「ちょっと、何してんの。さっさと残骸を片付けてよ」
後ろから歩いてきた飛龍に言われ、はっとして顔を上げる。
紅花はこんなにも頭が痛いのに、近くにいたはずの飛龍はけろっとしているので何だか腹が立った。
「……うるさくなかったの?」
「は? 何が?」
――聞こえないのか、宋帝王でも。
やはり紅花のこの力は変わったものらしい。おそらく言っても理解されないであろうことが不便だ。
「……いいえ。何でもない。少し幽鬼の臭いにやられただけよ」
紅花は痛む頭を押さえながら立ち上がった。
「後は私がやるから、高貴な飛龍様はご自分の宮殿にお戻りになったらどうかしら?」
目の前には、幽鬼の亡骸らしき白い液体が広がっている。だんだんこの独特の臭いにも慣れてきてはいるが、もしかしたら嘔吐する可能性もある。飛龍も今日出会ったばかりの女のそんな醜い姿は見たくないだろう――そう気遣ったというのに、飛龍は何故か面白そうに目を細めた。
「随分と俺に対して冷たいね? 無理やり連れてきて、こんな仕事押し付けちゃったから嫌いになった?」
「当然それもあるけれど、私、元々閻魔王様以外の王には敬意を持っていないの」
ふむ、と興味深そうに頷かれた。
「何でそんなに帝哀が好きなの?」
「人に痛みを与える責任を取っている唯一の王だからよ」
紅花は即答する。
死者を裁く責任を一人で追い、裁いた分だけ地獄の苦しみを味わっている閻魔王。そんな彼に、紅花は一兆年以上尊敬の念を抱き続けている。
「ふーん……。でも、実際に喋ったのは一度きりなんでしょ?」
「あの時は涙が止まらなかった。それほど感動したの」
初めて会った時、あの焼け爛れた顔が愛おしかった。
「私の生前の罪は親殺しだったようでね」
「ああ、よくあるやつね」
「生前のことはもう全く覚えていないから記録を見て知ったことだけど、私、親には酷いことをされていたのだと思うわ。心が散り散りになるほどの酷い行いを。けど、私の心を壊した親は責任など取ってくれなかった。だから、私は人を罰し、罰するだけでなく自分にも罰を与える閻魔王に感銘を受けたのだと思う。罪の責任を取るというのは、誰にでもできることではないから」
どうやら飛龍はここを立ち去るつもりはないようなので、そのまま屈んで幽鬼の亡骸を回収する。白い液体を掬って箱に入れる動作を繰り返す紅花を、飛龍は立ったまま馬鹿にしたように見下ろした。
「それ、親に得られなかったものを帝哀に求めているだけじゃない? 残念だけど、帝哀という男は、君が求めているものを与えてくれるような心優しい王ではないよ。帝哀は極度の人間嫌いだ。おそらく、十王の中で最も人間を憎んでいる」
「……どうして?」
「人間は彼を裏切るからさ。罪を軽くしようと嘘をつく。けれど嘘なんて帝哀には簡単に分かってしまうから、嘘をついた分罪を重くしなければならなくなる。そして、帝哀が受けなければならない罰も重くなる」
「…………」
「帝哀だって、王として君臨した当初から人間が嫌いだったわけじゃないだろう。でも、年月が経つにつれて、嫌でも分かってしまったのかもしれないね。――人間は醜い、って」
紅花は、死体を入れた小箱の蓋を閉じて紐で括り、立ち上がる。
「では、私が帝哀様の希望になりたい。彼を裏切らない人間もいるのだと教えてあげたい」
飛龍を真っ直ぐ見つめてそう言った。飛龍は紅花の言葉にぽかんとする。
しばらくしてようやく言葉の意味を咀嚼したのか、ぷっと噴き出して眉を下げ、厭味ったらしく笑った。
「身の程知らず」
身の程知らずでも構わない。
この冥府の王を手に入れたい――紅花はそのためにここにいる。
■
飛龍と別れた後、紅花は小箱を抱えて冷宮へ向かった。靄のような状態だった時は随分と大きく見えたが、亡くなるとこんな小箱に収まってしまうほどの液体になるなんて意外だ。
(ごめんね)
小箱に向かって心の中で謝罪した。
幽鬼を放っているのは同じ人間だ。殺したところでまた湧いてくるだろう。
せめて向こうに交渉することができる程度の冷静さがあれば、元の場所に戻ることを提案するのだが――さっきの様子を見ると、意思疎通ができても話を聞いてくれる感じはなかった。そもそもの発生源が憎しみなのだから、冷静さなど欠いていて当然かもしれない。
とはいえ、獄吏の仕事よりはずっとあっさりしていて気が楽だった。これなら続けていけそうだ。
「嬢ちゃん、早かったな」
冷宮の中へ入ると、魑魅斬が鍋で何かを煮込んでいた。紅花が離れているうちに換気が行われたのか、死体の臭いはいくらかましになっている。代わりに、料理の良い香りがする。近付いてみれば鶏肉の煮込み料理のようだった。
「……あなた、もしかしてここに住んでるの?」
「何言ってんだ。鬼殺しは皆ここに住んでる。嬢ちゃんもここに住むことになるぞ」
「臭すぎて眠れそうにないのだけど……」
「すぐに慣れる」
はっはっはと大きく笑った魑魅斬が、紅花から箱を奪って中身を確かめた。
「おお、ばっちりじゃねぇか。初めてにしてはよくやったな」
「この剣はどうしたらいい?」
「しばらくは貸してやる。幽鬼の血は特別な水じゃねーと取れねぇから、後で案内してやるよ」
桃氏剣に付着している白い液体は、一応は血という扱いらしい。
「疲れたから、ご飯を少し分けてもらってもいい?」
紅花が剣を床に置いて煮込み料理を指差すと、魑魅斬は何故か驚いた顔をした。
「お、おお……いいけど」
紅花は椅子に座り、皿に煮込み料理を入れる。汁を啜ってみると想像していたよりも熱かった。少し冷めるのを待とうと思い一旦皿を置く。
ふと顔を上げると、魑魅斬がにやにやしながら紅花を見ていた。
「最初来た時はどうなるかと思ったが、嬢ちゃん、意外と向いてるかもな」
謎にご機嫌だ。不気味に感じて眉を寄せてしまった。
「普通、初めて幽鬼や狂鬼を見たら恐ろしくて倒れるんだよ。なのにお前はけろっとしてるだろ。初めての鬼殺しが終わった後にすぐ飯を食おうとする奴は初めてだ」
「元は人間から発生したものと、鬼が死んだものなのでしょう。正体が分かっていて何が怖いの?」
「正体が分かってても、話の通じない奴とやり合うのは怖いもんなんだよ、普通」
魑魅斬は自分の分の皿も用意すると、紅花と向かい合って座った。
「罪人の獄吏、しかも貧相な娘を宋帝王様の気まぐれで押し付けられたと思ったが、これは意外と一人前になるかもな」
確かに、飛龍の言っていたように汚くて臭い仕事ではあるが、獄吏の仕事をせずに済むうえ後宮にいられるという意味では、以前よりも幸せだ。
狂鬼と幽鬼の殺害。この日からそれが、紅花の新たな仕事になった。