■


「それでそれで、帝哀様ったらとってもお優しくて……」
「その話は今日で五回目だが」

 梅の木の下、長子皇后が呆れ声を出す。紅花が何度も帝哀と会ったことを自慢しているからだ。

「牽制よ、牽制。私はこんなに帝哀様と仲が良いのよっていう」
「正妻に対して牽制とは、随分強気なものだな」
「貴女を倒さないことには帝哀様を手に入れられないもの」
「側室ではだめなのか?」
「正妻じゃないと嫌」
「物好きめ」

 くっくっと長子皇后が低く笑った。

「……貴女は帝哀様がお嫌いなの?」

 〝物好き〟という言葉が引っかかって問いかける。

「嫌いというわけではないが」

 長子皇后は煮え切らない返事をした後、黙り込んでしまった。

「好きじゃないなら譲ってよ」
「そう簡単に譲れるような立場ではない」

 確かに、一度皇后になってしまった者がその座を他の者に譲った例など冥府の歴史において一度もない。長子皇后の言うことももっともだ。
 紅花は溜め息を吐いた。

「じゃあ、代わりに今度貴女の宮殿に私を招待してくれない?」
「何故だ? 本当に図々しいな、そなたは」
「無償で護衛してあげてるんだからそれくらい許してくれたっていいでしょ」
「身分の低い者を招き入れるのは我の侍女たちが嫌がる」
「やっぱり、長子皇后様の侍女たちは自尊心が高いのね」
「まあ……この我の侍女だからな」

 長子皇后は、美しさも身分の高さも教養も、この冥府では一番だろう。そんな彼女に直接的に仕える立場。調子に乗ってしまうのも無理はない。

「元宵節の準備は進んでいるの?」
「元宵節の準備? そんなもの、とうの昔に済んでいる。当日に着る、桃の樹皮と蘇芳の芯材を使って染めた、朱雀のぬいとりを付きの最高級の召し物を侍女が用意してくれた。閻魔王の皇后が代々慶祝の日にのみ被る金の髪飾りの手入れも済んでいる。我の侍女たちは毎年この時期になると張り切っているのでな」
「ふうん……」

 朱雀のぬいとり。かなり造るのが難しい刺繍だ。これを知って今から準備しても天愛皇后は勝てないのではないかと思った。
 しかし、何はともあれこれで用事は済んだ。天愛皇后から命じられたのは、長子皇后が元宵節でどんな衣装を着るのか把握すること。これ以上この恋敵と馴れ合う必要はない。

「そろそろ帰らない? 宮殿まで送っていくわ」
「待ってくれ」

 立ち上がった紅花の手首を長子皇后が掴んで引き止める。

「まだ月を見ていたい」

 儚げに笑う長子皇后の後ろに大きな月が見える。普段から美人だとは思うが、月と並ぶと更に美しさが栄える。

「……似合うわね」
「え?」
「月と貴女。お似合いだと思うわ」

 そう言うと、長子皇后は頬を染め、満足そうに目を細めた。

 まるで、恋をしているあどけない少女のように。



 長子皇后を宮殿まで送り届けてから帝哀の養心殿に戻ると、門の前に帝哀が立っていた。月を見上げるその横顔の火傷痕は、いくらか薄くなったように見える。自分が代わりに罰を受けたおかげだと思うと何だか誇らしかった。
 話しかける前に、帝哀が紅花の方を向く。深緋色の瞳と目が合い、どきりと胸が高鳴った。

「遅かったな」
「……私を待っていてくださったのですか?」
「この養心殿は普段厳重に施錠されている。お前一人で入ることはできない」

 帝哀に手を差し伸べられた。紅花がまだうまく歩けないと思っているのだろう。
 紅花の体は丈夫だ。鬼殺しの日々を通してより丈夫になった。だから、足も既に走れるくらいには回復しているのだが――帝哀に触れたい気持ちに負け、その手に甘えた。

 導かれるまま養心殿の中へ入る。繋いだ帝哀の手はひんやりとして気持ちが良い。
 夕刻まで休んでいた部屋は一階の奥にあった。揺らぐ炎を消し、お礼をする。

「わざわざありがとうございました」
「ああ」

 少し待つ。帝哀がいつまでも立ち去らないので不思議に思った。

「寝ないのか?」
「寝ますけど……」
「なら、早く寝ろ」

 帝哀はそう言って奥に進み、寝台の隣の椅子に座る。

「……夜も一緒にいてくださるおつもりですか」

 勘違いだったら恥ずかしいと思いながら、おずおずと聞く。

「罰を受けた日に一人で眠るのは嫌だろう」

 ――もしかしたら帝哀にも、一人で眠りたくないと思う夜があったのかもしれない。きゅうっと胸が締め付けられる心地がした。

「では、一緒に寝てください」
「は?」
「座って眠るのはお辛いでしょう」

 帝哀の手を引く。意外にも帝哀は抵抗しなかった。
 共に同じ寝台の上で寝転がり、目を瞑る。

(全然眠れない…………)

 こんなにも近くに好きな人がいる。
 幸せを噛み締めながら、寝よう寝ようと必死に頑張る一夜となった。


 ■


 その日から、紅花は帝哀と同じ寝台で眠るようになった。帝哀が何故ここまでしてくれるのかは分からない。おそらく、紅花に火傷を負わせた責任を感じているのだろう。

「幸せ……」

 紅花は庭の手入れをしながら、帝哀の手の感触や唇の感触を思い出していた。今日も仕事が終われば帝哀の養心殿へ戻れる。
 今日何度目かの喜びの溜め息を吐く。周囲の庭師たちには訝しげな目を向けられた。

 昼休憩の時間になった。庭で働いている途中あまりににやにやしていたため不気味がられたのか、今日は一人だ。誰も紅花に近寄らなかった。
 少し寂しく思いながら盒飯を食べていると、誰かがこちらに近付いてくる気配がした。
 まさか、と期待して振り向くが、そこにいたのは――飛龍だった。

(何だ……帝哀様じゃなかった。そりゃそうね、今頃帝哀様は職務を全うしている頃合いだわ)

「ちょっとぉ、今あからさまにがっかりした顔したでしょ。誰だと思ったの?」
「帝哀様が好きすぎて、誰の足音も帝哀様のものに聞こえるようになってきたみたい」
「色ぼけしすぎでしょ。天愛に言われて来てるってこと忘れてないよね? 依頼の調子はどうなわけ?」

 飛龍が紅花の隣に座る。当然のように距離感が近いので不快だ。もう少し離れて座れと思った。

「当日の長子皇后のお召し物は……、……」

 偵察の進捗について伝えようとしたが、途中で躊躇いが生じた。長子皇后が祭りの日に何を着るかを既に知ってしまったということは、用は済んだということで。これを伝えれば、今日にでも宋帝王の区域に戻されてしまうかもしれない。

「…………接触はできているから、そのうち探っていくわ」
「君にしては遅いね。花の声を聞いて早々に情報を掴んでくると予想していたけれど」
「花だってさすがに長子皇后の元宵節での召し物については知らないわよ」

 まぁいいけど、と飛龍はつまらなそうに言った後、紅花の盒飯を勝手につまみ食いした。

「それより、長子皇后に皇后の座を降りてもらうにはどうしたらいいと思う?」
「君それ、本気で言ってんの?」

 帝哀のことで頭がいっぱいな紅花を、飛龍は馬鹿にしたように笑った。

「王や皇后の座を降りた者がその後どうなるか知っている?」

 紅花はふるふると首を横に振る。

「冥府を追放され、人として現世に生まれ変わるんだ。勿論、冥府にいた頃の記憶は全て消える。冥府の者にとっては唯一の実質的な〝死〟だよね」

 飛龍は続けてこう説明した。冥府の鬼は死ぬが、人は死なない。死んでも生き返る。長い時間続く罰に耐えてもらわねばならないのに、呆気なく死なれたら困るからだ。冥府では、人は何度死んでも生き返る。そういう風にできている。
 紅花はそれが冥府の人々全体の原則だとは知らなかった。死なないのは地獄で罰を受けている人達のみであり、卒業した後はあくまでも長寿なだけで、いつか死ぬのだと思っていた。
 現世。地獄を卒業した紅花が本来ならば行くべきだった場所だ。何度も頼み込んで冥府に留めてもらった。帝哀に会うために。
 現世へ行けば帝哀への恋心も忘れてしまうだろう。確かにそれは、実質的な死かもしれない。

 ふと、長子皇后の言葉を思い出した。

 〝我の死後はそなたにこの地位を譲る〟――。

「…………」

 本来死ぬことのないはずの長子皇后が、あっさりと死という言葉を口にしていた、その意味が分からなくなった。

(長子皇后様は、自死しようとしている?)

 王も皇后も死なないにせよ、数十兆年すれば老いて判断力が低下する。役目を全うできなくなり、自らその役目を他の者に譲るのが一般的だ。しかし、長子皇后はまだそこまで老いていない。皇后の座を降りるとしてもまだまだ先の話。それこそ、気が遠くなる程の時間が残されているはずだ。それなのに、今から死後を意識するのはおかしい。
 考えられるとすれば、自ら退位の時期を極端に早めようとしている――即ち、死のうとしているということ。