あっという間に、元宵節の祭りの前日がやってきた。
 後宮内はどの区域も華やかに飾られ、紅々とした火の灯る提灯が空に浮かんでいる。木に吊るされた提灯が揺れ、まるで炎の樹がいくつも立っているようだ。他区域と他区域の間の門も今日から鎖が外され門番もいない。いよいよ祭りの前日ということで、人々が浮足立っているのが分かる。
 そんな中紅花は、天愛皇后の宮殿に呼ばれていた。

「素晴らしいです、天愛様!」
「冥府一の皇后様ですわ!」

 あれから立派な天愛皇后の信者となってしまったらしい侍女たちがうっとりと衣装の試着をする天愛皇后を見つめている。
 天愛皇后の衣装の背に金色に光るのは――白虎の刺繍。白虎というのは伝説上の四獣の一体で、朱雀と同格の神とされている。長子皇后の刺繍と同格の存在を縫うとは、喧嘩を売っているとも取られかねない行為だろう。しかし実際、挑発しようとしているのだから問題はない。
 うふふ、と天愛皇后が笑う。

「貴女たちが頑張ってくれたおかげよ。本当にありがとう。今度貴女たちにも新しい衣装を贈るわ」

「そんな……勿体ないお言葉です」
「天愛様、なんてお優しいの……」

(……飼い慣らされている……)

 紅花は侍女たちの様子を見てぞっとした。嫌がらせをする程だった彼女たちをここまで従順にさせるとは、天愛皇后の人心掌握術は恐ろしい。

「この短期間で素材を用意するのは大変だったでしょう」
「紅花が早めに情報を盗んできてくれたおかげよ? 貴女もありがとう。頼りになるわね、本当に」

 ちゅっと天愛皇后が紅花の額に唇を重ねた。

「きぃぃ! 天愛皇后様に口付けしてもらえるなんて羨ましい……!」

 隣から侍女たちの嫉妬の叫びが聞こえてきたが、相手にするのも面倒なので視線を逸らして聞こえなかったふりをした。

「今夜わたくしのお部屋に来る?」

 こそっと耳元で囁かれる。天愛皇后の甘い声に流れで了承してしまいそうになったが、はっとして「……いえ。そのような趣味はありませんので」とお断りした。

「あら、残念」

 ふふふと紅花から離れた天愛皇后は、長子皇后にも負けない程に美しい。

(……どこまで本気なんだか)

 妾として狙われているにしても、皇后と鬼殺しでは釣り合わない。そもそも皇后の妾って何なんだ。でも、元々奴隷だったことを考えると、天愛皇后にそのような身分による差別意識はないのかもしれない。自分には帝哀という想い人がいるのだから、この美貌に流されて襲われないようにしないと、と改めて決意した。


 ■

 紅花の振り下ろした剣によって、ぐしゃりと音を立てて狂鬼の死体が崩れ落ちる。庭師から鬼殺しに戻ったばかりの頃は一時抵抗感を覚えたものの、繰り返しているうちにまた慣れてきた。死体を回収しながら、剣に付着したどろりとした液体を拭いていると、こちらに近付いてくる誰かの足音がした。
 魑魅斬だろうか。でも彼の今日の見回りはこの辺りではないはず……と不思議に思って顔を上げる。――そこに立っていたのは、閻魔王、帝哀だった。

「帝哀様! どうしてこちらに? 裁判の方はよろしいのですか?」

 思わず駆け寄りそうになったが、その前に帝哀に鬼の死体の臭いを嗅がせるわけにはいかないと思い、急いで死体を片付ける。
 ふ、と帝哀が笑った。

「元宵節の前は全ての裁判がなくなるんだ。それにしても、まるで主人の来訪を喜ぶ犬のようだな。後ろに尻尾が見えそうだ」
「だって会えて嬉しいんですもの。帝哀様がお望みなら、犬でも何でもなりますよ」
「へえ?」

 壁に背を預けて紅花の仕事を見下ろす帝哀は、興味深そうに目を細める。

「本当に飼ってやろうか?」
「……!」
「冗談だ。食い付くな」

 紅花が頬を綻ばせると、帝哀がおかしそうに噴き出す。帝哀は最近、紅花をからかうことが増えた。気を許してもらえたようで嬉しい。

「明日の元宵節について話したかったんだ。お前、暇か?」
「暇というか……。鬼殺しの仕事があります。祭りの最中に人が襲われてはいけないので」
「見回りか。なら、俺も一緒に回っていいか?」

 勿論――と答えようとして、そこではたと、飛龍とした約束を思い出した。

「ぜひ、ご一緒したいです。ただ……飛龍様もいますけどよろしいですか?」
「は?」

 帝哀の声が急に低くなる。先程までの柔らかい表情とは一変、顔も怖くなったので紅花の背筋が伸びた。

「飛龍様とは以前から約束していまして」
「飛龍と? 以前から? 元宵節を共に回ると?」
「は、はい……」

 帝哀の目が恐ろしすぎて叱られた子供のように声が小さくなる。帝哀はじとっと紅花を見つめた後に恨み言を言う。

「俺が好きだと言ったくせに、浮気者め」
「ええ!? 勿論好きです! 飛龍様とは比べ物にならないくらい大好きです!」
「どうだかな。大体、以前から思っていたが、お前は飛龍と仲が良すぎじゃないか?」
「仲が良い…………? え? そう見えますか? 本当に……? 私と飛龍様がですか?」

 いくら思い返しても飛龍とは言い合いをしている回数の方が多い。どこをどう見てそのような判断がなされたのだろうか。
 不思議に思っていると、通路の向こう側から聞き慣れた楽しげな声がした。

「ねえねえ、ひょっとして俺の話してるぅ?」

 飛龍だ。閻魔王に裁判の仕事がないということは、宋帝王にもないということ。彼も暇していたのだろう。
 隣の帝哀があからさまに眉を寄せた。

「何だよその顔。俺がいちゃおかしい? ここは俺の区域だよ? どっちかって言うと、何で帝哀がこっちに来てるのかの方が不思議なんだけど」

 飛龍はその緑色の眼を光らせて言う。

「もしかして、紅花に会いに来たの?」

 帝哀は淡々と、「ああ」と短く肯定する。
 意外だと思ったのか、飛龍の口角がゆるりと弧を描いた。

「ふうん。いつの間にそんなに仲良くなったんだか」
「毎日共に寝ている仲だからな」

 さらりと飛龍に一緒に寝ていることを暴露され、紅花の顔が熱くなる。

「……聞いてないけど?」

 飛龍がじとりと紅花を見つめる。

「……別に飛龍様に伝える必要性もないでしょう」
「君、冷宮で寝てるんじゃなかったの?」
「結構前から、夜は帝哀様の養心殿へ行くようになったのよ」
「へえー? ふ~ん? やーらし。そんなことしてたの、帝哀」

 飛龍はにやにやしながら、今度は帝哀に視線を移す。

「俺がその女に手を出すことに何か不都合でも?」

 ぴしりと飛龍と帝哀の間の空気が凍ったような気がした。

「何その態度。言っとくけどねえ、紅花は俺が先に見つけたんだよ?」

 飛龍の目が笑っていない。

「先に見つけたから何だ? 紅花は俺に会いに後宮に来たんだが」

 帝哀も、心なしかぴりついているように見える。

(な……何よこの空気……)

 相対する飛龍と帝哀を交互に見つめながら居心地の悪さを感じていると、そこへ文通鬼が走ってきた。

「手紙です! 手紙でーす! 紅花様宛てでぇ~す! って、わァ!! ひっ、何で十王様がこんな狭いところに!?」

 様々な文を何十通も預かって運んでいるであろう文通鬼は、大きな袋を持ったまま飛龍と帝哀の姿を見て腰を抜かした。
 確かに、十王のうちの二人がこんなところに固まっているのは不自然だ。紅花は驚いて声も出なくなった様子の文通鬼から手紙を受け取った。
 文字を読めないので、傍にいる帝哀に内容を確認してもらった。

「長子からだな。〝茶を用意した、今日中に来い〟と書かれている」
「元宵節の前日なのに、忙しくないのでしょうか……」
「準備は早々に終わっていて、逆に今暇なんだろう。それより……お前は俺にだけ畏まっているな」
「え?」
「飛龍には馴れ馴れしい口調だ」

 意図が分からず戸惑っていると、飛龍が紅花の首根っこを掴んで自分の近くに引き寄せる。

「なぁに~? 紅花に友達みたいに接してほしいってことー? 俺らが仲良しすぎて羨ましーの?」
「…………」
「ま、しょうがないよねえ。実際、仲良しだし」

 また空気が凍る。腰が抜けたままの文通鬼が地面を這って逃げていくのを見て、紅花も「あの……長子皇后様に呼ばれているので…………」とか細い声で伝えてその場を去った。
 少し距離を置いてから後ろを振り返ると、二人はまだ何か喋っているようだった。

(あの二人、仲良かったはずだけど……)

 何だか今日はどちらも不機嫌だった。不思議に思いながら、運び鬼を利用して閻魔王の区域へ向かう。今日は門番がいないため、比較的区域間の移動が自由だ。