休みの日は大好きなピアノを弾いて過ごすことが多い。

 まだ私が「ぽちゃかよ」じゃなかったころに習っていて、今はそのころの楽しい思い出ばかりが心に残っている。

 通っていたピアノ教室は、自分がそのときに弾きたい曲を弾かせてくれる先生で、そんな自由なところが好きだった。

 練習は歯がゆくて苦しいことが多かったけど、好きな曲を思いどおりに弾けたときの達成感が忘れられず、飽きずに続けられた。
 十年ほど続けて、高校受験を機にやめてしまったけれど。

 それでもいまだに好きで、また習いに行くほどではないが、こうして時間があればピアノの前に座る。

 アップライトピアノの上には、ピアノの発表会やピアノコンクールのときの写真が母親によって写真立てに収められ、飾られている。
 どの写真の私もまぶしいくらいに全力で笑っていた。

 自分の名前を憎んだり、悩んだりしなくてもよかったころの私だ。

 あのころは楽しかった。

 ピアノを弾いているといつも、そんな風に過去を回顧してしまう。
 それは、私にとってピアノの音色が懐かしく切なく感じられるせいかもしれない。

 ブルグミュラー、ソナチネ、渚のアデリーヌ、トルコ行進曲。
 合唱用の伴奏曲が好きすぎて、それを弾くこともある。
 発表会で弾いた曲、コンクールで弾いた曲などは、練習回数も多かったので思い入れも強い。
 どの曲も細胞に刻み込まれていて、鍵盤が頭の中に浮かび、どういう指使いや強弱で弾くか身体が覚えている。

 ピアノを弾いていると嫌なことは頭の中からすべて吹き飛び、ただ目の前の曲を奏でるということだけに集中できる。

 私にとってピアノの前は、最も私らしくいられる、逆に言えば、隠そうとも素の自分が出てしまう場所だった。

「香世ちゃん、ピアノ弾いてるなら、いつものあの曲やってよ」

 ピアノが置かれているリビングで一心不乱に弾いていると、洗濯物にアイロンをかけたり畳んだりしていた母が声を掛けてきた。

 この状況でも母親の家事を手伝おうとしない私がいることは、だいぶ前から我が家では問題視されなくなっている。

「お母さんも好きよね。
 ショパンの『革命』」

 母はショパンの「革命」という曲が好きで、ピアノ教室に通っていた私に「次はこの曲を弾いてほしい」と練習曲としてリクエストしてきたくらいなのだ。

 いや、確かにショパンも練習曲として作曲したのだけど、ピアノの先生じゃなくて母に何か特定の曲を弾くように指示されるとは思ってもみなかった。

 中学生になってリクエストしてきたのを見ると、弾かせるタイミングも見計らっていたようだ。

 当時私は、この曲をよく知らないまま、母の言うとおりピアノの先生に弾きたい旨を伝えた。
 その後楽譜を見て左手の運指の恐ろしい細かさに言葉を失ったことも、今となってはいい思い出だ。

「では、気合を入れて弾かせていただきます」
 私は少し手首を回し、短く息を吸って、革命に取りかかった。


 ホームルーム後、いつものように理絵ちゃんのクラスに行ったが、彼女はいなかった。

「松本さん、英語の先生に質問しに行ったよ」
 私を見つけてくれた葉山君からそう教えてもらう。

 スマホを確認すると彼女からもその連絡が入っていた。

 帰ってくるまで彼女の席で待つことにしたものの、自分のクラスじゃないので、ゆっくりその場にとどまっていることが難しい。

 私がそわそわしているのを気遣ってか、理絵ちゃんの前の席に葉山君が座ってくれて、二人で昨日のテレビの話をしていた。

「理絵、いるかー?」
 教室の入口で叫んだのは信洋だった。
「信洋じゃん」
 彼に向かって手を振った。

 しかし、彼は私を見て、露骨にがっかりした。

「ぽちゃかよが何で理絵の席にいるんだよ」
「理絵ちゃんを待ってるだけだよ」
「俺はお前に用はない。
 理絵はどこにいる」

「松本さんなら、英語の先生のところだよ」
 気を利かせて葉山君が理絵ちゃんの居場所を伝えると、信洋は「サンキュ」と言い、走って教室を離れて行った。

「何なのあいつは。
 失礼な」

 明らかに信洋の機嫌が悪そうだった。
 かといって、八つ当たりされる謂われもない。
 そういや、いまだにジャムパン代も回収しそびれている。

 もしや、あいつ、私からプレゼントされたと思ってるんじゃないだろうか。
 今度会ったら請求してやらないと。

 そんなことを考えて憤慨していると、葉山君がいきなり突かれたくないところを突いてきた。

「彼からは『ぽちゃかよ』って呼ばれてるんだね」

 自分の顔から表情が消える。

 希望の光だと思っている人に改めてそのことを話題にされると、忘れていたことを思い出してしまう。
 考えても変えられない現実を。

「……本当は、そう呼ばれたくない。
 あのあだ名は、ものすごく、嫌。
 この世からなくなってほしいと思ってるけど」

 うつむきながら、最後は小声になる。

「あまかよのいない世界は存在しないもんね。
 きっとこの先も、ずっとそう呼ばれる」

 正論を言われて、返す言葉が見つからない。

 それでも、付き合いの長くない葉山君に自分の本心を言えたこと自体は大きな進歩だった。

 それは、葉山君に、私が何を言っても否定しないで受け止めてくれるだろうという安心感を感じていたからこそだった。

「あまかよのいるこの世界でどうにかするしかないよね。
 じゃあ、そんな世界で頑張り続ける雨宮さんに、エネルギー補給の飴をあげるね」
 彼はそう言って、蜂蜜だけで出来た飴をくれた。

 お礼を言って受け取り、さっそく口に入れる。

 蜂蜜の飴は、最初は舌の上で優しい甘さのように思えたけれど、後から喉の奥でむせてしまいそうになるほどしつこさを感じる強い甘さに変わった。


 望月さんと一緒ではないシフトの日は、心が安らかで平和だ。

「香世ちゃん、パンケーキお願いね」
 ホール担当の主婦パートさんのオーダーに、機嫌よく「はぁい」と答える。
 ああ、平穏な時間よ、万歳。

 どうしても私の中で、こないだの出来事が消化できないでいる。

 彼の顔を見ると動揺してしまうのだ。

 だから一緒のシフトのときは、なるべく彼の顔を見ないように努力しているし、シフト終わりはこんなに早く着替えることができたのかと感心するほどの速度で着替え、帰宅している。
 しばらく彼の顔をまともに見ていない。

 望月さんはと言えば、あの後もいつもどおりの態度だった。

 やはり、彼にとっては大した意味のない行為だったのだろう。

 その事実もひどく落ち込ませる。
 だからこそどう受け取っていいのか分からない。

「雨宮、返事だけがよくて、スイーツの出来栄えがよくないぞ」
 もやもや考えているとキャプテンシェフに注意される。

 しまった、望月さんがいないはずなのに心を乱されてしまっている。
 集中しなければ。
「すみません」と謝り、目の前のパンケーキがいかにメニューどおり綺麗に作れるかに意識を切り替えた。

 シフトが終わってロッカールームで帰る準備をしていると、女子高生のアルバイト仲間たちの声がロッカー越しに聞こえてきた。

「こないだ望月さんにお願いして、勉強教えてもらったんだぁ」

 彼の名前が出てきて思わず聞き耳を立てる。

「あんなイケメンに教えてもらえるなんていいなぁ。
 ね、どうだった?」
「隣に座ってね、『この問題が分からない』って言うと、『どれかな?』って顔を近づけて問題を見てくれるの。
 望月さん、すっごくいい匂いしたぁ。
 しかも説明が超分かりやすいし、もう最高」

 心の中で、(分かる! いい匂いするよね)と相槌を打ってしまったが、聞こえた内容に気持ちがどんどん沈んでいく。

 そう、彼は誰にでも優しい。
 私に対してだけではなく。

「望月さん、彼女いないんだって。
 どうしよう、頑張ろうかな」
「頑張りなよ。麻由ならいけるって」

 彼女たちの甘酸っぱい話に呼応するように、胸がズキズキ痛み出す。

 私は、わざとロッカーの扉を音を立てて閉め、「お疲れさまです」と言い残してロッカールームを出た。

 店を出て夜空を見上げると雲が多かった。
 小さな三日月が広い雲にかかっていて、雲間から見えたり見えなくなったりを繰り返している。

 ひとりで歩きながら、また望月さんのことを考えた。

 とっくに気がついていた。
 彼のことを好きになっていることに。

 しかしまったく喜ばしいことではなかった。

 絶望的な気持ちにしかならないし、イケメンを好きになった自分に嫌悪感すら感じる。

 好きな気持ちを自覚したのと同時に失恋が確定する恋なんて、できるならしたくなかった。

 彼が、ぽっちゃりで卑屈で自己肯定力の低い私を好きになる確率を考えるだけで頭が痛くなる。

 彼のことを考えると、どす黒い苦しさが足の裏から頭の先に向かってぞろぞろ這いあがってくる。
 重くて禍々しいそれに取り込まれたくなかった。

 その苦しさを振り払うかのように走り出す。
 スニーカーの靴底を叩きつけて地面を蹴る。

 でもすぐに息が上がってくる。
 運動不足の身体にはむごい仕打ちかもしれない。


 なぜ、イケメンが苦手なのに彼なのだろう。


 理屈では答えの出ない問いを、走りながら繰り返し自分に問いかける。

 答えを考えようとした瞬間、足がもつれそうになり、かろうじて立ち止まった。

 ぽっちゃり体型の運動不足な私が走るのは危険行為だと悟る。
 仕方がないので走ることはやめて、ゆっくり歩き出す。

 それでもまだ呼吸だけ苦しい。
 歩き出してもすぐには整わない。

 荒い息をしながらあの公園の横を通り過ぎる。

 あ、あのときの公園だと思ったとき、彼の頬のしっとりして温かく柔らかい感触が間髪入れず蘇ってきて、再び私は走り出すしかなかった。