後日、予想通り天愛皇后から戻ってくるようにとの知らせが来た。
 少しの間だったが共に仕事をした庭師のおじさん達は、紅花を「元気でなー!」と明るく見送ってくれた。紅花のような即席庭師を、技術面でも劣るだろうに歓迎してくれた彼らには感謝しかない。
 宋帝王の区域に戻るための軒車は飛龍が用意してくれた。天愛皇后に迎えに行くよう命じられたらしい。相変わらず便利な道具として使われているようだ。惚れた方の負けとはよく言ったものである。

「おかえりぃ。庭師、楽しかった?」

(何で機嫌良いのよ、こいつ……)

 いつも以上ににこにこしている飛龍を怪しく思いながらも、軒車に乗り込む。

『ばいばい』
『バイバイ』
『また戻ってきて ネ』

 後ろの桃の花たちが紅花に挨拶をする。

「またね」

 紅花が花に向かって少し声を張ると、飛龍が気味悪がってきた。

「どこに向かって言ってんの? 花?」
「ええ。向こうから挨拶してくれたから」
「それ、俺以外の前で言わない方がいいよ」
「言われなくても分かってるわよ」

 花に話しかけているなんて言えば、妄想の激しい変人扱いされそうだ。紅花のこの能力を知っている人は、宋帝王の区域の者たちくらいである。庭師のおじさん達にも結局最後まで明かさなかった。

「それでいーよ。花の声が聞こえるからって庭師として周囲に気に入られて帰ってこなくなっても困るし」
「貴方は別にそれでも困らないんじゃないの?」
「天愛が君のことを気に入ってる。俺は妻の欲しがるものは何でも与えてやる主義なんだ。それに君のこと、まだいじめ足りないしね」

 最後の一言が余計だ。紅花の中の負けず嫌いな部分がむくむくと出てくる。

「貴方はいじめているつもりかもしれないけど、私は今のところいじめられている心地はしない。むしろ後宮に来てから良いことばかりだわ」
「はぁ~? 君、ほんと強いね。未経験で鬼殺しなんて任されたら大抵の女の子は三日で心が折れて泣きついてくるはずなのに」
「私には効かなかったってことみたいね?」

 強いて言うなら、毎度入浴の最中に話しかけられて迷惑しているくらいだ。
 ふふんと笑ってやると、むっとした飛龍にまた頬を抓られた。


 ■

 運び鬼たちのおかげで、日が暮れる前に冷宮に到着することができた。

(折角だから久しぶりに魑魅斬の作った夕食が食べたかったのよね)

 冷宮に入ると、換気したばかりなのかいつもより鬼の死体の臭いは薄かった。しかし久しぶりに嗅いだということもあり、少しだけ気分が悪くなる。
 顔を顰めていると、後ろからとんとんと肩を叩かれる。
 冷宮に、玉風が来ていた。

「玉風姉様……どうしてここに」
「最近料理場の仕事にも慣れてきて、早く終われるようになったのよ。臭いが移るから冷宮に来ることは禁止されているけれど、たまにこっそり来ているの」

 その時、奥の調理場から魑魅斬が元気そうに手を振ってくれた。

「おお、嬢ちゃん、おかえり! 蟹焼いてるところだぜ」
「蟹……」

 出そうになった涎をじゅるりと戻す。
 玉風と調理場から少し離れた位置にある卓を囲んで座り、魑魅斬の料理ができあがるのを待つ。

「ちょうど魑魅斬と、一緒に玉風姉様に会いに行こうと話していたところだったのよ。玉風姉様の方から来てくれるなら好都合だわ。鬼殺しなんて、料理場にはなかなか入れてもらえなそうだし……」
「魑魅斬さんと?」

 ぴくりと玉風が反応した。そして、小声で聞いてくる。

「魑魅斬さん、他には何か言っていた? 私のこと」
「他に? いや、特には……」

 どういう意図の質問だろうと首を傾げる。
 玉風は料理をする魑魅斬の方をじぃっと見つめた。――その表情はまるで乙女のようだ。愛おしそうに目を細めている。

「……玉風姉様……まさか」
「私、魑魅斬さんのことが好きみたい」
「ええ!?」

 地獄で働いていた頃、恋愛のれの字も出してこなかった玉風が、いつの間にか魑魅斬を慕っていた。
 紅花は驚きつつも魑魅斬の姿を盗み見る。確かに筋肉は綺麗に付いていて体つきもよく、料理はうまい。頼りにもなる。しかし、紅花にとってはあくまでも兄貴分であり、そのような目では見たことはない。
 初めて聞く姉貴分の恋の話に何だかむずむずした。獄吏をしていた時の玉風はその鬼も顔負けな鬼畜さから同僚の男たちから怖がられていて、一度もそのような雰囲気になったことはないと聞いている。

「ど、どういうところが好きなの?」
「ここに来た当初、優しく看病もしてくれたし、そこでよく話すようになって。料理場の人間になってからも、勇気を出して会いに行ったら『よく来てくれたな』って笑顔で迎えてくれたのよ。その笑顔がかっこよくて男らしくて……ああ、私好きなんだなって」
「いや待って、魑魅斬は最初玉風姉様のことを殺そうとしてたわよ?」
「それは、お仕事に対してそれ程真面目ということでしょう?」

 恋は盲目。どこかで聞いた言葉だ。

「これまで紅花のことを馬鹿にしていて悪かったわ。私、恋愛をしたことがなくて、恋がこんなに己の内で荒ぶる感情だとは思ってなかった。こんな感情を抱え続けていたら、そりゃ王の軒車に突っ込みたくもなるわ」
「いや、そこを肯定されるのも何か違う気がするけれど……」

 紅花が苦笑すると、玉風は付け加えた。

「私を巻き込んだこと、もう許してるって意味よ。私を料理場に移すよう、皇后様に頼んでくれてありがとうね」

 言いたかったのはそこらしい。紅花はずっと玉風を後宮まで連れてきてしまったことに申し訳なさを抱えていたので、内心ほっとした。
 その時、魑魅斬が料理を運んできた。まだ熱く湯気が出ている。熱いうちに食べるのが冥府流だ。急いで鍋から自分の器に流し込んだ。
 ちらりと玉風の様子を窺うと、やはりあの恋する女の目でうっとりと魑魅斬を見つめている。

(……可愛い)

 玉風のこんな顔を見るのは初めてだ。怒った時はあんなに口うるさくて怖いのに、恋をするとどんな女性もこんなに柔らかい表情をするのかと驚かされた。


 その夜、閻魔王の区域からの迎えが来た。

(本当に来てくれた……)

 来てくれなかった場合は、掃除鬼を脅して連れて行ってもらおうと思っていたところだ。迎えに来た小さな車を運ぶのは王に仕える直属の鬼らしく、豪華な帽子を被っており、顔が見えない。乗り込むと、車は空高く飛び上がっていった。
 魑魅斬にも一応このことは伝えてあるので、紅花がいなくなっても驚きはしないはずだ。「お前が? 閻魔王様の養心殿に?」と疑いの目は向けられたが。
 車に揺られているうちに眠くなってきた。魑魅斬の料理で満腹なので眠気を誘われる。少し寝てしまおうと目を瞑る。

 しばらくすると、車が大きく揺れて目が覚めた。帝哀の養心殿の前に到着したらしい。いくら優秀な王直属の鬼といえど、さすがに着地時は車を揺らしてしまうらしい。紅花は鬼たちに礼を言って養心殿の入り口に向かった。
 帝哀が待ってくれている。

「お久しぶりです、帝哀様」
「昨日会ったばかりだろう」
「帝哀様に会えない時間は永遠の時のように長く感じます」

 帝哀がふいと顔を背けて歩き始める。冗談として捉えられてしまったようだ。

 養心殿は相変わらず暗かった。帝哀が近付くと炎が灯るが、離れると消える。先の見えない通路を歩きながら、ふと今日見た出来事を思い出した。

「私が帝哀様に向ける感情は崇拝であって、恋ではないような気がしてきました」
「何だと?」

 帝哀が立ち止まって不可解そうに振り返ってきた。
 魑魅斬を愛おしそうに見つめていた玉風の、乙女のような表情を思い出す。

「今日、恋をしている女性の顔を見たんです」
「それがどうした」
「私はあんな風に、可愛い顔はしていないなと……」

 紅花はあの時、劣等感を覚えた。紅花の帝哀への感情は、好きなどという可愛らしいものではない。あんな風に可愛くはいられない。帝哀にも実は重く感じられているのではないかと不安になった。
 俯く紅花に、帝哀が言った。

「お前は可愛い顔をしている」

 びっくりして顔を上げる。帝哀の顔が間近に来ていた。

「確かに歪んではいるが、俺はそれを恋でないとは思わない」

 真っ直ぐ目を見て言われ、顔が熱くなっていった。

「ほら。可愛いじゃないか」

 帝哀がにやりと笑って再び歩き出す。また、初めて見る表情だ。帝哀の新しい一面を見るたびにもっともっと好きになっていく。

「……帝哀様、好きです」
「知っている」
「やっぱり恋愛として、好きです。帝哀様の正妻になりたいです」
「それは難しいんじゃないか?」
「なっ……酷いです、帝哀様。でも私、絶対貴方のこと手に入れますから」

 私は嘘を吐きません――繰り返しそう伝えると、暗闇の中、帝哀の口角がまた上がった。
 気のせいかもしれない。でも、帝哀との距離が、少しずつ縮まっている気がした。