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(こんな感じでよかったかしら……)

 紅花は、柄にもなく緊張していた。長子皇后の刃を受け止めた刀を持つ指先が震えている。何せ、多くの幽鬼を集めた後に、冥府十区域のほとんど全員が集まっているような場所で発言したのだから。
 紅花はどっと疲れたというのに、目の前にいる長子皇后は澄ました顔をしている。長子皇后の持っていた刀は護衛によって回収された。不安げな人々の視線が長子皇后に集まる。

「これはさすがに……皇后の称号を剥奪すべきでは……」
「いやしかし、そのような前例は……」

 高貴な人々は前例を重視する。前例のない事柄について新たに決めるとなると――

「十王会議だ! 十王会議を行え!」

 十王を引きずり出し、会議を行うしかなくなる。

「十王様方、聞いておられますか! 早急にこの者から皇后の称号を剥奪すべきです!」
「今からでも会議場へ向かい、決まり事を変えねば……!」

 一人が言い出すとそれに乗じて皆が会議することを支持し始めた。ついさっき自分たちまで命が危ない状況だったのだから焦って当然だろう。

 人々のその様子を見た長子皇后は余裕げに笑い、肩を揺らした。
 そして、胸元から一通の文を取り出す。

「これを見よ、冥府の十王よ」

 紅花も聞いていない、予定外の発言だ。何だろうと一瞬ひやりとする。

「前閻魔王の遺言状だ。我が預かっておった」

 確かにその筆跡は、前の閻魔王から長子皇后に宛てられた手紙と同じものだ。

「そんなものを隠し持っていたなんて……」

 人々が呆気にとられたように目を見合わせる。

「内容が内容だったものでな。憎い男を楽にさせるような真似はしたくなかったのだよ」

 長子皇后は封を破り、皆の前にその書面を見せびらかした。


「〝閻魔の罰の廃止を求む〟――だとよ」


 紅花の隣に立つ帝哀が動揺したのが伝わってきた。父の帝哀を守るような遺言は、帝哀にとって意外なものだったのだろう。

「これから会議が行われるのなら、これについても議題にしてくれぬか? そちらも何度も会議を開くのは面倒だろう。十王様よ」

 遺言状に従う義務はない。しかし、王の遺言状に書かれていた事柄については、十王全員が揃って多数決を取り、可決するか話し合う必要がある。

(長子皇后様は、本当に私の願いを叶えてくれようとしている)

 紅花は驚いた。長子を信じていなかったわけではないが、長子がいくら頑張ったところで不可能だと予想していたのだ。長子も、紅花に言うことを聞かせるため、一時的にできるという風に振る舞ったのだと思っていた。
 長子は帝哀を憎んでいる。それなのに、紅花のために、何兆年も隠していたものを引っ張り出してきたのだ。
 ――本当に長子皇后を冥府から追放させていいのだろうかと、今更ながらに迷いが生じた。いや、冥府から追放するのはいい。彼女はその方が幸せだからこの道を選んだのだ。
 けれど、彼女が去った後、彼女は反逆者として、最低な皇后として人々に語り継がれていくことになる。ただ一人の男を愛し、その男に会うために計画を立てただけであるのに。
 紅花の話で笑ってくれた、あどけない少女のような長子皇后の一面を思い出す。
 今更もう引けない。けれど、誤解を解くだけなら――。

 一歩前に進もうとした紅花の腕を、帝哀が掴んで引き戻した。
 振り返ると、帝哀は険しい表情をしている。

「やめろ」
「でも……」
「お前が下手に出て疑われるのは嫌だ。それに、長子もそんなことは望んでいない」
「…………」
「お前を失いたくないんだ。俺の言うことを聞いてくれ」

 冷静に考えれば、「本当に殺すつもりはなかった」「計画に王を殺すことは入っていなかった」と言ったところで、証拠不十分だ。それを事実として受け入れられたとしても、罪が軽くなって冥府追放とまではいかなくなってしまうかもしれない。
 ――長子皇后の覚悟を、一時の迷いで蔑ろにしてはいけない。

「……止めてくれて、ありがとうございます。血迷いました」
「俺が欲しいんだろ?」
「! ……は、はい」
「なら、手段を選ぶな。誰を犠牲にしても俺を求めろ」

 その真っ直ぐな瞳に、また驚かされた。帝哀を求めることを許された気がして、その言葉が胸にじわりと浸透していく。

「――はい! 大好きです」

 紅花が大きく頷いたその時、十王会議のための王たちの収集が始まった。

「行ってくる」

 王冠を被った帝哀が会議場へと立ち去っていく。
 その後に続くのは、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王だ。錚々たる顔ぶれが帝哀の横に並んで歩き始める。

(あれが、冥府の十王……)

 全員が揃うと圧倒的な威圧感がある。
 今更ながら、一端の鬼殺しである自分と、あちら側に立っている一人である帝哀では、身分に違いがありすぎるように感じた。

(――いや)

 誰を犠牲にしても俺を求めろ――本人がそう言ったのだ。
 自分は変わらず、帝哀を奪うつもりでいればいい。

 改めて決意し、紅花は彼らの帰りを待つことにした。


 ■

 長子皇后はまるで罪人のように両手を捕縛されて連れて行かれ、王たちはいなくなり、十区域の鬼殺したちは広場に広がる鬼の死体を片付けようと奔走している。

(皆働いてるけど……私はちょっとくらい休んでもいいわよね?)

 鬼を連れてくるのにも、鬼を倒すのにも、これまでにない程体力を使った。ここで少しくらい休息を得ても許されると思いたい。
 観客席に腰をかけて一息つく。長子皇后が出してくれた茶を呑みたいところだが、きっとあれは、もう二度と呑めないのだろう。

「――今回の件、また貴女が絡んでいるのではなくって?」

 ふと、鈴のように耳障りの良い、楽しげな声がした。

 顔を上げると、美しい姿をした天愛皇后が立っている。あんなことがあった後だというのに一人だ。一目を盗んでこっそり紅花の元へ来たのだろう。

「さぁ、何のことだかさっぱり」
「あれだけの数の幽鬼や狂鬼を連れて来るだなんて、長子皇后の力でできるとは思えないのだけど? まぁ、貴女が鬼の心を読めることについては知らないふりをしておいてあげるけれど」

 紅花のことを見透かすように目を細めた天愛皇后は、くすくすと華やかに笑った。遠くから見てもあれだけ美しかった彼女は、近くに来るとよりその容姿端麗さが際立つ。思わずまじまじと見つめてしまった。

「わたくしに見惚れているの?」
「……はい。今日は一段と……何というか、凄いですね」
「ふふふ。褒めるのが下手ねえ。綺麗だとか言えないの?」
「お綺麗ですよ。少なくとも今日見た皇后様たちの中で、天愛皇后様が一番綺麗でした」

 世辞でなく本音だ。他がどう評価するかは知らないが、紅花にとっては、天愛皇后が一番美人だった。
 すると、天愛皇后の顔がぱぁっと明るくなり、紅花の肩に手を回したかと思えば、必要以上にくっついてくる。

「やぁーだ! もぉ~そんなこと言ってくれるの? 嬉しいわ。貴女、本当に食ってやろうかしら」
「……勘弁してください……」

 あの侍女たちのように骨抜きにされるのは御免だ。
 くすくすと機嫌良さそうに笑っていた天愛皇后は、ふと笑うのを止め、ぽつりと呟く。

「長子皇后、幸せそうな顔をしていた。今回は勝つつもりで本気を出したのに――わたくしには、彼女のあの表情の方が美しく見えたわ」
「……そうでしょうか」
「あれが、全てを捨てて自分の道を歩むことを決めた女性の美しさなのでしょうね。……わたくしには、捨てられなかった」

 空を見上げながら悲しそうに言う彼女の横顔を見つめる。

「最初に出会った頃、わたくしが父親に利用されていたと言い当てたでしょう」
「あの時は、花が言っていたことをそのまま伝えただけです。私の能力を信じてもらえるように。詳しくは知りません」
「わたくし、奴隷の一族の中で、王に気に入られるために女として教育されてきたのよ。生まれながらの美貌があったからね。わたくしが王に気に入られれば一家が栄える。笑顔の作り方も、男に媚びる声の出し方も、相手の求めているものを探って的確に与えてやるやり方も、夜伽の手法も――全て、色んな男を相手にしながら、幼い頃から叩き込まれてきた。わたくしの父もそれを望んでいたわ」

 紅花は初めて天愛皇后に同情してしまった。見知らぬ男に身体を触られる怖さ、辛さ、屈辱は、生前の紅花も知っている。
 天愛皇后は、生まれながらにして身近な人に一家の繁栄のため利用され、計画通りこの後宮に入り、それからずっとこの狭い世界に閉じ込められている。

「そんな顔しないで。わたくし、この生活も悪くはないと思っているのよ?」
「……実は飛龍様のこと、そんなに好きじゃなかったりします?」
「愛しているわ」

 予想外にも即答された。

「最初は確かに、王という立場を見て近付いたけれど。今はあの人の優しさや愛情、大切にしてくれるところ、意外と照れ屋なところ……全部好きよ」

 天愛皇后は愛しそうに微笑む。
 紅花は今日、天愛皇后のために怒っていた飛龍の顔を思い出した。彼なりに、妻にした人間は全員、とても大切にしているのを知っている。

「なら、それも違った形の幸せなのではないですか?」

 きっと天愛皇后も気付いているのであろう指摘をすると、天愛皇后は力強く肯定した。

「そうね。そうかもしれないわね」
「……惚気を聞かされた気分なんですが?」
「なら、貴女の惚気も聞いてあげましょうか? 最近、貴女も閻魔王様といい感じなんじゃない?」
「…………やっぱり、そう見えます?」
「ふふ、嬉しそう。でも本当に思ってるわ。閻魔王様があんなに人を自分の傍に近付けることは珍しいもの。今日だって、幽鬼のことは貴女に任せていたでしょう。それって信頼されてる証じゃないかしら?」
「……私、期待してもいいと思いますか?」

 天愛皇后に言ってもらえたら自信を持てるかもしれない。そう思ってちらりと期待の眼差しを向けるが、天愛皇后の返しは意地悪だった。

「さぁ。それは、閻魔王様ご本人に聞いた方がいいんじゃない?」
「……面白がってますね?」
「うふふ。わたくし、楽しくって仕方がないのよ。あの堅物の閻魔王様が、わたくしのお気に入りの女の子とくっつくかも……なんて、冥府にここ数億年はなかった面白展開だわ」
「やっぱり面白がってる!」

 紅花の悲痛な叫びを、天愛皇后はくすくすと愉しげに笑いながら聞いていた。