心臓が張り裂けるのではないかと思う程、緊張していた。
「……お前」
帝哀がゆっくりと口を開く。
(私を見てる。私に向かって言葉を発してる)
どきどきと高鳴る心臓の音がうるさい。
「飛龍の養心殿の場所を知っているか?」
何かと思えば、道に迷っているらしい。
「分か……ります」
やっとの思いで絞り出した声は、物凄く小さかった。
(というか、宋帝王の養心殿ってこの区域で一番大きいから見えてるし、すぐそこだけど?)
地図に弱いのかもしれない、可愛い、とときめいているうちに、「連れて行け」と短く指示される。
「彼に何か御用ですか?」
少しでも会話を続けたくてそう聞いた。
「誘われたんだ。共に茶を飲まないかと」
(帝哀様、お茶をお飲みになるのね……!!)
心の中で叫んだ。飛龍が羨ましい。同じ机を囲んで、一緒に茶を飲むなんて。嫉妬で狂いそうなくらいだ。
「ご案内しますね」
丁寧にそう言い、養心殿へ向かってできるだけゆっくりと歩いた。一緒にいる時間を少しでも長くしたい。
嗚呼、今自分は臭くないだろうか。今日は真犯人捜しに時間を使っていたから一体しか鬼を殺していないが、それでも酷い悪臭がしているはずだ。どうせ好きな人と会うことになるのなら、早めに川で身を清めていれば良かった。
何か話したい、存在を覚えてもらいたいと思っているうちに、あっという間に宋帝王の養心殿に着いてしまった。
(今からでも養心殿、ここから遠ざかってくれないかしら……)
悲しい気持ちで目の前に聳え立つ宮殿を見つめる。
そして、もしかするともうしばらく見ることができないかもしれないと思い、帝哀の顔をじっと見つめる。
「何をじろじろ見ている?」
その視線はすぐに気付かれてしまった。
「お顔が……お美しいなと思いまして」
「は?」
帝哀が眉を寄せた。その不可解そうな顔もかっこいい。
感情のない瞳でしばらく紅花を見ていた帝哀は、ふっと興味を失ったかのように視線を外し、養心殿の入り口へと歩いていく。
「あのっ……」
その背中に声をかけた。
「――一兆六千億年間、貴方のことが好きでした」
人に愛を伝えるというのは、物凄く緊張することらしい。
けれどこれは、ずっと伝えたいと思っていたことだ。地獄の辛い日々を乗り越え、意思を保ったままいられたのは、閻魔王という希望があったから。
ゆっくりと、帝哀の顔がこちらに向けられる。
「地獄を卒業した元人間の、獄吏か」
――その目は、予想していたよりも酷く冷たかった。この前の天愛皇后の視線の方がいくらか優しかったと思える程に。
「俺は人間など信じていない。勝手な発言も許可した覚えはない。失せろ」
紅花にとっての一世一代の愛の告白は、あっさりと一蹴されてしまったのだった。
紅花は帝哀の不機嫌を感じ取り、さっと身を低くした。
「大変申し訳ありません。好きという気持ちが抑えられなくて。何分一兆年以上、貴方に会いたかったので」
「…………」
紅花のことなど相手にせず立ち去ろうとする帝哀に向かって名乗る。
「私! 紅花といいます」
「不要な発言は許可していないと言っている」
「申し訳ございません! でも、覚えておいてください。私、絶対に貴方を手に入れます」
「…………」
「今は信じてもらえなくても構いません。何度でも伝えますから」
帝哀は紅花の言葉を無視し、宋帝王の養心殿へ入っていってしまった。
■
「はあ……」
御花園に戻り、大きな溜め息を吐く。
――うまく伝えられなかった。
帝哀の境遇を考えれば人間からのいきなりの告白など信用できなくて当然だからだ。大方、帝哀の目には紅花が、王に気に入られたくて媚び諂ってくるみっともない女に映ったことだろう。
『くすくす』
『クスくすクスクスくす』
『ウマくいかなかったのね』
『フフフ、失恋』
「うるさいわね……」
御花園の花たちがからかってくるので、軽く睨み付けた。
少し会えただけでも喜ばしいことだ。今はまだ、多くは望まない。
「これからよ。これから必ず帝哀様を振り向かせてみせるんだから、見てなさい」
そのためにも、早く真犯人捜しは終わらせて休暇を取らなければ。
そもそも花たちも怪しい者を見ていないというのはどういうことなのだろう。夜咲く花に聞いても見ていないと言っていた。花が眠っている間に犯人が宮殿から抜け出したということもなさそうだ。
となると。
(天愛皇后が育てていた花は、まだ宮殿内にある……?)
そもそも外には持ち出されていない可能性がある。
この仮説を確かめるためには天愛皇后の宮殿の中に入る必要がある。しかし、ただの鬼殺しが皇后の宮殿に立ち入るなど決して許されることではない。
「う~~~ん……どうしたものかしら」
手詰まりだ。
がくりと項垂れていると、こちらに歩いてくる足音がした。
「俺にも手伝わせてくれ」
顔を上げるとそこにいたのは、角の生えた一体の鬼。
彼は、紅花が処刑から救った鬼だった。
「ええっと……」
「掃除鬼とでも呼んでくれ。おめえは俺を助けてくれた。できることがあるならしてえんだ」
心を読んでみたが、言葉に嘘はない。何か企んでいるというわけでもないようだ。思わぬ助け舟である。
「貴方、天愛皇后の宮殿に入ることはできる?」
「皇后様は盗みがあってからいかなる鬼も宮殿に入れてねえ。一度疑われた鬼なら尚更だ」
「……何だ、じゃあ要らないわ」
「待て待て待て、後宮では鬼殺しよりも俺の方が自由をきかせられるし、役に立つ場面もあるんじゃねえか!?」
「今のところないわ。ありがとう。気持ちだけ受け取っておく」
「待て待て待て!」
立ち去ろうとする紅花を、掃除鬼はしつこく止めた。
「俺は長い間天愛皇后の宮殿の掃除係だった。宮殿内部の様子なら結構分かる」
「そう言われてもねえ……」
「――俺は、真犯人が天愛皇后の侍女じゃねえかと思ってる」
「何ですって?」
侍女というのは、妃の近くで妃に仕える使用人のような存在だ。妃の信頼の厚い人物でなければ傍にはいられない。天愛皇后が信用している侍女が、そんなことをするとは思えないのだが。
「根拠は?」
「天愛皇后は侍女たちにあまり好かれていない」
「……何故? あんなにお美しいのに」
「奴隷出身だからだよ。人ってのは、そもそも身分が高く手の届かない人には〝憧れ〟を抱くが、自分と同等か下だった人間が成り上がって良い身分になっていると〝妬み〟を抱くらしい。特に、今の侍女たちは奴隷制度があった時代から後宮で働いている歴の長い者たちだ。奴隷への潜在的な差別意識がある。そういう教育を受けて育った世代だからな」
「だからといって皇后の私物を盗むかしら。発覚したら殺されるのに」
「大事になるとは予想していなかったんだろう。きっと、花を隠して少し困らせるつもりだっただけだ。しかし、思いの外天愛皇后が花のことを気にした。だから都合良く俺みてえな鬼を犯人に仕立て上げたんだ」
「侍女たちが盗んだ現場を実際に見たわけではないのでしょう?」
「花を盗んだ現場は見てねえよ。でも、日常的に天愛皇后の物を盗んで隠す嫌がらせをしてんのは見た」
「ふうん……天愛皇后はそれには気付いていなかったの?」
「さあな。あの皇后様の考えていることは分からん」
今回の花の件も侍女たちがやった可能性がある。やはり宮殿内を確かめる必要はあるだろう。
天愛皇后に嫌がらせの事実を伝えても、一度疑われた掃除鬼の発言など信じてもらえないことは目に見えている。先に決定的な証拠を押さえなければならない。
「こっそり宮殿に入れるような経路はある?」
「はあ!? そ、それは駄目だぞ。絶対駄目だ」
「手伝わせてくれと言ったのは貴方じゃない。誠意を見せて」
「勝手に皇后の宮殿に入るなんてのは手伝うの範疇を超えてる!」
紅花はちっと舌打ちをした。
しかし、掃除鬼の言うことはもっともだ。宮殿に勝手に入るというのは非常識な作戦であり、下手をすれば今度こそ打首だ。何か、宮殿に入るための口実ができれば。
そこまで考えて、紅花はふと思い付いた。
「――狂鬼を送りつければいいわ」
「は!?」
掃除鬼がぎょっとした顔をする。
「宮殿に幽鬼、あるいは狂鬼が現れれば、宮殿内の人々は鬼殺しを呼ばざるを得ない」
「いやいやいやいや……駄目だろ!」
「さっきから駄目駄目うるさいわね。四の五の言わずに協力してちょうだい。貴方が片思いしている相手に貴方の気持ちをばらしてもいいのよ?」
「は!? 何で俺の好きな子のこと知って…………まさか、」
「さっきから、『下手をして打首になったらあの子に会えない。折角何とか引き延ばせた命なのに』と考えてばかりだから」
「俺の心読むなよぉぉぉぉおおお!」
顔を真っ赤にした掃除鬼の絶叫が御花園に響き渡る。頭から生えた小さな角まで赤くなるのだから不思議だ。
「よく考えてみて。これでもし本当に真犯人が見つかったら、私も貴方も大手柄。貴方は好きな子にも見直してもらえるんじゃないかしら?」
「うっ、ううっ……け、けどよぉ~……」
「今のままじゃ脈なしなんでしょう。格好いいところを見せなきゃいけないわ。今のところ、貴方は罪を着せられてみっともなく怯えて震えてた鬼でしかないんだから」
「そんな言い方すんなよぉ!」
一時間程の押し問答があった後、掃除鬼は諦めたように項垂れ、紅花に天愛皇后の宮殿の図を渡してきた。
出入り口は少ないが、窓はいくつもある。
紅花はある作戦を考え、にやりと笑った。