望月さんがアルバイトを休んだ。
 初めてのことだ。
 風邪をひいたらしい。

 ホール担当の星野さんや白倉さんは「望月目当ての客どうすんだよ」と愚痴っていたが、店長から「何か揉めたらすぐに俺を呼びに来い。それを理由にその場から逃げろ」と指示され、安心したようだった。

 まぁ誰でも嫌だろうな。
 あの望月さん目当てのお客さんの相手をするなんて。

 他の人には望月さんの接客を真似することなんて絶対にできないし、またあの事件みたいなことが起こって巻き込まれたらたまったもんじゃない、と二人は考えたのだろう。

 あの事件後、時間が経つにつれて、店長の読みどおり客足は徐々に戻ってきていた。

 もちろん、望月さん目当てのお客さんも。

 というより、望月さんファンのお客さんは、以前のファンというよりもむしろ新規のファンが増えたせいかもしれない。
 その状況はただただすごいとしか言いようがない。

 結果的にその日は何の問題もなくシフトが終わった。
 望月さん目当てのお客さんは彼が不在である旨をホールスタッフが伝えると、帰るか、そのまま揉めることなく食事をしていく人がほとんどだったからだ。
 ただしスイーツメニューの注文は少なかったので、私の仕事はいつもより楽だった。

 シフトが終わり、急いで帰る準備をしていたが、今日は望月さんが休みだったことを思い出して手を止める。

 そっか、今日はゆっくり着替えてもいいんだ。
 無理して急がなくてもよくなったのに、何だか物足りなくて心許なく感じる。

 望月さん、どうしているかな。

 どうしようもなく気になっていた。
 風邪の具合をたずねるメッセージ、送ってみようかな。

 連絡先は知っていた。
 最初に望月さんが入ってきたときに連絡先を交換していた。
 でも実際に連絡を取ったことはない。

 突然メッセージを送ったら、何て思われるだろう。
 私が心配しても逆に迷惑なのではないだろうか。
 そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。

 迷ったときの友人頼み。
 ここはひとつ、理絵ちゃんに相談してみる。

『香世ちゃん、まだ起こってもいない未来を見すぎ。
 今、香世ちゃんがどうしたいのかが大事でしょ。
 それで、どうしたいの?』

 それは決まっている。
 連絡を取りたい、だ。

『じゃあ、メッセージを送ればいいだけ。以上』
 切れ味のいい返信が返ってくる。

 単に風邪の具合を聞くだけだし、別に普通のことだよね。
 変なことじゃないよね。

 理絵ちゃんにそう言われたものの、自分でも言い訳をたくさん考えて、ようやく

『望月さん、風邪を引いたと聞きました。
 大丈夫ですか?
 具合はいかがですか?』

 と送信した。
 なぜか気が急いて、手早く帰る準備をする。

 マナーモードにしていたスマホが振動して、メッセージの着信を知らせた。
 まさかこんなに早く望月さんから返信は来ないよね。

『心配ありがとう!
 実は今週から両親が海外旅行に行ってて、今ひとりなんだよね。
 疑似ひとり暮らしを謳歌するはずだったのに、誰もいなくて逆に死んでる』

 彼からだった。

 内容を見て返信の早さの理由を理解する。
 彼は普段、実家で両親と同居中だと聞いていたが、どうやらお世話をする人がいないようだ。

 どうしよう。
 何か持って行ってあげたほうがいいかな。

 そんな考えが頭をよぎったが、それって望月さんの家に行くってことだよねと考え始めると、尻込みする気持ちが競り勝ってくる。

 会いたいとは思ったけれど、いざ会うとなるとまた違う緊張に襲われる。

(香世ちゃん、逃げてるでしょ)

 理絵ちゃんのいつかの言葉が蘇る。
 仰るとおり。

 自分をアピールするのは苦手なんだよと言い訳をしてみるけど、結局逃げている事実に変わりはない。

(やらずに後悔するより、やって後悔した方が後を引かないよ)

 もはやそんなことを理絵ちゃんに言われた記憶はないが、誰かの声が内側から聞こえてきた。

『バイト終わりなので、何か買ってきて欲しいものがあれば持っていきましょうか?』
 と打ち込んだものの、送信ボタンをなかなか押せない。

 ボタンを押したら自分が傷つく結果になるかもしれない。
 やっぱりそれが怖い。

 帰る準備を終え、店を出て自宅に向かって歩き始め、立ち止まってはスマホの画面を凝視して送信ボタンを押そうとする指が止まる。

 それを何回か繰り返して、とうとう自宅が見えてきたときに
(家に帰った数分後の私は、打ち込んだ未送信のメッセージを削除して何もなかったことにするだろうな)
 という未来予測が立った。

 いっそやけくその気持ちで送信ボタンをようやく押す。
 どうにでもなれ、未来の私よ。

 玄関ドアの取っ手を握ろうとしたそのとき、再びポケットの中のスマホが振動した。

 それは紛れもなく望月さんからの返信で、

『ありがとう!
 すごく助かる。
 バニラアイスをお願いします』

 というまさかのリクエストだった。


 追加のメッセージで住所を聞き、自宅には入らず、そのまま私の家と望月さんの家の間にあるコンビニに向かい、アイスを買って望月さんの自宅マンションを訪ねた。

 ガチャガチャと玄関ドアの鍵を外す音がする。

「雨宮さん、ごめんね。
 ありがとね」

 久々にちゃんと顔を見た望月さんは、髪がボサボサで、黒縁のダサい眼鏡をかけ、髭が伸びて口周りが少し青くなっており、おでこに冷却ジェルシートを貼って、Tシャツにスウェット姿で、要は不完全で無防備だった。

「お、お疲れさまです……」

 いつも完璧な姿しか見ていなかったので、すぐに誰だか分からなかった。
 どもってしまい、戸惑いを隠せない。
 ここまで見た目って変わるのか。

 望月さんの顔が赤いことに気がつく。

「熱はどのくらいあるんですか?」
「三十八度五分」
 よく見ると目が真っ赤に充血している望月さんが答えた。

「高っ!
 アイスだけで大丈夫ですか?
 お粥でも作りましょうか?」

 思わずそんな言葉を口走っていた。

 やばい、何言ってんだろう。

 自分で言っておきながらスッと顔から血の気が引く。

 でも、困っていそうな人を前にして、自分が傷つくとかどうとか、さっきまでうじうじ考えていたことはすっかり頭から飛んでいた。

「じゃあ、お言葉に甘えていいかな」

 アイスのリクエスト以上の答えが返ってきて、どくんと心臓が脈打つ音を聞いた気がした。

「ちょっと散らかってるけど、どうぞ」
「お邪魔します」

 自室に戻る望月さんに背を向けて靴を揃える手が、震えた。


 他人の家の台所を使って料理をするのはなかなかに難しい。
 お粥の材料も買ってくればよかったなと後悔しながら冷蔵庫を開けて分かったのは、望月さんがこの数日間自炊をしていた事実だ。
 玉子粥を作るのに必要な具材は揃っており、後は勘で、ここぞと思う戸棚を開けて調味料と鍋を発見した。

 調理をしながら、なんだか望月さんの奥さんみたい、と不謹慎な考えが頭の中に浮かび、慌てて全力で打ち消した。

 望月さんの熱か、風邪自体がうつったのかもしれない。
 飛躍する想像力をコントロールしきれなくなっている。
 そもそも彼女ですらないし、ただのアルバイト仲間でしかないのに。

 望月さんの部屋にお粥を持っていくと、
「身体がだるくて、食べるのしんどい」
 と彼が言い出した。

「食べないと治り悪いですよ」
 感情を押し殺して言い返す。
 せっかく作ったんだから食べろや、と危うく言いそうになった。
 病人に押しつけはよくない。

 そのとき、望月さんがいたずらを思いついたかのような顔をした。
 嫌な予感がする。

「そうだ。
 雨宮さんが食べさせてよ」

「熱で頭のネジがぶっ飛んだんですか」

 秒速で発言を打ち返した。
 これではまるで漫才じゃないか。
 そういう相方になりたいわけじゃない。

「へへ、そうかもね」
 と弱々しく笑う彼は、やはりいつもの望月さんではなくて、調子が狂ってしまう。

(ねぇ、また逃げるの?
 傷つくわけじゃないのに何が嫌なの?)
 再び誰かの声が背中を押してくる。

 ううん、逃げない。

 ここまで来ておいて逃げる理由なんてないんだもの。
 今回の恥ずかしさは私が恐れている結果に繋がらないことは分かっていた。

「しょうがないですね。
 食べさせてあげます。
 今回は特別ですよ」

「やったね」

 小さな子みたいな無邪気な笑顔だった。

 私が口元に運ぶお粥を嬉しそうに食べる彼は、か弱い雛鳥のようで可愛らしくもあった。

 望月さんのすべてを支配している気分になる。

 守らなければと思う反面、風邪をひいてボロボロで無防備な彼に、どこか見とれてしまうような、ただならぬ色気を感じていた。

 れんげを咥える彼の薄い唇が、照明の光で紅く光る。

 私もお粥になりたいと頭に浮かび、さっきよりも素早く強い力で打ち消す。

 やはり望月さんの風邪が既にうつってしまっているようだ。
 全身から汗が噴き出すかのように、恥ずかしさが身体中を巡ってこみ上げてくる。

 彼から目を離してお粥をスプーンで掬うわずかな間に、必死にポーカーフェイスを作り続けた。
 数分前に想定していた恥ずかしさとは明らかに質が異なっていた。

 これがイケメンの真の実力なのかもしれない。
 心の中で唸りながらも、それでもこの時間がずっと続けばいいのにと思った。

 彼がお粥を食べ終わり、食器を台所に持っていこうとしたときだった。

「俺、雨宮さんに嫌われたと思ってたから、今日連絡くれて、来てくれて嬉しかった」

 不意打ちだった。
 イケメンはずるい。

「すみません」
「いや、全然いいよ。
 気にしないで。
 それより、ありがとうね。
 本当に助かった」
「……また今度、同じシフトのときは、一緒に帰りましょう」

 よっぽど「嫌いになったわけじゃない」と喉まで出かかったが、言えなかった。
 その言葉の続きまで思わず言ってしまいそうになるのを堪えられる自信がなかったから。

 望月さんは老若男女問わずみんなに優しい。

 彼の優しさの罪は、その人だけへの特別な優しさだと勘違いさせてしまうことだ。
 あの事件の女性のように。

 私は勘違いをするわけにはいかない。

 私のことを何とも思っていない彼に対して、迂闊に続きを言ってしまうのは避けなければならなかった。

 だからそれは、まだできない。
 いつかはと考えてはいるが、もう少し心の準備を整える時間が必要だ。

「楽しみにしてる」
 望月さんは、そう言って笑った。


 食器の洗い物を終えて、ふとリビングに目をやると、大きなグランドピアノが目に入った。
 それは、広いリビングのほとんどのスペースを占領して、つやつやと黒く光っていた。

 吸い寄せられるように近寄る。
 きちんと手入れがされているのか、埃は見当たらない。

 ピアノ好きの血が騒ぐ。
 こんな綺麗で大きなグランドピアノで、一回でいいから好きな曲を思いっきり弾いてみたい。

「リビングにあるグランドピアノ、弾いてもいいですか?」

 望月さんの部屋に戻り、思い切って聞いてみた。
 我ながらピアノのことに関しては行動が大胆だ。

「ああ、あれ、母の宝物なんだよね。
 でもいいよ。
 俺が許す」
「ほんとに大丈夫ですか?」

 宝物と聞いて不安になった。
 だから大切に手入れがされていたのかと合点がいく。

「いいよ。
 看病してくれたから。
 それに、母は大して弾かないくせに、他人には触らせてくれないんだよね。
 弾いてもらった方がピアノも喜ぶ気がする」
「やった。嬉しい」

 両腕でガッツポーズをしてしまう。
 私も小さな子みたいだ。

「望月さんは、いつ寝てもいいですからね」
「どれだけ弾くつもりなの」
 病人が呆れたように笑う。

「思う存分です、と言いたいところですけど、病人の睡眠の邪魔をするつもりはないので、大好きな曲ベスト3です」
「はいはい、お好きにどうぞ」

 子どもを見守るお父さんのような顔で承諾されたが、私は気にせず嬉々としてグランドピアノのあるリビングへ向かった。

 鍵盤の蓋を開け、キーカバーと呼ばれるフェルト生地のような布を取る。
 するとその下から、これまた本体と同様につやつや輝く鍵盤が現れた。

 ああ、なんて美しいのだろう。

 うっとりしながら着ていた服で手を拭き、鍵盤の上にそっと手を構えて乗せた。
 まずは最も好きな曲を弾くことにする。

 私はバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾き始めた。
 明るい曲調だけど、荘厳な曲だ。
 私は無宗教だが、この曲を弾くと、いつの間にか神に捧げている気持ちになる。
 無宗教の私にとって神とは誰を指すのか。
 崇拝の対象とは誰あるいは何なのか。
 これからの私が見つけるべきテーマだなと思った。
 きっとそれをイメージしながら弾けば、もっと遠くに届く音になる。

 音楽は人の心を導くと言うと聞こえはいいかもしれない。

 私には、眠たくなるといわれているこの曲を聴かせて、お腹がいっぱいになっている望月さんを眠らせようという魂胆もあった。
 病人には睡眠をもっと取ってもらわねば。

 教会音楽は、教会という天井の高い建物の中での音の響きを計算して作曲されているような気がする。
 大きな空間がある場所の方が、弾いていて気分がいいのはそのせいなんじゃないかと思っている。
 まさにこの曲は、望月家の広いリビングで、大きなグランドピアノで弾くのに適していた。

 弦を叩いた音が直接天井に抜けていき、澄んだ音が部屋中に響き渡る。

 最高に気持ちいい。

 我が家のアップライトピアノとはまったく違う音に夢中になって弾いた。

 二曲目はバダジェフスカの「乙女の祈り」。
 可憐な音使いが可愛らしい曲だ。
 私はこの曲を弾いているときだけは可愛くなれる気がした。
 曲の中で祈っている乙女のように。
 私の中の乙女は何を祈るのだろう。

 最後の曲はベートーヴェンの「月光」。
 第三楽章まであるが、全部を弾いていると長い上に、激しめの第三楽章で望月さんを起こしそうだったので、第一楽章だけ弾いた。
 重厚で孤独な曲だ。
 簡単に見えるが一番弾くのが難しい。

 その昔、最後のクリスマス発表会で選曲したのがこの曲だった。
 あのころは勉強が忙しくなってしまって、暗譜しきれずに楽譜を見ながら弾いた苦い思い出のある曲だ。
 今は楽譜なしで弾ける。

 暗闇の中、カーテンのない窓全体から静かに差し込む月の光をイメージする。
 部屋の中には孤独に生きている誰かがおり、月の光に照らされることで、自分がひとりであることを実感するのだ。

 三曲弾き終わった私は満足し、キーカバーを鍵盤に乗せ、ゆっくりと蓋を閉めた。

 抜き足差し足で望月さんの部屋に向かう。
 大きく開いていたドアから中をのぞくと、ドアに背を向けて眠っている彼が見えた。

「おやすみなさい……優雨」

 彼の部屋のドアを完全に閉める前に、急に下の名前を呼んでみたい衝動にかられ、囁き声で望月さんの下の名前を呼んだ。

 全身の表皮がカッと熱くなる感覚があった。

 最後の一秒くらい奥さん気取りを許してくださいと、誰に許しを乞うているのか分からないけれど、心の中でつぶやく。

 どうせ本人は夢の中に潜っていて聞いていないだろう。

 私だけの秘密だ。


 そっと望月さんの家を出た。
 オートロックの鍵が動く、ギィ、ガチャンという音を確認する。

 エレベーターに乗って急降下しながら、速いテンポでドクドク脈打つ心臓の鼓動が身体中に響いているようで、思わず胸を押さえた。
 重力に逆らっているせいだと思いたかった。

 どうか明日、私が風邪をひいていませんようにと願いつつ、今度こそ自宅の玄関ドアを開けた。
 中に入って鍵を回し、玄関に座り込む。

 頭がぼうっとする。
 好きな人の名前を本人の前で密かに呼ぶ行為は、魔法を操る魔女の呪文を口にしたかのようだった。

 その夜、れんげで運んだお粥を食べる、不完全で無防備な望月さんの口元を思い出し、自分の唇を何度も指でなぞってはため息をついた。

 きちんと閉めきれなかったカーテンのわずかな隙間からのぞく月だけが、私の行為をじっと見ている。