後日、長子皇后から宮殿への招待状が届いた。最初は鬼殺しの仕事があるため断ろうとしていたが、たまたま冷宮に来ていた玉風に話すと、「皇后様からのお誘いを断るなんてとんでもない!」と怒られた。魑魅斬にもそれは行けと言われたため、仕方なく仕事を休んで朝から閻魔王の区域に訪れた。
「何だその顔は。招待しろと言ったのはそなただろう」
「言ったけど、まさか本当に入れてくれるとは」
紅花が余程訝しげな顔をしていたのか、長子皇后は不服そうに唇を尖らす。彼女は絹でできた薄い服を身に纏っておりいつもより身軽そうだ。
長子皇后の周囲を囲む侍女たちは鼻を押さえ、紅花のことを睨み付けている。臭いから帰れという意思が露骨だ。紅花はそんな侍女たちの目を無視し、長子皇后に提案した。
「こんなに大勢いると緊張するから、侍女たちは別室へやってくれない?」
長子皇后が口を開くより先に、周りの侍女たちが怒る。
「貴女、なんてことを言うの!」
「貴女のような下賎の者と皇后様を二人にすることなどできません! 何をされるか分かったものではないわ!」
侍女たちが次々と反対する中、長子皇后は淡々と命じる。
「構わん。退け」
「しかし……!」
「我がいいと言っておるのだ。退け」
侍女たちはぐっと口籠り、身を低くして部屋の外へ出ていく。
「すまなかった。うちの侍女は事あるごとにうるさくてな」
「長子皇后様を思ってのことでしょう。侍女としてあるべき姿だわ」
「……そうだな。ああ見えて良い子たちなんだ。親しくしてやってくれ」
意味ありげにそう言って歩き始めた長子皇后は部屋の奥の簾を上げた。
「我が元宵節で着るものを知りたがっていたな。こちらだ」
そこには目を見張るような衣装と冠が飾られていた。一際目を引くのは、大きな金色の朱雀の刺繍。ただでさえ美しい長子皇后がこれを身に纏えば、一体どんなに魅力的だろう。
既に天愛皇后には、長子皇后の衣装に朱雀の刺繍があるとは伝えてある。しかしこれほどの一品とは。
「満足か?」
長子皇后が得意げに笑って衣装の台の前の簾を下ろす。紅花はこくこくと頷くことしかできなかった。
「気合が入っているわね」
「美しすぎて、そなたの想い人の心を射止めてしまうやもしれん」
「それはだめよ」
即座に返すと、長子皇后はくっくっとおかしそうに肩を揺らす。
確かに、元宵節で着るとなると嫌でも帝哀の目には止まるだろう。いくら帝哀が妃たちに興味がないとはいえ、これほど美しければ心を奪われてしまうかもしれない。紅花は不安に襲われた。
――その時、冷え冷えとしたよく知る異形の気配がした。
咄嗟に振り返る。部屋の反対側の隅にいたのは幽鬼だ。おそらく少し前からいたのだろうが、静かすぎて侍女たちも気付いていなかったのだろう。まだ子供に見える。
紅花がそちらに目を向けたことで長子皇后もその存在に気付いたのか、身を固くした。
「……動かないで。いい子だから」
紅花は幽鬼に優しく話しかける。
『……ここじゃ、ナイ? 王、イナイ?』
「ここに王はいないわ。場所を間違えている。ゆっくり、元の場所に戻りなさい」
鬼殺しとして働いているうちに、幽鬼や狂鬼の中には言葉の通じる鬼が一定数いることが分かってきた。最近はこうして言葉をかけてみて、反応があれば殺さずに去ることを命じるようにしている。その方が独特の異臭も残らない。
魑魅斬はそもそも普通の鬼殺しには鬼の心の声が聞こえないので意思疎通は無理だと言っていた。これは紅花にしかできない特殊な鬼のあしらい方だろう。
子供の幽鬼は紅花の言葉を理解したのか、しばらく紅花を見つめた後、ゆらりゆらりと揺らいで外へ逃げていった。
その様子を見ていた長子皇后が驚いたように聞いてくる。
「……そなたは鬼を操れるのか」
「操るなんて大層なものではないわ。ただ、幽鬼や狂鬼にも心があるのよ。優しく伝えてあげれば、言うことを聞いてくれることがある」
長子皇后は何か深く考えるように黙り込んだ後、「そうか」と呟いた。
「と言っても、全ての幽鬼があの子みたいに大人しいわけじゃないから、凶暴な場合は殺すしかないけれどね。特に狂鬼は乱暴な者が多いわ」
「そなたは凄いな。今は武器を持っていないのだろう? 我は怖くて一歩も動けなかった」
確かに、宮殿に入る前に武器の類は全て没収されている。もしあの幽鬼が暴れん坊だった場合、いつものようには対抗できなかっただろう。だがその時は長子皇后の護衛を呼び出せばいいだけの話だ。
「あら、夜中に一人で月を見に行く勇気がありながら、鬼が怖いの?」
さっきからかわれたお返しにからかってやる。長子皇后は少しむっとした顔をした。
「それとこれとは話が別だ。月を見に行けるのは、愛の力というやつだな」
「分かるわ。私も、愛の力で王の車の前に立ちはだかったもの」
「そなたはもう少し気を付けた方がよいのではないか? 生かされたのは宋帝王の気紛れだろう。今あるのはたまたま拾った命だ」
「そうね。運が味方してくれているみたい」
「……運か」
長子皇后は俯いてぽつりと言った。
「そなたとたまたま出会えたことは、おそらく我の強運と言えるのだろうな」
「何故? 私、何もしてないわよ?」
「そなたには分からないだろうが、我はそなたのような人間が現れるのをずっと待っておったのだ。それこそ一兆年を超える時の中でな。だからどうか――我の存在をもっと呪ってくれ」
意味が分からない。しかし、長子皇后は紅花の質問を遮るように別れの挨拶をしてくる。
「また呼ぼう。今度はうまい茶を用意する」