数日後、理絵ちゃんとの下校途中のことだった。

 彼女にお願いしていたアルバイト交代のシフトが終わり、次の月から優雨と一緒のシフトをどうしようか悩んでいた。

 アルバイトのシフトは月ごとに申告することになっているので、いっそ、その曜日のシフトを最初から入れないようにすることも考える。
 他の用事との関係でシフトを入れる曜日を固定していたわけではなかったので、曜日の変更は容易だった。

 そうすると彼と顔を合わす機会は事実上すべてなくなってしまう。

 本当にそれでいいのだろうか。

 このまま彼とは自然消滅で終わっていいのだろうか。
 きちんとお別れをした方がいいのか。
 そもそも私は優雨とお別れしたいのか。

 彼女と一緒に帰りながらも頭の中はそんなことを考えていて、彼女の話を一切聞いていなかった。

 だから、理絵ちゃんと分かれる場所で、彼女から「香世ちゃん、今週の日曜日空いてる?」と聞かれたときも、「うん、空いてるよ」とうわの空で答えた。

「じゃあ、午後二時に、望月さんの家に来て」

「えっ、今なんて……?」
 とんでもない話をされていることにようやく気づき、理絵ちゃんの顔をまじまじと見る。

「だから、望月さんの家に午後二時」
 彼女が再び繰り返す。

「なにそれ、なんで?」
 顔が引きつった。

 久しぶりに彼の名前を他人から聞いて、スマホをスカートのポケットにしまおうとして誤って落としてしまう。
 ガツッと音がしてスマホケースとアスファルトが激しく衝突する。

 彼女が続ける。

「望月さんが香世ちゃんに話があるって。
 多分香世ちゃんに直接連絡しても届かないだろうからって、私が伝言を頼まれたの」
「そんな」

 言葉を失う。
 間違いなく別れ話だろうと予感する。

 いざその話をするとなって、ようやく行きたくない、聞きたくないと思っている本心が見えてきた。
 別れ話をする気はまったくなかった。

「香世ちゃん、大丈夫。
 私が保証する。
 だから、望月さんの話を聞いてあげて」

 私の思考を読んでいるかのように彼女がそう言い、聖母マリアのような顔で説得された。
「分かった」
 理絵ちゃんを信じてそう返事をする。

 土砂降りの雨の日から急に秋がやってきていた。
 金木犀の甘い香りが漂っている場所が日に日に増えていく。
 気温も最近はだいぶ下がり涼しくなっている。

 その甘い香りのふわりと香る様子がまるで優雨に呼ばれているような気がして、彼の姿を無意識に探してしまう。


 日曜日。
 意を決して彼の家を訪れる。
 口の中はカラカラに乾いていた。

 ガチャリ。

 ドアが開き、いつぶりか分からない優雨の姿を認めた途端、泣きそうになった。

 今日の彼は、最初のデートの日と同じ黒いジャケット姿だった。

「来てくれてありがとう」

 彼の目も潤んでいるように見えて泣き笑いのようだった。
「お邪魔します」

 一歩玄関の中に入ると私の後ろでドアが閉められ、そのまま薄暗い玄関で優雨に抱きしめられる。

 胸が震えた。

「ずっと会いたかった」

 彼が言い、髪にキスされた。
 優雨の香りに包まれて胸がいっぱいになり、何も言えないまま小さくうなずいた。

 私を抱きしめている彼の腕の力が強くなる。

 私も本当はずっと会いたかったんだと、ようやく自分の本心を認めることができた。

 しばらくそうしていたけど、私が靴を履いたままだったことに彼が気づき、「ごめんね、ずっと玄関で。中に入って」と、ふわりと私から離れた。

 もっと優雨に触れていたいと心が叫んでいて、切ない気持ちになりながらも靴を脱いでリビングに進む。

「これ、松本さんが教えてくれた、ロースイーツっていうケーキなんだって。
 ダイエット中でも食べられるらしいよ」
 いそいそと彼が出してくれた美しいケーキを前に、私はダイエットを止めたことを言い出せなかった。

「いただきます」
 ありがたく食べることにする。
 別にダイエットしていなくても、身体に良さそうなケーキは食べていい。

 フォークですくって一口運ぶ。
 濃厚でずっしりとした甘みが口の中に広がる。
「美味しい」
「よかった」

 いつかみたいに嬉しそうに彼が言って、涙があふれそうになるのをぐっと堪えた。


「本当に、この度は誠に申し訳ございませんでした」


 彼が真顔で椅子から立ち上がったかと思うと、そう言ってその場で額を床に擦りつけて土下座をし始めたので、驚いて私も立ち上がる。

「顔を上げてください」
「いや、雨宮さんに合わせる顔がないんだ」

 訳が分からなかった。

「雨宮さんに連絡が取れなくなってから、俺から松本さんに頭を下げてお願いして、彼女が雨宮さんについて知っていることをすべて教えてもらったんだ。
 全部、これから説明する」

 彼から強い決意を感じて、私も受け入れる覚悟を固める。

「分かりました。
 じゃあ、ケーキを食べながら聞きたいので、とりあえず椅子に座ってください」
「そうだね」
 ふっと笑って彼も顔を上げた。


 彼は自分の生い立ちから話を始めた。
「今の父は二番目の父なんだ。
 小五のとき、母が再婚してできた父。
 実の父は簡単に言うと、DVが原因で母と離婚した。
 警察の力も借りて、俺と母は着の身着のままでシェルターに逃げ込んだよ。

 実の父は酒が入ると母に暴力をふるった。
 時々俺にも向けられてね。
 決まって拳骨の間から親指を出した拳で頭を殴られて、それがものすごく痛いんだ。
 殴られる母を守ろうと、父の前に立ちはだかるんだけど、『典子と同じ顔しやがって。お前も死ね』って言われて、どうしても許せなくて悲しかった。
 典子っていうのは母の名前ね。

 どんなに暴力をふるうクソ親父でも俺の父には変わりなくて、やっぱり心の底では好きなんだよね。
 完全には嫌いにはなれないから、それが苦しくてたまらない。
 父と母を救えなくて、ずっと罪悪感があった。
 結局、父の暴力はどんどんヒートアップしていって、警察のお世話になった。

 でも本当はそれでは解決しないんだ。
 なぜかというと、父は『典子が俺を怒らせるから殴っているんだ』『俺はこんなにお前のことを愛しているのに、なんで言うことを聞かないんだ』としか思ってなくて、自分のしたことを真に理解できていないんだよね。
 だから刑事罰をくらったところで何も変わらない。
 離婚手続きは揉めに揉めたよ。

 三年後、母が再婚した。
 俺は母に顔が似てたから、今の父にも可愛がってもらえてよかったと思う」

 私はケーキを食べることも忘れて、衝撃的な彼の話に聞き入っていた。

「小学校を卒業するまで、専門的な施設で定期的にカウンセリングと治療を受けてた。
 だから、ある程度はそのときの心の傷とかトラウマを小さくできていると思っていたんだけど、やっぱり少なからず影響は残っているなって感じてる。

 自分もいつか実の父のようになるかもしれないと思うと、ものすごく怖いんだ。

 そのときの影響らしいんだけど、俺は人に嫌われたくないという気持ちがすごく強くて、みんなに好かれたい気持ちがある。
 その一方で、特定の人に対して愛情を示す能力が欠如してるって言われてる。

 医師によれば愛着障害と言うらしい。

 全員に好かれるなんて、そんなの不可能だって頭では分かってるけど、相手がどんな人かよく考えずに誰かれ構わず無警戒で愛情を振りまいてしまうんだよね。

 だから俺は、はたから見たら八方美人に見えるかもしれない」

 確かに思い出せば、最初に彼と出会ったときに道徳のお手本みたいだなと感じたところから色々と合点がいく説明だった。

「雨宮さんが言ってたでしょ。
 何で名前を呼んでくれないのかって。
 あれはね、実の父が『典子!』『お前』って母のことを呼び捨てにして母に主従関係を刷り込んでいたから、自分も同じように呼ぶことでそれを思い出してしまうんだ。

 それに雨宮さんの方が俺より年下だから、どうしても上から目線で呼んでいるように聞こえるのが自分で気になってしまう。
 ダブルデートの日に雨宮さんから呼んでほしいと言われたから呼んだけど、自分としては実の父のことが頭をよぎるから、大切な人ほど呼び捨てで呼びたくない気持ちがある。

 今の父と母が『典子さん』『正孝さん』ってお互い『さん』づけで呼び合っているのも影響しているかもしれない」

「あんまり『好き』って言わなかったのは、実の父みたいに、いつか自分の気持ちで相手を縛ることになるかもしれない怖さがあるからなんだよね。
 自分の中で、どこまでなら言っても大丈夫で、どこからが危ないのか、まだ全然基準が分からない。
 これからその塩梅を探せたらいいなって思ってるけど」

「それから、雨宮さんの外見に口を出しすぎて本当にごめんなさい。
 求められてないのに女の子の見た目に意見するなんて、あまりにも最低な行為だった。
 もう二度としないから安心してほしい。
 これは自分の支配下で母や俺をコントロールしようとしていた父の影響が残っているせいだって、こないだ久しぶりに先生と話したらそう指摘されたよ。

 俺は大人になるにつれて徐々に父に近づいていっているんじゃないかって、恐ろしくなってすごく落ち込んだ。
 だから、今後しばらくカウンセリングと治療に通うつもりでいる」

「そうだったんですか」
 私の凍りついた心がするするとあっけなく溶けていく。

「できれば、この記憶はあんまり人に言いたくなくて。
 だから、前のときは説明できなかった」
「もういいです。
 分かりましたから」

 出してもらった紅茶はすっかり冷めていた。
 自分の心が温かくなっていくのを感じながら、ケーキの残りを食べて冷たい紅茶を飲んだ。