終電というものに初めて乗った。

 もちろん概念として知ってはいた。
 夜中には運行が終わって、早朝になるとまた電車は走りだすと。
 でも感覚でいうと、僕にとって電車というのはいつでも走っているものだった。

 横長のロングシートに、僕とまりかさんは並んで腰かけた。
 青いシートはさわり心地がよくて、温かくて、ふかふかしていて、ゆりかごのように揺れていて、まりかさんはあっという間に船を漕ぎだしてしまった。
 僕も眠たかったけれど、寝すごしてしまうと大事故なので、太ももをつねってなんとか意識を保った。

 同じ車両には、僕たち以外に三人しか乗っていなかった。
 端っこの席で、手すりにもたれかかっているスーツ姿のおじさん。
 真っ赤な顔で口を開けて寝ている大学生くらいのお兄さん。
 ずっとスマホとにらめっこしている派手な格好のお姉さん。
 その無関心が、とても心地よかった。

「まりかさん、もう着くよ」

 眠りこけていたまりかさんの肩をゆすると、彼女は「寝へないよ」と回っていない舌で変な強がりを言った。

 僕たちは隣の市の駅で電車を下りた。
 改札は自動だったけれど、端っこの窓口には駅員さんの姿があった。
 僕たちは駅員さんがそっぽを向いたスキをついて改札を出た。
 自動改札の優しさが身にしみた。

 駅前は閑散としていた。
 コンビニが一軒あるだけで、僕たちの住む町の駅前に比べると暗かった。

 少し悩んだけれど、そのコンビニで買いものをしていくことにした。
 何よりも乾電池式のスマホ充電器が必要だった。
 スマホの電池が切れたら何もできなくなる。
 もっとちゃんと考えておくべきだった。
 明るいうちにお街の電器屋にでも行っていれば、モバイルバッテリーが買えたのに。

 その他に、飲みものやお菓子をいくつかカゴに入れてレジに持っていった。
 店員さんはガタイのいいお兄さんでちょっと怖かった。
 僕たちの様子をちらりとうかがったけれど、何も言わずにレジを通してくれた。
 無関心なのか、事情があると察してくれたのかはわからなかった。

 充電器はまりかさんのショルダー・バッグに入れてもらい、まずは彼女のスマホを充電することにした。
 ペットボトルやお菓子はレジ袋に入れたまま僕が手に持った。

 スーパーの二階で靴を買うときに、僕も安いリュックサックなんかを買っておけばよかった。
 何しろこれから数時間歩くことになる。
 手持ちの荷物はじゃまになる。
 ただでさえ片手はビニル傘で埋まっているのに。

 自分の無計画さ、いや予測力というか生活力というか、そうした人としての強さが不足しているのが嫌になる。

「じゃあまりかさん、行こうか」

「うん」
 まりかさんは肩から提げたバッグのひもを両手でつかみ、真剣な顔でうなずいた。

 これから向かうのは、僕の祖父母の家だ。
 二人の家は、この駅からバスで四、五十分ほどかかる場所にある。

 さすがにこの時間にもうバスはない。
 さっきスマホでルート検索してみたところ、徒歩だと約二時間かかるらしい。
 大人の足で休みなく歩いて二時間だ。
 体力に自信のない僕たちなら倍はかかる。
 日付が変わったいま歩きはじめたら、たぶん着くのは夜明けごろだ。

 歩きはじめてしばらくは、普通の住宅街だった。
 僕たちの住む町となんら変わりはない。

 ところどころに立つ街灯。
 家の玄関で光る外灯。
 マンションの廊下からもれてくる常夜灯。
 夜とはいえ人の気配が感じられた。

 二十分も歩くとあたりの様子が変わってきた。
 それまでは立ちならぶ家々が道の両側をふさいでいたけれど、次第次第にすき間が増えていった。
 暗くてよく見えないけれど、田んぼか畑だろう。

 僕たちは、ほとんど言葉をかわさず歩きつづけた。
 とにかく疲れていた。
 何しろ今朝もいつもどおり学校に行くため七時前には起きている。
 今朝というのもちょっと違うな。
 日付でいえばもう昨日の朝だ。
 朝起きて、登校して、授業を受けて、街中を歩いて、ファミレスやマクドナルドで座ったのはかたい椅子で、時刻はもう一時前。
 目は冴えていて眠くはなかったけれど、とにかく疲れていた。

「まりかさん、ちょっと休もうか」

 歩きはじめて三十分。
 そろそろ休憩を入れたほうがいいだろうと、声をかける。

「あたしはだいじょうぶだよ!」

 まりかさんは「へっちゃら!」と元気に振るまったけれど、その声音には疲れがにじみ出ていた。

「僕が疲れちゃってさ。休ませて」

 路側帯のブロックに腰をおろすと、まりかさんも「佳くんは体力ないなー」と隣に座った。

「う、まだちょっと湿ってる……」
 どうやらこちらでも雨は降っていたようだった。

 レジ袋から、それぞれの飲みものを取りだす。

 まりかさんが買ったのはエナジードリンク。
 却って喉が乾くんじゃないかと心配になる。

 僕はスポーツドリンクを選んだ。
 蓋を開け、ペットボトルをかたむける。
 甘じょっぱい水分が染みわたる。

 上を向くと星空が目に入った。
 いつの間にか雲は消えていた。

「ねえ、佳くん。いまから行くのって、お父さんのほうのお祖父ちゃんお祖母ちゃんの家、なんだよね?」
 まりかさんがたずねてくる。

「そうだよ。うちで同居してるのは母方のお祖母ちゃん」

「あのさ、じゃあ……ううん。なんでもない」

 エナドリの黒い缶をちゃぷちゃぷ揺らすまりかさん。

「うん。父親はもういない。三年前にね、出てったんだ。いまは他の人と暮らしてるらしい。だからもう父親じゃなくて元・父親だし、これから会いに行くのも元・お祖父ちゃんと元・お祖母ちゃんかな。もう名字もちがうしね」

 はは、という笑いはアスファルトに溶けてすぐ消えた。

「お祖父ちゃんの残してくれた遺産と家があるし、お母さんも働いてるし、養育費もあるから困ってはないよ、全然。全然ね。……でも、おこづかいはあんまりたくさんほしくないかな」

 まりかさんは「そっか」とつぶやいた。

「あたしはね、お金好きだよ。大好き。だってつかったらなくなるもん」

「それは、好き、なのかな?」

「わかんない」

 まりかさんの「えへへ」という笑い声が、暗闇に吸いこまれていく。

「うちの両親、ほんっと仲悪いんだよね。いっつもケンカばっか! そんで全然帰ってこないの。夜遅くまで残業があるとか出張が多いとかいってるけど、どこまでほんとかわかんない。あたしが帰っても家には誰もいなくて、二日に一回くらい一万円札がテーブルに置いてあるの。どっちが置いてんのかもわかんない」

 僕も「そっか」とつぶやきかえす。

「うちの中、ものだらけなんだよ。足の踏み場もないくらい。あたしの知らないものがたーくさん。パパもママも全然かたづけないから。いまのマンションは結婚する前からずっと住んでるらしくて、思い出のものばっかりだから捨てられないんだってさ」

「うちにも、お母さんの部屋に父親の腕時計が残ってるよ。捨てちゃえばいいのにね」

「ね。捨てちゃえばいいのに」

 十分くらい休んでからまた歩きだす。

 ぽつり、ぽつりと、どうでもいいことを話しながら歩いた。
 しりとりもした。
 同じ言葉は二度使わないというルールにしたけれど、何を言って何をまだ言っていないかわからなくなって、ぐだぐだのまま終わった。

 三十分に一度のペースで休憩を入れて、僕たちはずっと歩きつづけた。
 周囲の様子は少しずつ変わっていった。
 道の脇に家が登場する頻度が減っていき、かわりに田んぼが増えていった。
 僕のスマホの電池が切れたので、今度はまりかさんのスマホでルート検索をしてもらった。