それは、一兆九千億年以上も前のこと。
 まだ前王が健在だった時代に、庭に桃の木を植えようという話になった。長子は彼のことを父のように慕っていた。子供のように懐き、下手をしたら実父よりも触れ合っているのではないかと思える程だった。
 長子と、長子の両親と、帝哀と、帝哀の両親。六人で計画を立て、後に長子が住むであろう宮殿の横の御花園を、桃の園にしようという話になった。
 幼き日の淡い思い出。長子は侍女に止められながらも勝手に一人で外へ行き、桃の木を大切に育てた。そうすれば帝哀の父がまた来た時に褒めてもらえると思った。
 その次に帝哀の父が付き合いでやってきた時、長子は彼に話しかけようとして、ある光景を見て思わず物陰に隠れてしまった。彼と彼の正妻が微笑み合い、口付けをしていたのだ。夫婦であれば何ら不思議ではない行為だ。しかしそれを見た長子はずっと心がもやもやし、気まずくなって帝哀の父に近付くことはしなくなってしまった。

 季節は巡って千年後、長子は正式に帝哀の正妻の称号を得た。その頃には長子は少女から大人の女性に成長しており、帝哀の父と話す機会もなくなっていた。しかしそれでも桃の木は大切に育てていた。木々は長子と共に立派に育った。あの頃計画していた以上の美しい光景が、御花園には広がっていた。

 帝哀の父と再会したのは、帝哀との婚姻の儀が終わった後だった。彼は珍しく桃の花園に来ていた。
 風に揺られて桃の花びらが舞う。
 きりりとした眉に、炎のように情熱的な紅の髪。昔は見上げてばかりで遠かった顔がやけに近く感じた。それは長子の身長が伸びたからだった。改めて見る相手の美しさに目を奪われたのは長子だけではない。帝哀の父も、長子の美貌に一目で惚れたらしかった。
 好きになった人にはもう何人もの妃がいて、しかも、婚約者の父親だった。
 長子は一生隠していくつもりで、彼との密会と文通を続けた。
 それが、一兆九千億年以上も前のことだ。


 ――――目を開けると、桃の花びらが舞い散っていた。
 元宵節の時期、広場は多くの花々で飾られる。桃の花も例外ではなく、うまく摘み取って飾りとされているようだった。
 長子は思う。

(まるで、あの日のようだな)

 彼と再会し、恋に落ちたあの日も、こんな風に花が降っていた。


 ゆっくりと腕を上げ、長子は緩やかに舞った。帝哀の父の目を引きたくて身につけた舞いだ。幼い頃は必死だった。あの時の感情が父親への愛情のようなものなのか恋だったのか今でも分からない。しかし、彼を好きになったのは必然だったと思う。
 長子は舞った。誰よりも努力してきた。どれだけ頑張っても心しか手に入らない人の気を引くために。〝純愛だった〟などとは、冗談でも言えない。互いに正式な相手がいながら、互いを何度も求めていたのだから。
 長子は舞った。結局彼には一度もこの舞いを見せられないままだった。今この場に、あの人がいたならどれだけ幸福だったか。

 長子は舞った。――――願わくば生まれ変わって、別の形でまたあの人と再会できますようにと願いながら。


 その時、甘い蜜の香りがした。いつになく濃い、常に桃の木の様子を見ている長子でも驚くようなきつい香りが。

 広場の向こうから、おどろおどろしい幽鬼たちが大量に飛んでくる。醜い姿をした狂鬼たちも、大きな足音を立てて向かってくる。幽鬼たちを引き連れるようにして、その中心を走っているのは――紅花だ。

(時間稼ぎは成功したか)

 長子が他の妃よりも長く舞ったのには理由がある。もしも紅花の幽鬼集めが予定よりも長く時間がかかってしまった場合の保険として、舞いの時間を長引かせたかったのだ。

(花まで操れるわけではないだろうに)

 心なしか、飾りの花まで楽しげに揺れているように見える。あの紅花という娘は、花をも味方に付けたらしい。


 ようやく大量の幽鬼の存在に気付いたのか、舞いを眺めていた観客たちから大きな悲鳴が上がる。人々は慌てふためき広場から逃げようとするが、人が多すぎて互いにぶつかるばかりで前に進めないようだった。

 そんな中、幽鬼たちを待ち構えていたように立ちはだかる一人の男がいた。――あれは、名高い元武人の魑魅斬だろう。かつてその才能を買われて前宋帝王直属の護衛として働き、周囲から酷く妬まれていた。結果的には、あらぬ罪を着せられ陥れられて、鬼殺しまで降格することになった人物である。
 彼にあったのは軍才のみで、後ろ盾も高貴な血筋もない。そんな彼が罪人として扱われておきながら後宮を追い出されなかったのは、前宋帝王の図らいである。余程彼のことを気に入っていたのだろう。結果、彼は今でも宋帝王の区域にいる。

 魑魅斬は、長子の幼い頃は他区域にまで名を馳せる程有名だった。彼ほどの武人は冥府にいないとさえ言われていた。
 そんな彼が刀を構える。その凛々しさに心を打たれたのか、端に縮こまっていた各区域の鬼殺したちが広場の中心へと走り出し、皇后たちを守るように立ちはだかる。

 騒ぎは大きくなっていき、鬼の死体の匂いが充満した。全ての妃たちが避難したが、長子だけは広場の中心のその場所に立ち止まって、冷静にその光景を眺めていた。

(本当は、本当に殺すつもりだったのだ)

 長子の愛する人を死に追いやった、憎き帝哀。帝哀の命も、他の王の命もどうでもいい。最後に自分が愛する人に会いに行けるならそれでいい。そう思っていた。

(紅花、そなたのせいだ)

 一心不乱に走り、誰よりも早く帝哀をその目で見つけ駆け寄って、襲い来る狂鬼たちに刀を振るうその姿は、泥臭くてがむしゃらで美しい。

(我と同じ、恋をする人間の力強い目。どんな手を使っても、手に入れたい者の目。我はそなたに敬意を表することにする)


 魑魅斬や十区域の鬼殺し、紅花や王専属の護衛のおかげで、一時間も立てば争いは集結した。
 つい先程まで華やかな舞いが行われていた広場は、地獄絵図と化している。
 鬼の死体から発される酷い悪臭が漂い、その匂いにやられた人々の吐瀉物が地面に広がり、逃げ惑う人間同士がぶつかって血も流れている。

「長子皇后様! お戻りください! そんなところにいては危険です!」

 護衛の者が叫んでくる。死体の匂いがきつすぎてこちらには近付けないらしい。長子はゆっくりとそちらを振り返り、凛とした声で言い放った。

「――嗚呼、計画は失敗だ」

 静かになった広場にその声はよく響き、それを聞いた者たちが目を見開く。

「十王全てを殺す計画が、失敗してしまった」

 長子は懐から重たい短刀を取り出し、ゆらりゆらりと帝哀に近付く。観客たちも、長子がまさかこんな重い武器を忍ばせて軽やかに舞っていたとは思わなかっただろう。

「憎き帝哀だけでも、殺すことにしよう」

 数千年単位で会っていなかった帝哀が目の前にいる。彼は一切動じていない。全く動かず、長子のことを紅の目で見上げている。

(……腹立たしい)

 〝彼〟と同じ目の色だ。

 大きく腕を上げ、刀を振り下ろす。

 きんっと音を立てて、その刃は他の刃とぶつかった。

 長子の刃を受け止めたのは紅花だ。この計画を共に立てた紅花と視線が交わる。長子は薄く笑った。


 長子の持つ短刀は弾き返され、くるくると回って飛んでいき、地面に刺さる。


 嗚呼――――終わった。長い長い、桃の花を見て愛しい人をただ思い出す、きらびやかで侘しい、冥府の後宮での生活が。


「――……これは一体どういうことか!」
「長子様が閻魔王様に刃を向けたぞ!」
「あってはならないことだ!」
「まさかこの幽鬼を呼び寄せたのも長子皇后様なのでは……」
「見たぞ! 皆慌てふためいているというのに、長子様だけはあの場に留まり、動じていなかった!」
「長子皇后様が十王への反逆を企てたというのか!?」
「しかし、私にはそこにいる鬼殺しの娘が幽鬼を引き連れて走ってきたようにも――」
「しかし、あの娘は閻魔王様を守っただろう!」

 騒ぎ立てる人々に対し、幽鬼と戦って傷だらけの紅花がはっきりと言う。

「――私は、たまたま外におりました。幽鬼たちが一斉に広場に向かっているのを見て、鬼が迫ってきていることを皆に知らせようと、走ってきただけです」

 実際彼女は幽鬼や狂鬼に果敢に立ち向かい、帝哀を守った。説得力はあるだろう。

 人々は静かになり、紅花の言葉に耳を傾けている。

「そしてもう一つ、長子皇后様の反逆を裏付ける証拠がございます」

 ざわっと人々が再び騒ぎ始める。
 そこへ、一体の掃除鬼が文の箱を持って走ってきた。紅花は掃除鬼からそれを受け取り、皆の前で掲げる。

「これをご覧ください。長子皇后様から、前の閻魔王様に送られた恋文です」

 はっきりと名前が書かれている上に、内容は恋文としか捉えられない、艶めかしいやり取りである。言い逃れはできない。

 誰もが衝撃を受けたように口をつぐみ、何も言わない。

「長子皇后様は、宮殿の棚にこれらを大切にしまっておりました。更に、長子皇后様は、前閻魔王が退位してから一度も現在の閻魔王である帝哀様にお会いしておりません。頑なに拒否していたと聞きます。帝哀様の正妻であるにも拘わらず、です」

 文を箱に閉まった紅花は、至って冷静に結論付けた。

「彼女は恋心を拗らせ、乱心したに違いありません」