「……まさかね」
そうだとしても、理解できない。冥府の王の正妻という世界一贅沢な立場になっておきながら、どうしてその座を放棄するのか。自死など考え過ぎな気がしてきた。
紅花が深く考えているうちに、隣の飛龍が立ち上がった。
「収穫がないなら俺は帰るよ」
紅花はそこではっとして、慌てて付け加える。
「天愛皇后様に伝言をお願い。元宵節の長子皇后様の召し物には朱雀の刺繍があると聞いたわ」
飛龍は少し驚いた顔をした。
「なんだ、結構情報掴んでんじゃん。何でさっき言わなかったの?」
「……帝哀様が、嘘を吐く女は嫌いだと言っていたのを思い出したの」
さっきは咄嗟に誤魔化してしまったが、帝哀に嫌われるのは嫌だ。極力誰に対しても嘘は吐かずにいたい。
すると、飛龍がにやりと笑って覗き込んでくる。
「君、好きな男に染まる性質でしょ」
「……何よ、悪い?」
「いいなあ。俺もちょっと染めてみたいかも。君のこと」
飛龍の甘い香が香る距離。緑色の目が愉しげに紅花を観察している。
「なぁんであんな堅物が好きなのか分かんないな。遊ぶなら俺の方が楽しいよ?」
「遊びのつもりで帝哀様を好きなんじゃないわ」
「だろうね」
飛龍がふふ、と柔らかく笑った。その笑顔が何か企んでいるように感じられて恐ろしい。
「元宵節の日、一緒に後宮を回ってあげようか。君、迷いそうだし」
「王様はお忙しいんじゃないの?」
「全然。むしろ暇だよ。元宵節の主役は女性たちだからね。十王は最後の舞を観に中央に集まるくらいかな」
「変な噂が立って貴方の妃たちに嫉妬されても困るわ。遠慮しておく」
「なら、君が男装すればいい。俺がその辺の男を引っ掛けて遊ぶことはよくあるから、俺の妻たちもただの遊びだと理解してくれるだろう」
何を言い出すんだこの男は、と紅花は眉を寄せる。
どうにか断れないものかと頭の中で理由を探した。
「でも多分、当日は私にも鬼殺しとしての見回りがあるわ」
「俺がそれに付いていくよ」
「鬼の死体は臭いわよ」
「十王は皆嗅覚が鈍感なんだ。俺は平気だよ」
「いやでも……」
「あーもう、でもでもってうっせぇな。この俺が誘ってんだから喜びなよ」
まずい、飛龍の笑顔が引きつっている。これ以上断ったら機嫌を損ねるだろう。
「……分かった。じゃあ、お言葉に甘えて案内してもらおうかしら」
「ん、いい子」
ちゅっと額に口付けしてきた飛龍は、不意に何かに気付いたように顔を顰めた。
「……君、何で帝哀に印付けられてんの?」
「え?」
「おでこ。何かされたでしょ」
「ああ……居場所が分かるようにって」
「帝哀が? 何で?」
「私が帝哀様の代わりに罰を受けたから、気にしてくださっているのよ」
その話、聞く? と浮かれた気持ちで自慢話を始めようとした紅花だが、見上げた先の飛龍の目が全く笑っていなかったので口を閉ざす。
「――俺が先に見つけて唾付けた女に横から手出しされるの、いい気はしないな」
声が明らかに低い。どこからそんな声を出しているのか。
いつもなら言い返すところだが、今は怒らせてはいけない気がして黙り込んだ。
すると、「なァんてねぇ」と飛龍は急ににっこりと笑った。さっきの人を殺しそうな雰囲気はどこへやらだ。
「……あの」
「いいよいいよ、どうせ君がこの区域にいるのもあと少しだしね。今は楽しんでおくといいよ」
そう言って去っていく飛龍の背中を見ながら、紅花は複雑な気持ちになった。
(まるで私が自分の妾であるみたいな言い草ね)
玩具が他の人間の手に回って不機嫌になる子供のようだった。あの男、自分の区域に一度でも入った者は全員自分の所有物だと思っているのではなかろうか。
『アナタ もう 帰るノ』
――その時、花の声がした。この花園の桃の花たちは気紛れなので、声をかけてきたのはしばらくぶりだ。
「帰りたくないけれど、帰らされるかもしれないわ。用が済んでしまったから」
『帰るな カエルな』
『救って すくって すくって』
紅花は立ち上がり、桃の木を見上げて聞いた。
「以前も長子皇后様を救えと言ったわね。あれはどういう意味?」
『ソレは チョウシから言うべきこと ダカラ言わ ない』
「長子皇后様が私に教えてくださるということ?」
『誰でもいい ゲンショウセツ で長子のヒミツ 暴いて』
ざあっと風の音がして、花たちは喋らなくなってしまった。
■
「一体何なのよ……」
仕事を終え、帝哀の養心殿に戻った紅花は溜め息と共に呟いた。
花があそこまで強い意思を持って何か伝えてくることは難しい。本来他愛もない世間話が好きな存在だ。余程長子皇后に強い思い入れがあると思われる。
「どうした? 溜め息を吐いて」
茶を淹れる紅花の後ろから帝哀が話しかけてきた。「ひゃあっ」と高い悲鳴を上げてしまった。思考に集中していて好きな人が近付いてきているのに気付かなかったなんて恥だ。
「な、何でもありません。あ、帝哀様もお茶、呑みますか」
「ああ。頼む」
裁判終わりらしい帝哀が椅子に座る。その半身は焼けており、今日も罰を受けたことが窺えた。紅花は何度も自分が代わると申し出たのだが、帝哀は断固として拒否してくる。その姿を見て心を痛めながら、帝哀の痛み止めの薬の準備もした。
一緒に寝るようになって数日、帝哀とは食事も共にするようになった。多忙な帝哀が養心殿に帰ってくる時間は短いが、自分の宮殿に滅多に人を入れない帝哀にここにいていいと言われるのは嬉しかった。
薬を湯に溶かし、帝哀に呑ませる。
罰を受けた後は腕すらも動かしづらいだろうに、一人の時はどうしていたのだろう。紅花がいなくなった後はどうするのだろう。心配は尽きない。
苦い薬を匙で少しずつ口に含ませているうちに、少しずつ帝哀の火傷痕が治っていく。さすが冥府の王だ。怪我の治りも早い。
「……お前は、俺のこの姿に怯えないな」
「怯える? どうしてですか?」
「普通は焼け爛れた身体なんて見たくないだろう」
「そのお姿は、帝哀様が閻魔王として責任を果たした証拠、勲章ですよ。むしろ愛おしいです」
「……変わった奴だ」
「それに、地獄では焼け爛れた人間なんていくらでも見てきましたから。私は元獄吏ですよ? 人を苦しめてきた存在です」
「ろくに仕事をしていなかったと聞いたが?」
「なっ……何でそれを」
「お前のことを少し調べさせてもらった。獄吏の同僚は口を揃えて〝あいつは恐ろしい女だ〟〝俺は弱みを握られ脅されていた〟と言っていた」
ぎくりとする。人を苦しめるのが嫌すぎて、鬼の弱みを握って仕事から逃げていた過去など、帝哀には知られたくなかった。
「俺の弱みも握るつもりか」
「無理ですよ、それは。私は鬼の心しか読めません。帝哀様のお心も見えません」
「獄吏にしては変わった能力だ」
「出来損ないなんです、私は。元々獄吏の適性があったわけではなくて。帝哀様と離れるのが嫌で、無理を言って冥府に残してもらいました」
「……獄吏の同僚もそう言っていた。お前は余程俺が好きなのだろうと」
恥ずかしくなってきて、薬の器を持ったまま縮こまった。
「ほ……他に何か聞きましたか? っていうか、どうして私のことなんて」
「共に暮らす人間のことを知りたいと思うのは不自然か?」
確かに、帝哀にとっては初めての同居人だ。疑い深い帝哀なら徹底的に調べ上げたいところだろう。
「……分かりました。何でも調べてください。それで帝哀様が私と暮らしていく上で少しでも安心できるなら。……と言っても、そろそろ私は飛龍様の区域に戻されるとは思いますけど」
そう言うと、帝哀が紅花の方を向いて不思議そうに首を傾げる。
「何故だ?」
「私は元々向こうの区域の鬼殺しですので。ここへ送られたのも天愛皇后様のご命令があったからこそです。長子皇后様の召し物についての情報は得られたので、そろそろ呼び戻されると思います」
帝哀は眉を寄せた。
「ずっとここにいればいいだろ」
「…………はい?」
何を言われたのか一瞬理解できず、目をぱちぱちさせてしまう。
「鬼殺しとしての仕事を辞めればいい。俺が命じれば逆らえる者もいない。俺から言っておく」
(私、そんなこと言われたら、勘違いしちゃいますけど!?)
嬉しいような、どういう感情を抱いていいか分からないような。これは帝哀の気紛れだ、自惚れてはいけないと自分に言い聞かせながら、ふと思い出すのは魑魅斬や玉風のことだ。宋帝王の区域には彼らもいる。
「ご提案は嬉しいのですが、私にも家族のような人がいまして……」
「飛龍の区域にか?」
「はい。元々獄吏として一緒に働いていた姉貴分と、鬼殺しになってから毎日夕食を作ってくれた兄貴分がいます。なので、その人達にも会える環境にはいたいというか。私、この養心殿にいたら帝哀様とずっと一緒にいたくなっちゃいそうですし……」
ごにょごにょと複雑な感情を吐露すると、帝哀が突然ふいっと顔を背けた。
驚いてその表情を追うと、拗ねたような顔をしている。
紅花は慌てた。
「でも、夜はできるだけこちらに来たいと思います! できることなら! 昼間は宋帝王様の区域で鬼殺しとして働いて、夜大急ぎでこちらに来るとか! どうでしょうか!?」
「宋帝王の区域は最南端だ。最北にあるこの場所にそう簡単には来られないだろ」
「その辺は……どうにか運び鬼を脅して連れて来てもらいます」
大真面目な意見だったのだが、帝哀にとってはその返答はおかしなものだったらしく、くっくっと肩を揺らして笑われる。
帝哀が笑うのは珍しい。意外な表情にときめいた。
「いい。俺が使者を送る」
「そこまでしていただいて良いのですか?」
「お前にやらせると被害者が出るからな」
帝哀はからかうように言った。すぐ鬼を脅すような女だと思われただろうか、と紅花は反省する。
「ありがとうございます」
大人しくお礼を言うと、帝哀はふっとまた笑った。
――最近、表情が柔らかくなった気がする。
しばらく話して帝哀の火傷も大分綺麗になってきた頃、ふと桃の花の不可解な態度を思い出した。帝哀なら何か知っているかもしれない。
「あの、桃の花園のことなのですけど……あの桃の木は、長子皇后様が植えたものですか?」
帝哀の茶器を持つ手が止まった。
「子供の頃、俺と、俺の家族、長子と長子の家族で計画して植えさせた」
「……仲がよろしかったのですね」
「俺と長子の家同士は密接な関係にあるからな。家の付き合いでよく会っていた。中でも特に桃の木を愛していたのは長子だ。木が育つまで、毎日のように面倒を見ていた。そんなものは庭師にやらせればいいと止められても、木を愛でるのはやめられなかったようだ。大きくなってもあの桃を気にかけている。ただの花園にあれ程の数の庭師を雇っているのはこの区域内でも彼女くらいのものだ」
やはり、桃の花が長子を気にかけているのは、長子が愛を持って接してくれた親のような存在だからであるらしい。
「何故そんなことを聞く?」
「あの桃の花が長子皇后様を気にかけているからです」
「……そうか。お前は花の声も聞けるのだったな」
「花が長子皇后様を救えと言うのです」
帝哀の眉がぴくりと動く。
「お心あたりがあるのですか」
「あいつはやはりまだ――いや。俺から言うべきことではないな。もし、長子が助けを求めたら、その時は助けてやってくれ」
紅花は一瞬、黙り込んだ。
恋敵に手を貸すのは癪だが、帝哀の頼みであれば断れない。
……一体あの皇后は何を抱えているというのだろう。
「……分かりました」
腑に落ちないまま返事した。