祖父ちゃんち。やっとついた……」

「ねえ、いまさらだけど、あたし急に来ちゃってよかったのかな?」

「そう言われてみると、たしかに。なんて説明すればいいんだろう」

「友だちと遊びに来た、じゃムリがあるよね」

「普通夜どおし歩いてこないもんね」

 と、そんな相談をしているうちに、森の向こうの家が見えてきて。

「あれま、佳ちゃん。こんな時間にどうしたに?」

 ほうきを持って門から出てきたお祖母ちゃんに見つかってしまった。

「うん。ちょっと近くまで来たから」

 あわてて出てきたのはめちゃくちゃな言いわけだった。
 隣でまりかさんが「ええ……」と小さく呆れた声をだす。

「駅から歩いてきたんけ? よく来れたらあ。そっちのお嬢さんは?」

「学校の友だちだよ」

「おお、そうだにね。佳ちゃんがいつも世話になっとるに。二人ともたいぎいら? ほれ、早くあがりん」
 と、お祖母ちゃんは僕たちを手招きした。

 僕が先に敷地に入っていくと、まりかさんは僕のシャツの裾をつかんで後をついてきた。

「お腹すいてるに? それとも眠い?」
 玄関でお祖母ちゃんがきいてくる。

「とりあえず眠いかな。まりかさんは?」

「えっと。あたしも」

 僕に向かってうなずいて返すまりかさん。

 まあ戸惑うよね。
 何もきかず家にあげてくれたり、方言まる出しの言葉遣いだったり。

 ぱたぱたと小走りで奥へ入っていくお祖母ちゃんのあとを追って居間に入ると、四角いちゃぶ台の前にお祖父ちゃんが座っていた。

「おう、佳か。久いぶりだな」

 広げていた新聞を閉じ、お祖父ちゃんは「まあ座りない」と座布団を顎でさした。

「いきなりおじゃましちゃってすみません。水窪くんと同じクラスの麻布まりかです」

 畳に正座して、ぺこりとお辞儀をするまりかさん。

「ん。佳がお世話になっとります」

 お祖父ちゃんはあぐらのまま深く頭を下げてかえした。

「お布団しいといたで、湯うつかってえ、すっきりしてえ,早く寝ないに」

 戻ってきたお祖母ちゃんは、なんだか嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「いそがしいそがし」と笑いながら、お祖母ちゃんはまりかさんを風呂場へ連れていった。

 おそらくお祖父ちゃんお祖母ちゃんには、ツノも羽も見えていない。
 まりかさんは、自分が人間に見えるよう幻術をつかっている。

 でもそうだとしたら、いま二人にはまりかさんがどう見えているんだろう?
 金髪や赤目、ド派手なメイクは……?
 二人とも気にした素振りがないけれど、それは幻術によるものなのか、軽くスルーしているだけなのか。

 そうだ。
 昨日聞こえてきたクラスメイトの会話。
 彼ら彼女らは、まりかさんのメイクについて言及していた。
 幻術で隠しているのは魔族のパーツだけで、おそらくメイクやファッションはちゃんと他の人にも見えている。
 つまりお祖父ちゃんお祖母ちゃんは、ただなにも言わず受けいれてくれているわけだ。

「佳。元気にしとるんけ?」
 と、再び新聞を広げたお祖父ちゃんがそうたずねてきた。

「うーん。ぼちぼち?」
 ちゃぶ台をはさんでお祖父ちゃんの正面に腰をおろす。

「ときどきは遊びにきない」

「うん」

「ばあさんが喜ぶに」

「うん。今日は、ありが、と……」

 ちゃぶ台に顎を乗せると、あっという間に意識がとんだ。



「……くん。佳くん」

 意識が浮かんでくる。

 浮かんではきたけれど、重石でもつけられたように重くて……。

「ほら、佳くん」

 頬に冷たい感触。

「ヒェ!」
 慌ててはね起きる。

 振りかえると、コップを持ったまりかさんが立っていた。
 お風呂あがりのようで、メイクは落としているし、髪も湿っている。

「お先にいただきました。ほら、佳くんも入って入って」
 手に持ったうちわでぺしぺしと僕をたたくまりかさん。

 普段は濃いメイクで武装しているけれど、こうしてすっぴんになると本当に子どもっぽい。
 いや、元から子どもは子どもなんだけど、小学生にしか見えない。
 着ているのは僕のお古のシャツと短パンで、それが余計に拍車をかけている。
 その見覚えのあるシャツは、たしか小学校中学年くらいのときに着ていたものだ。
 それがピッタリサイズなんだもんな。

「どうしたの? 早く入ってきなよ」

「そうだね。じゃあまりかさん、先に寝てて」

「ううん。待ってる」

 首をふるまりかさんを居間に残し、僕はお風呂場へ向かった。

 前回ここに来たのは何年前だったかな。
 二年、いや三年前?

 そうだ。
 父親が出ていったとき、お母さんとお祖母ちゃんと三人でここに来たときだ。

 そのあと母さんが離婚すると決めたときには、こっちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんがうちに来て、深々と頭を下げていった。
 それ以来二人には会っていなかった。

「……そりゃ、久しぶりにもなるよね」

 湯船につかると巨大なあくびが出た。
 ふくらはぎや太ももがみしみしと悲鳴をあげる。

 お風呂からあがってみると、居間にはお祖母ちゃんだけがいた。

「お友だち、ここで居眠りしとったもんで、床の間に寝かせてるに。佳ちゃんは、ほれ、いつもの客間を使いない」

 うん。
 待ってるのはムリだろうと思ったよ。

 数年前までいつも使っていた客間には、懐かしいお布団が敷かれていた。
 この家特有の柔らかい植物的な香りのするお布団と枕。

 横になった瞬間、再び僕の意識は消えた。