――……絞首台に立たされ、現世に向かったその時、とっくの昔に譲位した王に懸想していたのは我くらいのものだろう。






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 どこまでも続く、はんなりと花咲き春の訪れを告げる、桃の林。桃の花の名所として知られるこの場所に、私は何故か毎年足を運んでいた。
 向こうに見える高層ビル群を彩る、雅な桃の木。仕事帰りに寄るにはちょうどいい立地だ。
 暖かい日も多くなってきたとはいえ、まだ空気の冷たいこの時期が好きだ。桃が咲くと、忘れていた何かを思い出しそうな気がする。
 仕事は楽しい。友人も多い。日々は充実している。しかし、何かが足りない気がする。誰かに思いを引かれるような気持ちで、私は三十年間、誰とも付き合わずにここまで来た。幸い容姿には恵まれたので、相手がいなかったわけじゃない。何度かそういう雰囲気になりそうになったが、本能が告げてきたのだ。――〝この人ではない〟と。まだ待ってくれと。私の中にいる、長い黒髪の、朱雀のぬいとりのある衣装を身に纏った美しい女性が言ってくる。
 とはいえ、こんなことを言えばおかしな人扱いされるのは目に見えているので誰にも言えない。

(やっぱり、私の妄想なのだろうか。私はいもしない白馬の王子様を待っている、痛い女なんじゃないだろうか)

 今年いい人が現れなかったら、妥協してでも結婚しよう。数百年続く実家の家業を絶やさないためにも跡継ぎは必要だ。
 半ば諦めるような気持ちで踵を返す。

 桃の花を観に来るのも、今年で最後にしよう。

 そう思った時、桃の花びらが散った。
 風に揺られて舞い散る花々の向こう側に、何故か知っているような気のする大人の男が立っていた。
 年は三十代程、黒い目の色、黒い髪。何もかも違う。全てが異なると思うのに、何故か私は、彼のことをよく知っていると思った。

 ――この人だと。この人だと思った。

 それは向こうも同じだったようで、何も言わずにこちらに駆け寄り、私を抱き締めてきた。
 知らぬはずの世界の匂いがする。懐かしいような香りがする。何かを思い出しそうになった時、私の中の黒髪の女性が微笑んで――消えた。

 桃の花が似合う彼と、また私は、この現世で恋をする。




 【完】