美しい庭園や池、豪華な装飾が施された橋、いくつもそびえ立つ大きな宮殿、鶴や虎などの動物の像――紅花にとって見たことのない光景がそこには広がっていた。暗く湿っぽい、長く滞在するだけで気分が落ち込んでくる八大地獄とは大違いだ。後宮内は紅花が想像していたよりもきらびやかだった。
武官や侍女、下女や鬼たちが定められた着物を纏い、様々な仕事に従事している。鬼に運ばれながら、横目にその様子を見てわくわくした。
冥府の後宮は、大きく十個の区域に分かれる。十個の区域の中にそれぞれ王の私室である養心殿があり、その周りに王の複数の妻や女性を住まわせる宮殿がある。後宮は基本的に王以外の男子禁制なのだが、男色家である現宋帝王・飛龍のために、宋帝王の区域のみは男も沢山いるらしい。
飛龍は紅花たちのことを気にも留めず、飽きたようにさっさと私室である養心殿に向かってしまった。紅花と玉風は鬼たちに拘束されたまま、冷宮と呼ばれる質素な物置小屋のような場所に連れてこられた。
冷宮の入り口の前で紅花たちを降ろした鬼は、「魑魅斬《ちみぎり》様、連れて参りました」と誰かに呼びかける。すると冷宮の扉が開き、中から筋肉質な男が出てきた。
扉が開いた途端、うっと隣の玉風が口を手で押さえた。
――酷い悪臭がする。
「ここは鬼の死体を処理する宮だ」
魑魅斬と呼ばれた、筋肉質な男が淡々と説明してくる。小麦色に焼けた肌と、顔の傷跡が印象的な男だ。彼の手の中には鬼の血で汚れた桃氏剣があった。
「嬢ちゃんたちにはこれから、ちと酷だが、後宮の汚れ仕事〝鬼殺し〟をしてもらう」
「鬼殺し……」
玉風が絶望の表情を浮かべる。
鬼は、死ぬ時に独特の異臭を放つ。それこそ、気分が悪くなるだけでなく、嗅げばその後数日は体調を崩すほどの異臭だ。そのため、寿命が近付き狂った鬼の処理や、死体の片付けは、冥府で最も忌み嫌われる仕事である。
「後宮には鬼が多いんだよ。鬼は優秀だが、ふとした瞬間に狂う。毎日数体は殺さねばならぬ鬼が出てくる。そういう鬼を狂鬼と呼ぶ。――そして、後宮にしか現れない鬼もいる」
魑魅斬が冷宮の天井を指差した。ゆらゆらと白い靄のようなものが蠢いている。確かに、紅花は見たことのないものだ。しかしあれが鬼の一種であることは分かる。先程から何度も――呼びかけてくるから。
「あれは、地獄で苦しみ続ける死者の恨みが具現化したもの。幽鬼と呼ばれている」
「そんなものが……」
「地獄に落とされた人々は、自身を裁いた十王が余程憎らしいんだろうな。あのような生霊を日々飛ばしてくるくらいだし。いや、死者なんだから、生霊とは言わねーか?」
何がおかしいのか、魑魅斬がくっくっと笑った。
その時、玉風が床に向かって嘔吐する。鬼の死体の異臭に耐えられなかったのだろう。既に顔からは血の気が引いており、体調も悪そうだ。
「……玉風姉様は別の場所で休ませてくれないかしら。私の方がこの臭いには強いようだし」
「なんだ、弱っちいな。ま、使い物にならないなら仕方ねえ」
魑魅斬がつまらなそうに桃氏剣を持ち直すので、紅花は慌てて玉風を庇うように立ちはだかった。
「殺さないで」
「おいおい、嬢ちゃん、後宮では仕事のできない奴は殺されるんだぜ。この場所はそう甘くねえよ」
後ろで苦しんでいる玉風をちらりと見た紅花は、覚悟を決めて言い切った。
「なら、玉風姉様の体調が治るまで、私が玉風姉様の分の仕事も引き受けるわ」
「……初心者が、最初から十分に殺しの仕事ができると?」
「死者の魂を苦しめ続ける獄吏の仕事より、ひと思いに殺せる殺しの方がよっぽど心が楽よ」
本当はやりたくない。でも、玉風をこんなところまで来させてしまったのは自分だ。その責任は取らねばならないと思った。
魑魅斬はふん、と鼻を鳴らし、一枚の地図を紅花に投げてくる。
後宮内の地図のようだった。受け取ってから真っ先に探したのは、閻魔王の養心殿の位置だ。残念ながら閻魔王の区域はこの後宮の最北であり、南に位置する宋帝王の区域とは真逆の方向にある。
(同じ後宮内とはいえ、徒歩で行こうとすれば物凄い距離ね……)
少なくとも、夜に冷宮を抜け出してこっそり迎えるような距離ではない。
(空を飛べる鬼に協力してもらって運んでもらおうかしら)
悪巧みを考えていると、魑魅斬が宋帝王の区域内の御花園と書かれた庭園らしき場所を指差す。
「ここによく幽鬼が出るという声が上がっている。下女たちが怖がって仕事に差し支えるようだから、さっさと駆除してこい」
「……分かったわ」
「普通の武器で鬼は殺せねぇ。これを持ってけ」
魑魅斬が持っていた桃氏剣を渡してくる。想像以上の重さだ。
「嬢ちゃん、これまでは鬼と仕事してきたんだろ。だが、幽鬼や狂鬼は普通の鬼とは違う。意思を持たない化け物だ。躊躇いなく殺せ。できるか?」
「選択できる立場じゃないし、言われなくてもやるわよ」
「いい子だ」
紅花の強気な返事が気に入ったのか、魑魅斬はくっくっと低く笑うのだった。
■
仕事とは、最初から誰の助けもなくできるものだっただろうか――と紅花は疑問に思う。
魑魅斬から与えられたのは桃氏剣と、幽鬼の死体を入れるための箱と、幽鬼が出るという場所の情報だけで、それ以外は何も持たずに冷宮から出されたからだ。やるとは言ったが、最初から丸投げされるとは思っていなかった。
しかし、魑魅斬はわざわざ冷宮の上階、少し鬼の死体の臭いが弱い場所に玉風の寝床を確保してくれたため、あまり文句は言えない。今は玉風を殺さずにいてくれただけでも感謝しなければならないだろう。
地図を見ながら御花園に着いた紅花は、視界いっぱいに広がる景色に見惚れた。青や黄、紫など、色とりどりの花が咲き誇っている。
久しぶりにこんなに多種類の花を見た。これほど花を植えられるのは後宮だけだろう。外で熱に弱い花を育てればたちまち地獄の熱で焦げてしまう。外廷に咲いているのは、熱に強い血のように真っ赤な花だけだ。
『幽鬼 ヲ 捜しに 来た ノ』
――声が聞こえる。花の声である。
『ここには いない ヨ』
「……ここにいると聞いたのだけど」
『昨日は ココ だった でも 今 は 養心殿 ノ ちかく』
「分かった。教えてくれてありがとう」
教えてくれたのは紫色の、花弁が六枚ある花だった。紅花はその花に微笑みかけた後、再び地図を確認して宋帝王の養心殿へ向かう。
(勝手に近付いたら駄目だったらどうしよう……)
宋帝王、飛龍の立派な宮殿が見えてきた辺りで不安になってきた。地獄の十王のうちの一人の住処に下手に近付いて怪しまれでもしたら今度こそ打首だ。
おそるおそるといった感じで養心殿近くの池に近付いた紅花は、奥から人の声がするのを聞いて立ち止まる。
「いけません、飛龍様……! 貴方のようなお方と僕では釣り合いが取れません!」
「身分を言い訳にする男は嫌いだよ。ほら、俺に身を任せて……」
「あっ……そこは……そこを触ってはなりませぬぅ!」
(………………)
飛龍が、格好からしておそらく武官らしき男を襲っている。とんでもない場面に出くわしてしまったと思い、紅花はげんなりした。
飛龍が男色家であることは後宮の外でも知られていることだ。彼は何人もの妻を持つにも拘わらず、何人もの男にも手を出していると聞く。
さっさとこの場を立ち去り、部屋へ連れ込んでくれないだろうか。このままでは幽鬼を捜すに捜せない。
体を弄られている武官と飛龍の様子を物陰からこっそり窺っていると、飛龍の動きがぴたりと止まった。
「――誰だ」
低い声で問いかけられる。
今逃げたらややこしいことになると思い、紅花は諦めて姿を現した。
「君……さっきの……」
「うっ! 鬼の死体の臭い……鬼殺しですか」
紅花が近付くと武官は不快感を顕わにし、自身の鼻を摘む。冷宮に居たのは少しの間だが、既に臭いが体に移ってしまっているらしい。
「こちらに幽鬼がいると聞いて来たのだけれど、取り込み中だったからさっさと退いてくれないかと待っていたのよ」
事情を説明し、場所を変えてくれないかと伝える。
しかし、飛龍は興が冷めたように「また今度にしよっか」と笑顔で武官を追い払った。既に下半身が露出されていた武官は慌てて服を着直し、素早く去っていく。
「鬼の死体の臭いを嗅いだ後じゃ、気分も乗らないからね」
飛龍はそう言い、池の近くにある椅子に腰を下ろした。これから鬼殺しをするというのにまだここにいるつもりらしい。
紅花は空中を見つめ、目視で幽鬼を捜しながら興味本位で飛龍に問う。
「宋帝王の区域のみ後宮なのに男性の出入りが許されていると聞くけれど、本当なのね」
「ああ、そうだね。後宮にいる男は大体俺のお手付きだよ」
「皇后様や皇貴妃様はこのことをご存じで?」
「俺がこういう奴だってことは皆知ってるよ。妻のことは好きだけど、それはそれとして男が好きなんだよねえ」
「…………」
宋帝王は一応、邪淫の有無を調べ、裁く王であるはずだ。その王自身がこのようなことで良いのだろうか。
そこでふとあることを思い付く。
「まさか、魑魅斬も……?」
大体お手付き、という言葉に引っかかった。あの屈強な男が飛龍の下に敷かれるなど想像も付かないが、この後宮内にいるということは飛龍のお相手でもおかしくはない。
飛龍はにやりと笑った。
「さあ。どう思う?」
答える気はないようだ。そもそもどちらでも紅花には関係がない。これ以上無駄話をするのはやめておこう、と飛龍の傍を離れる。
その時、声がした。
『お前の刀、嫌いだ』
見上げると、池の近くの木々の間で、白い靄のようなものがゆらゆらと揺れている。実体はないが、紅花の方を見ているように感じた。
(何が〝意思を持たない化け物〟よ)
花よりもはっきりと声が聞こえる。おそらく幽鬼にも思考はあるのだろう。
「後宮から出ていってもらうことは可能かしら?」
幽鬼に向かって問いかける。
先程の説明通りであれば、幽鬼は死者の魂の中にある憎しみのようなものだという。生前の罪を裁き、地獄に落とした十王を恨んでいるというのであれば筋違いだ。
「罪の責任は、取るべきものよ。恨むなら自分自身にしなさい」
『ア……ア……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼――』
さっきは確かに言葉を喋っていたのに、突然意思疎通が困難になった。
強風が吹き、勢いよく白い靄がこちらへ向かってくる。紅花は咄嗟に桃氏剣を幽鬼に向かって投げた。ずしゅっと確かに何かを刺したような音がし、直後、悲鳴が木霊す。鼓膜を破られる程の大音量に、思わず耳を押さえて蹲る。
悲鳴はしばらくして途絶えたが、がんがんとした頭痛がいつまでも続いた。