「みーくん。
 あのね、彼氏と仲直りした」
 電話で報告する。

「そっか。よかったね」
 知っていたかのように彼は驚かなかった。

「みーくん、今までありがとう」
「何か最後のお別れみたい。
 やめてよ。
 これからもずっと友達でしょ」

「そうだね」

 複雑な気持ちでそう言った。

 違う、一方的に利用しただけだ。
 彼の気持ちを、優しさを。

 怖いくらいに欲しいものをすべてくれる彼は、すぐに彼氏のもとに戻ろうとする私を責めたり引き留めることもない。
 これまでと同じように友達としてそばにいてくれようとしている。
 
 その一方で、みーくんじゃなくて優雨さんのことしか考えていない私は、あまりにもずるすぎて都合がよすぎる。
 いっそみーくんに罵られた方がずっと気持ちが楽だった。
 

 みーくんに対する気持ちがある程度落ち着いてくると、今度は優雨さんとの関係でみーくんと過ごした時間が胸に突き刺さってくるようになった。

 みーくんのキスに応じようとした過去の自分、みーくんに触れられたいと望んだ過去の自分が許せない。

 優雨さんは過去のトラウマに苦しんでいただけだったのに。
 私は寂しさのあまり、なんてことをしてしまったのだろう。

 結局、自分のことしか考えていない最低な人間だ。
 言葉にならないような自分を攻撃する黒い感情が胸に広がり、かきむしりたくなるような衝動にかられる。

 私は汚い。
 醜い。
 嫌な女だ。

 優雨さんに懺悔したい。
 土下座をして謝らないといけないのは、むしろ私の方だ。

 そのうち、ギターを見たり、ギターの音を聴いたりすると、蕁麻疹が出るようになった。

 例えば、優雨さんとデートしていて、アーティストのプロモーション写真を街中で見たとき、それがギターを持った写真だとすると、足裏から頭に向かって蕁麻疹が這うように出現してくる。

 またか。
 私は立ち止まる。

「かよこちゃん、どうした?」
「すみません。蕁麻疹が」
 説明している間に、首筋まで赤い発疹が出現する。
「わ、大丈夫?
 冷やした方がいいかな」

 彼に心配をかけてしまっている自分が腹立たしい。
 自分が犯した過ちのせいなのに。
 二重で忌々しかった。

「大丈夫です。
 すぐ落ち着きますから」
 優雨さんを安心させるために、事実とは真逆のことを口にする。


「理絵ちゃん、うちに来ない?」
 学校帰りに彼女を自宅に誘った。
 この歪んだ自分の気持ちを吐き出してしまいたかった。
「うん、行く」

 今日のおやつは、母お手製のふわふわスフレチーズケーキだった。
 お隣さんから無農薬レモンをいくつかもらったらしく、嬉々として昨日焼いていた。
 それをホール状から八分割し、そのうちの二つを取り分け、紅茶と共に自分の部屋に運ぶ。

 彼女に、葉山君から花火大会の日に告白されていたことから順を追って説明した。

「理絵ちゃん、私、最低な人間なんだ。
 未遂だったけど、葉山君にキスされそうになって応じようとした。
 葉山君に触れてほしいって思ったこともあった。
 彼に対して気持ちはないのに。

 一方的に利用した葉山君に失礼すぎるし、望月さんにも後ろめたくて、二人に対してどうしたらいいか分からない。

 好きなのはずっと望月さんだけだよ。
 でも、葉山君にすがった自分を許せない。
 望月さんに正直に伝えてスッキリしたいけど、多分失望される。

 これって自分が傷つくことから逃げてるだけだよね」

 正直に伝えて気持ちが軽くなるのは私だけで、言われた方の優雨さんが次は苦しむことにもなる。

 私にしたことや自分の過去に向き合って苦しんでいる彼に、さらに苦痛を与えるようなことはしたくなかった。

 心が塞がっている。
 それでもお腹は空く。

 チーズケーキは、ほんのり香るレモンとふんわりした食感が塞がった心にも優しくて、すこし気持ちが落ち着いた。

 先日優雨さんと買いに行ったピンクゴールド色の真新しいペアリングが左薬指で光り、私のことを責めているようだった。

「私は、香世ちゃんが最低な人間だとは思わない」

 はっきりと力強い理絵ちゃんの言葉を聞いて、涙があふれる。

「香世ちゃんが頑張ってたの、知ってるから。
 大学まで行ったもんね」
 そう言う彼女も泣いていた。

「理絵ちゃん……ありがとう」
 彼女を抱きしめて二人で一緒に泣いた。

 あの日、大学に行ったときに受けた衝撃を忘れることができない。

 優雨さんと仲直りしてすべての事情を理解した後でも、いまだに思い出すと涙が止まらない。

 優雨さんが実の父親から受けた傷と同じように、私が彼から受けた傷もまた消えることなく残っていく。

 ひとしきり泣いた後、理絵ちゃんが話し始めた。

「香世ちゃん。
 葉山君に逃げた自分を責めないで。
 否定しなくていいんだよ。
 だって、辛くて苦しかったんだからどうしようもなかったの。

 葉山君自身のことはね、そんなに気にしなくていいと思う。
 彼は……無償の愛を与えたい人なんじゃないかなって私は考えてる。
 香世ちゃんに利用されることも、多分彼自身が望んでやってるの。
 見返りを求めていないというか。
 自分の愛を恋愛という形だけにとどまらず特定の人に与え続けたい人なんだと思う。

 信じられないかもしれないけど、そういう人もこの世の中にいるの。
 だから大丈夫。
 実際に葉山君からは何も言われていないでしょう?」

 確かにそうだった。
 葉山君から何も言われなかったどころか、友達の継続を望まれている。

 にわかには信じられなかったが、理絵ちゃんの言うことは私の真理だし、私の知らないことはこの世の中にまだまだたくさんある。

 私にとって都合がよすぎると思わないでもないけれど、そういうことがありえるのかもしれない。

 優雨さんみたいな空想上の存在だと思っていた人が、私の住んでいるこの場所に存在していたように。

「それにね、完璧な人間なんていない。

 私たち、別に結婚とかしてないんだよ。
 自由恋愛なんだから、望月さんには言わなくていいと思う。

 葉山君と付き合ったり、身体の関係を持ったりしたわけじゃないんだから。
 そうでしょう?」

 私はうなずく。
 彼女が続ける。

「高校生の私たちが大学生と付き合うには、それなりの武器が必要なの。
 そもそも対等じゃないんだから。
 葉山君は、隠し武器として持っときなよ。

 私たち、大人に転がされる恋愛をしているわけにはいかないの。
 むしろ、若い私たちの方が振り回すくらいじゃないと」

 理絵ちゃんは頼もしいなと、少し笑う。

 確かに、優雨さんの言っていた県の条例の話じゃないけど、子どもの私たちが大人の大学生と対等に渡りあうには、どう考えてもハンデが必要なのだ。

「香世ちゃんも、望月さんとずっと一緒にいなきゃいけないわけじゃない。
 この先、合わないと思ったら離れてもいいし、相手から別れを告げられることもありうる。

 とにかく、相手に依存したり執着しすぎない方がいいんだよ。

 香世ちゃんも私も、自分が一番幸せを感じる人って、今後もずっと山本さんや望月さんとは限らないでしょう?

 隠し武器って言っても、キープくんじゃないし、二股でもないし、保険をかけているわけでもない。
 彼らの自由恋愛を邪魔する趣旨じゃないし。

 何て言ったらいいかな。
 隠し武器って言うか、心の避暑地って言ったほうがより正確かもしれない」

「避暑地か」

 私はつぶやく。
 そして思いついてたずねた。

「理絵ちゃんにも、いる?」
「いるよ」
「誰?」
「信洋」
 ニヤリとして彼女は答えた。

「なるほどね」
 理絵ちゃんと山本さんがケンカした日、信洋が理絵ちゃんの家に入っていくのを見たのが偶然ではなかったことを確信する。

 あれは、理絵ちゃんが避暑地を利用した瞬間だったのだ。

 理絵ちゃんは言う。

「避暑地は持ってていい、と思ってる。
 毎回使うわけじゃない。
 友達として頼るだけだもの。
 辛いときにだけ、ね。
 それに、頼り方は頼った本人である自分にしか分からない」

「そうだね。
 私がどんな気持ちでその人を頼ったかなんて、その内心は言わなければ他の誰にも分からないね」

 すべては心の中にしまっておこう。
 私だけの秘密でいい。

 理絵ちゃんと話していて、すんなりそう思えた。

 みんながみんな、聖人君子なわけじゃない。
 そんなものは幻想に過ぎなくて、実際は私と同じ弱い人間が多いんじゃないか。

 弱い自分がいてもいい。
 今の私が背を向けたくなるようなことをした過去の自分がいてもいい。
 それも私の一部でしかない。

 否定することで自分から切り離そうとするからおかしくなる。
 身体が抵抗して蕁麻疹が出たりするのかもしれない。

 自分からはどんなに逃げたくても逃げられない。
 この心とこの身体は死ぬまで私のものだ。

 他人と過去は変えられないし、コントロールできない。
 例えば、私が友達の理絵ちゃんをコントロールできないように。
 例えば、優雨さんが恋人の私を支配できないように。

 そうだとしたら、弱い自分も過去の自分も認めて受け入れるしかない。

 他人に理解されなくてもいい。
 最後に自分の味方になれるのは、世界中を探しても自分だけしかいないのだから。


 そうだ。
 昨日母が、チーズケーキとは別にレモンの蜂蜜漬けも作っていたのを思い出した。

 クエン酸による疲労回復効果が期待できるため、仕事の疲れを取るために必死な母が作っている。
 ちょうど無糖のレモン風味炭酸水もたくさん残っていた。

「理絵ちゃん、蜂蜜レモンのソーダ割り、飲む?
 レモンの蜂蜜漬けはうちの母のお手製だよ」
「うん、飲む」
 満面の笑みが返ってくる。

 少し疲れちゃったから、疲労回復して、また明日から頑張っていこう。

 大丈夫。
 まだ始まったばかりだから。 

 私は、ひっそりしまわれていたペットボトルの炭酸水を二本、部屋から持ち出して、蜂蜜レモンのソーダ割りを作るためにリビングへ向かった。